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2011年10月の一枝通信

a:2544 t:1 y:0* 2011年10月の一枝通信 [#we54d2db]

10月16日その1

みなさま

ゆうべから南相馬に来ています。
9月になってからの毎日曜日、ホテル六角を会場にして
皆様からの支援物資の衣服やふとん類を配っています。
各仮設住宅に食品を配りにいった時に、
次の日曜日あさ8:30から六角で配給することを伝えているのです。

ゆうべ私が六角に着いた時には、既に子供服、婦人服、
紳士物、セーター、ズボン、コートなどが仕分けされて
段ボールに入っていたりハンガーにかけられていました。
以前にもお伝えしましたが、これらは地元ボランティアの方達が仕分けされたのです。
この方達は10数年前からこの地で、
産業廃棄物処分場建設反対の運動を共にしてきているのです。

処理場建設予定地は農業用灌漑用水池のすぐ上で、
そんなところに産廃処理場が出来たら田畑に流す水にも、
また煙突から出る煙に依っても、ダイオキシンが撒き散らされることを案じて、
反対運動をしてきたのです。そしてこの運動は今も続いています。
そうした市民運動は、いわば未来の社会へ向けての
ボランティア運動とも言えるものでしょう。
3・11以降、自ら被災者になりながら被災者への
ボランティア活動をされているのも、こうした経緯を経てのことです。

さて、今朝。配給は8;30〜と伝えていたにもかかわらず、
もう6:30頃から表で待っている人たちがいるのでした。
7:00過ぎにボランティアの方達も集まって来ました。今日は総勢14人。
あいにくの雨だから早くに始めましょうということになり、7:30〜始めました。
その時点で、表にはもう長蛇の列が出来ていたのです。
雨でしたから外にシートを広げてやることは出来ません。
六角の食堂の中に数人ずつ入ってもらって5分と時間も制限して、
それぞれの方に必要なものを選びとってもらいました。

毛布は各家庭で1枚だけとしました。
厳しいようですが、「ごめんね。貰わない人が無いように、
みんなに配りたいから今日は1枚だけにしてね」と断りながら。
衣服は各自で必要なものを選んでもらって、
その他にこれもまた予め大きなゴミ袋に入れて用意してあった
野菜や米などの食品と共に配りました。
今日は300人以上の人が来て、
みなさんがそれぞれ物資を持って帰ったのは10:00過ぎでした。
この時点で、いえ途中から、もう毛布は無くなり、
こたつふとんもわずかしかなかったので直ぐに無くなりました。
「あ〜、もう毛布は無いの…」「こたつふとんが欲しかった…」とがっかりする声が、
何人もから聞かれました。

とりにきた人たちが帰ってボランティアたちも一息ついた後、新しく出来た仮設にそれらを運びました。

この頃には空も晴れてきました。
仮設について駐車場にブルーシートを3枚敷き、
そこでまた衣服を広げると直ぐにみなさんが出てきて選び始めました。
たぶん子供や家族の服を選んでいたのでしょうか、
まだ若い男性がじっくりと品選びをしている姿もありました。
もしかしたら子どもたちのお母さんは、
亡くなったのかもしれないと思うと胸が痛いことでした。

今日配った衣服の中には、田中康夫さんを通して送られてきた
婦人用の新しい下着類がたくさんありました。
下着を必要としている方達はまだまだ居ますが、Sサイズは余っています。
もしこれから送って下さるなら、どうぞLサイズを送って下さい。
仮設の方達はお年寄りが多く、みなさんゆったりと着たい方ばかりです。
毛布、こたつ掛けはまだまだ足りません。
こたつ掛けはサイズ一辺が185㎝のものがありがたいです。
こたつが75㎝四方のサイズです。
食品もお願いしたいですが、米は少し待って下さい。
もちろん米はとても必要とされているのですが、
いま現地の米屋さんと交渉しています。
みなさんのところから現物を送って頂くと送料も嵩みますし、
その分を現地の米屋さんから購入すれば現地にお金が落ちることになりますから、
出来ればそうしたいと思います。

交渉が出来たら送金先をお伝えしますので、
そこに送金して六角に米を届けるようにして頂きたいのです。
今日も野菜の袋の中を見て「あ〜、なんだぁ。
米がなかった。レトルトご飯だった」とがっかりの声もありました。
米を入れることの出来た袋もたくさんあったのですが、
中には米が足りなくなってレトルト飯が入っていた人も居たのです。

そしてやはり今日も、「何でもっと早く支給しに来ないんだ」と
ボランティアに憤りを向ける人も居ました。
ボランティアの人たちは「ごめんね。早く来たかったけどなかなか来れなかったからね」などと、被災者に溜まっているだろうストレスを
受け止めてあげていました。
以前もお伝えしましたが、
仮設暮らしの方達の心のケアの為にも食品類は必要です。
どうぞ今後も支援をお願い致します。
物資の送り先は、下記です。                           

いちえ

〒975−0049 福島県南相馬市原町区大甕字林崎51 
ビジネスホテル六角 大留隆雄さん宛

Tel 0244−24−2639 

10月16日その2

みなさま

同じく南相馬からの報告です。

私は南相馬へ来るのには、JR福島駅から福島交通の急行バスを使って来ます。
バスは福島市内を抜けると、車窓に稲田の見える中を行きます。
先週は刈り入れ前の田もかなり見受けられましたが、
今回はほとんどの田んぼはもう刈り入れが済んでいました。
この辺りでは刈り取った稲を干すのに、物干竿のように
長い竿に並べて干すのではありません。
2m程の長さの竿を縦に1.5mほどの間隔をあけて1列に並べ立て、
その1本1本の下の方に短い横木を渡します。
ちょうど十字架を逆さまに並べ立てたようにです。
その十字架(?)に稲束を、下から交互に十文字に掛けていくのです。
するとちょうど、とんがり頭の稲束小僧がお行儀よく"前へならえ”と
並んでいるようなのです。

後ろの少し色づき始めた山々を背景に、
その稲束小僧の列を見て田畑の持ち主を思います。
大事な稲束小僧の列にそっくりと網をかけて、
雀たちから守っている人の、田植えから収穫までの丹精の日々を思います。
そしてバスは、やがてせせらぎの聞こえる渓谷に添って山間を縫うように進みます。
相馬市役所、相馬営業所のバス停を過ぎ、
道の駅「相馬」を右に見て曲がると、南相馬市に入ります。
鹿島農協前のバス停を過ぎて少し行くと、
半径30キロ圏内になります。

この原町区に入ると、ここでは雀の姿を1羽も見ないのです。
田畑は、まるで花畑のようです。丈低く咲く、
一面の紅いタデ。あるいは大人の背丈程もある
一面のセイタカアワダチソウの黄色い花。
家々の庭には、朱に色づいた柿が実っています。

福島は梨やぶどうと並んで柿の産地でもありました。
今年もたわわに実った柿ですが、もぐ人もなく、
ただ時折からすが啄むだけです。
今日、豊中から支援物資で送られて来た段ボールいっぱいの柿を見て、
ボランティアのNちゃんがぽつりと言いました。
「家にも柿がいっぱいなってんだ。
でも、今年は食べられねぇ。裏の山から狸が来るから、
ばぁちゃんはもいで狸に投げてやってる」

今日は仮設住宅を回った後でまた海岸の方へ行き、
辛くも津波から免れた家を訪ねました。
津波が来た時の生々しい様子を話してくれた後で、
「はぁ、もうみんな流されてしまった。
家の前にはもっと何件も家があったんだよ。
どこもなくなっちまって、もう淋しくてなんねぇ。
隣ははぁ、アメリカになっちまった」
確かに太平洋を隔てて向こうはアメリカですが、
おばあさんは冗談や自嘲のように言っているのではなく、
本当に集落の人たちが居なくなった淋しさを言っているのでした。
この組(このあたりでは集落の単位を「組」で言います)には
13戸の家があってそこでは9人が亡くなったそうです。

また、おばあさんは「息子は栃木に行ってしまった。
我が家は腰が悪くて歩けないじいさんとおれと二人だけだ」と言うので、
息子さんは避難されたのですかと尋ねると
「いや。息子は消防に勤めていたから、
津波の後で何人もの遺体を引き上げたりしたもんで、
そうしたことを夢に見てここに居ると怖くてなんねぇと言って、栃木に行って向こうで働いている」と。
こうした人たちの精神的なケアも、
きっとまったくなされていないのだろうなと思いました。

これまでは小中高とも学校は閉鎖していて、
子どもたちは30キロ圏外の他校へバスで通学させていました。
このホテル六角のすぐそばにも大甕小学校がありますが、
子どもたちは毎朝大甕小学校まで行き、
みんな揃うとバスで圏外の学校へ運ばれて間借り教室で勉強をしていました。
市内の各校とも除染がされて、
明日からはそれぞれの学校での勉強が始まります。
大甕小学校は以前は在校生200名程だったそうですが、
現在は70名に少し欠けるそうです。
不安は尽きません。                                    

いちえ

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