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2011年11月の一枝通信

2011年11月の一枝通信

11月16日

みなさま

また、南相馬に来ています。
常磐線が不通ですから、
ここに来るには新幹線で福島に出て福島から急行バスで来ます。
8月から何度か通っているのですが、
9月になってここではスズメの姿を見ないことに気付きました。
バスで来るのに原発から30キロ圏内に入ると
、畑地は耕作されずに草ぼうぼうです。
これまでだったら辺りには稲穂が揺れる光景が広がっていただろう地が、
セイタカアワダチソウやタデ、エノコログサの原になってしまったのですから、
それでスズメも居ないのだろうと思っていました。

それから何度か通ったのですが、
やはりスズメを見ることは無く、
カラスも海岸へ行けば数羽見かけましたが
ほとんどみかけませんでした。
けれどもハクセキレイや青サギなど水辺の鳥は
くるたびに目にしていました。
私はスズメの居ないことが気になっていました。

草木のあるところや薮、山に居る小鳥の姿が無いのは、
放射能の影響もあるのだろうかなどと思ったりもして。
ところが今日は相馬市に入ってしばらく来たところで、
ムクドリの大群が空に舞うのを見ました。
そして、数羽のスズメも見たのです。
南相馬市に入ってからもまた、
数羽のスズメを見かけました。
いつも泊まる宿に着いてそのことを話すと、
宿の人が「トンビが帰ってきたんです」と、
嬉しそうに言うのです。

聞けば、地震の後に鳥たちはみな居なくなり
この何日かで”戻ってきた”と言うのです。
原発との因果関係は判りませんし、
あるいは全く関係なく何か別の理由でのことかも知れませんが、
話してくれた宿の奥さんは
震災以前は日頃からスズメに残飯を挙げたり、
カラスの鳴き声を聞き分けて
名前をつけて呼んでいたりする人ですから、
たまたまここに通ってくる私の目だけで感じていたことではないでしょう。
それにしても、この数ヶ月スズメが消えてしまった謎はつきません。

今日は市内の借り上げ住宅に住んでいるTさんから
話を聞きましたが、
特に印象深いことをお伝えします。
Tさんは衣服を造る工場を経営していて、
そこでは中国人も何人か働いていたそうです。
原発の事故が起きるとすぐに彼らには
中国政府から帰国の指示が出され、
福島駅から新潟空港までのバスがチャーターされたそうです。
そして新潟から飛行機で帰国という手筈がとられたそうです。
放射能被害を案じて即帰国せよの指示を出し
その処置をした中国の話を聞いて私は、
「ただちに健康に影響はありません」
と繰り返したこの国を思いました。

日頃はチベット問題や人権問題などで
中国政府に対して大いなる批判を感じている私ですが、
この件に関してはその処置をうらやましく思いました。
中国政府の処置は
たぶん他に思惑もあってのことだろうとは想像しますが、
それにしても、です。

中国ばかりでなく各国の政府が同様の処置をとったことは
3月の時点で新聞やその他のニュースで知ってはいましたが、
実際に福島駅まで中国人従業員たちを送り
新潟空港へのチャーターバスに乗せた人から話を聞くと、
改めて彼我の違いを思いました。

既にお伝えした方には重複しますが、
お薦めしたい本があります。

★『3・11後の放射能「安全」報道を読み解く』
影浦 峡著/現代企画室刊/1000円+税
副題に「社会情報リテラシー実践講座」とありますが、
混乱した情報を整理する為の視点と指針を得るのに、
私には大いに役立ちました。

著者は東京大学大学院教育学研究科教授。
専門は情報媒体論、言語論、言語情報処理。
国際計量言語学会副会長、計量国語学会理事など歴任。
ホームページhttp;//panflute.p.u-tokyo.ac.jp/~kyo/ http;//researrchmap.jp/kyokageura/
ブログ  http;//kyokageura.seesaa.net/
目次だけ記しておきます。
目次
1、はじめに
2、「科学」「安全」「安心」 問題を整理する
3、「基準」「被爆」「単位」 基本的な知識を整理する
4、基準と数値 報道を読み解く(1)
5、安心と安全の語り 報道を読み解く(2)
6、「安全」報道の波及効果
7、「安全」の視点から考える
8、おわりに
あとがき   注

新書判で読み易い本です。               

いちえ  

11月17日その1

みなさま
11月2日、永平寺で催されたシンポジウム
『いのちを慈しむ 〜原発を選ばないという生き方〜』に参加してきました。
この催しに参加しようと思ったのには、いくつか理由がありました。
原発問題に関してなぜ宗教者は黙っているのだろうかと思っていたこと、
また、永平寺のお膝元である福井県の原発になぜ、
「もんじゅ」「ふげん」という菩薩の名が付けられたのか
という疑問をもっていたからです。

シンポジウムは前半が飯舘村の酪農家、
長谷川健一さんと小浜市妙通寺住職の中島哲演さんの講演。
後半が作家でエッセイストの朴 慶南さんのコーディネートで
講演者のお二人がパネラーとなってのパネルディスカッションです。

会が始まって進行役のお坊様や、
開会の挨拶をされたの話すのを聞いても、
何かすっきりしない心地の悪さを覚えました。
進行役は開口一番に、
「この会は脱原発や反原発の運動でありません。
講師の方のお話やパネルディスカッションを聞いて、
原発に対してそれぞれの方がご自分でしっかりと考えて頂きたいということで
このような会を持ちました」と言ったのです。

次に実行委員長の永平寺副監院の松原徹心さんの開会の挨拶は
「私たちは今、大事な事態に直面しています。
落ち着いて静かに事態を見つめ、
正しい判断を頂く為にこの集会を持ちました。
釈尊の悟られた”万物は共生”しているということを、
よく考えて頂きたい。
私は、原発には賛成でも反対でもありません。
福井にはたくさんの原発があり

”もんじゅ””ふげん”もあります。

動燃の代表が文殊菩薩の智慧と普賢菩薩の慈悲をもって
理想的な原発をと言ってきた時に、
禅師が『それはいいことだ。
人間の智慧が大勢の人の為になるよう発展して欲しい』と応えられた。
……憎しみを越えて行かねばならない。
ただし生き方を学んで欲しい」といった内容だったのです。

ここまで聞いて私は????となり、改めて案内の葉書を見ました。
「問い合わせ先」として
「大本山永平寺 禅を学ぶ会事務局」の名が書かれていますが、
「主催」とは記されていないし、
禅を学ぶ会事務局は永平寺本体ではなく
その中の有志たちなのだと気付いたのでした。
大きな組織の中で声をあげることの難しさが、
何とも歯切れの悪い挨拶になったのでしょう。

長谷川さんのお話は以前にも聞いていましたが、
何度聞いても当事者の叫びは胸に響きます。
スクリーンに動画や写真を映して
原発事故発生後の様子を語りました。

行政は村民に情報を伝えず、
“専門家”を福島に招いて「安全です。
ただちに健康に影響はありません」とばかり言って、
避難をさせなかったと憤りをもって話されました。
友人の酪農家は壁に「原発さえなければ」
の文字を書き残して首を吊り、
102歳のあばあさんは
「私がいては足手まといで、
避難の邪魔になるでしょう」と言い残して自殺。
また「私は墓場に避難します」と書いて自殺した老人のことなど
、原発により死に追い込まれた人たちの無念を話しました。

そして「除染するって言ったって、山なんか除染できっこないっぺ」
と強い口調で語り、「自分は帰れても、
子供や孫たちには危険で帰せない。
自分は帰ったとしても、
もう農業も酪農もやれなければどうやって暮らす?」と、
行政の帰村計画に疑問を提示しました。
女子高校生が「私はもう結婚なんか出来ないんだろうね。
もしも、もしも好きな人と結婚できたとしても、
子供は生めないんだろうね。
どんな子が生まれるか判らないから、
子供は生まない方が良いんだろうね。
だから生めないよね」と言った。

子どもたちには飯舘村出身というブランドがついて回るんですと、
被曝への怯え、差別への怯えを持ちながら生きる現状が話されました。

中島哲演さんは小浜市の真言宗妙通寺のご住職で、
1963年に友人に誘われて参加したヒロシマ平和集会で
一人の被爆者に出会ったことから被爆者の救援活動を始められ、
その頃から原発問題にも目を向けて、
もう40年以上も反原発の運動を続けているそうです。
被爆者の苦しみは自分一代の苦しみではない。
一般の人には祝い事である子供の出生などでも、
被爆当事者には大きな苦しみとなると、
具体的な例をもって話されました。

また原発を推進する側の資料においてさえ
477,000人の被爆した原発労働者を生み出したことや、
若狭湾だけでヒロシマ原爆40万発分の死の灰が作り出されているなど、
具体的に数字をあげられながらのお話は、
鋭く胸に刺さりました。

こうしたことの素には、
日本が近代化を目指したことに端があるのではないか。
明治以前の日本には確かに封建的な面もあって、
必ずしも全て昔が良かったのではないが、
黒船が来て欧米の技術などに目を奪われて
”脱亜入欧”の道を突き進んだことに
根があるのではないかと話されました。

原発問題を考える時に話題になるのが「安全神話」だが、
もうひとつ忘れてならないのは「成長神話」だ。
大量生産、消費、廃棄で、原発はこの電力版だ。
それを一文字に集約すれば『貪』で、
確かに便利で豊かな生活をもたらしたが
他方では格差を生み出し、
環境、生物多様性に深刻な破壊をもたらした。
こうした社会からの新たな転換を目指す理念として、
これもまた一文字で表すなら『貧』を挙げたい。

どちらの文字にも『貝』があるが、
貝はかつては貨幣の原型となったものであり
豊かな自然そのものだ。
『貪』は目先のそれを貪り、独り占めすること。
『貧』は否定的なイメージで見られることが多いが
素直に文字を見れば、
分かちあうことに意義があろう。

仏教者らしいお話もまた、胸に響きました。
中島さんの話で知ったのですが、
1993年に敦賀で「原子力行政を考える宗教者の会」が、
宗教、宗派を越えて発足していたのだそうです。
この会に参加しようと思った動機のひとつ
「原発問題に関して宗教者はなぜ黙っているのか」という疑問は、
これで解けました。私が知らずにいただけでした。

後半のパネルディスカッションは文字通りのそれではなく、
コーディネーターの朴慶南さんが、
講演者のお二人から話足りないことを引き出すかたちで進められました。
中島さんの妙通寺のある小浜市には原発がありません。
それについての中島さんの話に、
改めて「脱原発」の声を大きくしなければと思ったのでした。

中島さんの話
小浜市も70年代に、
原発建設の話が持ち上がったことがある。
当時の市議会では21名が原発推進派、
残り5名(社会、共産、公明の各党議員)が反対だった。
市民が建設反対の署名活動をして、
有権者の過半数の署名が集まった。
市長は革新ではなくバリバリの保守だったが、
有権者過半数の意思を汲んで原発を受け入れなかった。
70年代、80年代には20数地点の市町村が原発を拒否している。
もし市民が黙っていたら70年代に4基の原発が作られていた。

朴慶南さんからの「最後に一言ずつ」に応えて。
長谷川さん
「差別の起きない社会を」

「原発事故を風化させずに教訓としていかねばならない」

中島さん
「安全神話、原発必要神話のカラクリを解明すべき。
原発は国内植民地だ。
原発廃炉の後始末をどうするか。
原発を止めてどうかを自分でよく調べて欲しい」

会の初めから進行役は「シンポジウムというと、
通常ですと最後に質問やご意見を頂くのでしょうが、
今日は申し訳ありませんが質問は一切お受けできません」と断っていました。
会が終了した時に会場から「一言良いですか?」
と手が上がりましたが、
やはり「申し訳ありませんが、
今日はこれで閉会させていただきます」と断りました。

それで私は、会の始めに????と思ったことが解けたように思いました。
永平寺の名を冠してこの集会を持つには、
本当に大変な軋轢もあったのだろうと推測できたのです。
たぶん、これが現時点でできるギリギリだったのかも知れません。
でも、永平寺は一歩を踏み出したのですから
もう後には引かないで欲しいと思います。
宗教者として、身を以て「いのちを慈しむ」範を示していって欲しいです。
組織の思惑に縛られずに、
ワタクシとしての意思を示し行動することの大切さを思います。

長々との永平寺シンポジウムの報告でしたが、
3日の東京新聞には、
地元の福井新聞よりも大きく記事が出ていました。            いちえ

11月17日その2

みなさま

今朝、ここ「原発被害からいのちと環境を守る会」
の拠点のホテル六角に、
パラグァイから支援物資の豆腐が30箱(1箱72パック入り)と、
長野県の有機農法農家からの大根30箱
(1箱に丸い大根10〜13個または長い大根10〜13本)が届きました。
パラグァイからの豆腐は私が初めてここを訪ねた時にも届きましたが、
定期的にこうして届けられているそうです。
入っている段ボール箱には、
「心はひとつ パラグァイ国民は日本を応援しています」
と印刷されて、被災地への支援物資であることが明記されています。

これはパラグァイの日系人たちが現地で育てた大豆を日本に送り、
日本の業者が加工したものです。
長野県からの野菜も生産者や季節に依って異なるものが、
やはり定期的に送られてきています。
県内の生産者同士で連携を取っての支援活動なのでしょう。
今日の送り状には
「丸大根はふろふきに、長大根はおでんにするとおいしいです」
と手書きで添えられていました。

いつものように現地ボランティア
(彼ら自身も仮設住宅や借り上げ住宅に住む被災者です)
たちは朝八時半に集合して、
手際よく物資を数えて分けます。
戸数の多い仮設住宅からは代表者に、
また借り上げ住宅の人などには取りにきてもらい、
残りは軽トラックと乗用車に積んで
仮設住宅に配りにいきました。

これまでにも何度か訪ねたことのあるところばかりでしたが、
今日は赤ちゃんの姿を見ました!
仮設住宅はどこもほとんどお年寄りばかりで、
赤ちゃんの姿を見たのは初めてのことです。
康成くんという名前の生後2ヶ月の赤ちゃんでした。
お母さんに伺うと、母乳でなくミルクで育てていますとのことでした。
もちろん水道水ではなく
ペットボトルの水を使っているそうですが、
「とても不安ですけれど、
この子がこうして生まれてきてくれたことを希望にしています」と、
まだ若いお母さんは言いました。
そう言いつつも、お母さんの体中から
”不安”のサインが溢れているような様子で、
私は返す言葉がありませんでした。

3月11日以前ならば、
「この子が生まれてきてくれたことを…」
の言葉に心から頷けたでしょうし、
またここが福島原発から遠く遠く離れた地なら、
素直にそう思えたでしょう。
一緒に行ったボランティアたち誰もが
「わぁっ、赤ちゃんがいる!」と歓声を上げたのですが、
きっとみなも複雑な思いだったことでしょう。

5カ所の仮設を回りましたが、ある仮設ではこんなことがありました。
各家に声を掛けて取りにきてもらったり届けたりしていたのですが、
集会所(仮設内に集会所が設けられています)
に何人か集まっていると聞いたので集会所に行きました。
ドアを開けて「支援物資を届けにきました」と言うと、
応対に出てきた人が
「いまここでは講習会をしているので、お断りします」
と言うのです。
応対に出た人は明らかにこの仮設の住人ではない人です。
役所の人か公的な仕事で来たらしい官僚じみた感じの人でした。

外からガラス越しに見ると白衣を着た人が
何か説明をしている様子でしたが、
何かは判りませんでした。
でもそれが大事な説明会であったにしろ、
応対に出た人が支援物資を断る理由は無いと思います。
中に居る人たちのために預かって入り口のあたりに置き、
帰りに持ち帰ってもらえば良いことなのです。

被災地によっては、ボランティアセンターや社会福祉協議会に
支援物資が配られないままが山積みになっていて、
食品など腐ってしまったものもあることを
実際に現場を見た人から聞いたこともあります。
人員不足ということもあるのでしょうが、
そればかりではなく今日私たちが体験したような公的機関の怠慢も
大いにあるのではないかと思います。

今日回った別の仮設住宅では、
やはり集会所に住民が集まっていて、
そこではボランティアによる”民謡教室”が開かれていました。
そしてその集会所の入り口には、
こんな張り紙がしてありました。

「喫茶 まごころ いつでもどうぞ。
おいしいコーヒーを入れて待っています」
いつもそこに居て、来た人にお茶を振る舞ったり、
今日のような催しのあるときの世話役をしているのは、
やはりこの仮設住宅に住む比較的に若い女性たちです。

仮設住宅は場所によってハード面でもかなりばらつきがありますが、
ソフト面でも住み心地には
かなり大きな差があることを実感した今日でした。          いちえ

11月19日

みなさま

今日も午前中は、仮設住宅を回りました。
今日の支援物資は米、餅、インスタントラーメンなどと、
今朝届いた白菜、小松菜、人参、
それに昨日も配ったた長野県からの大根です。
今日は昨日とは別の所に行きますから、大根はだぶりません。

米は小分けしてビニール袋にいれ、白菜は四つ切りにして、
小松菜はひとつかみづつを新聞紙にくるんで、
それらを大きなゴミ袋に入れて120所帯分を作りました。
米が足りなくなって入れられない袋にはインスタントラーメン、
または餅を入れました。
 
★仮設住宅の人がつぶやいた言葉から
「生きてるうちには、もう帰れねぇだろうな」
(20キロ圏内にあった家が津波で流されてしまった男性。79歳)

「避難所を何カ所も移って、9月にようやく仮設に入れた。
東電への怒りなんて頭に上ってくる暇はなかった。
毎日”あしたはどうなるんだべ?”
ということばっかりが頭にいっぱいで、
仮設に入れてようやくこの頃落ち着いて
3月の地震のときからのことを振り返れるようになった」
(同じく20キロ圏内津波で家を失った男性。76歳)

「両隣のお年寄りは足腰も不自由だし、
ここには同じ部落の人も居ないから知った顔がないと言って
ほとんど閉じこもってるんです。
こうして物資を届けにきてくれて、
少しでも話相手になって頂けると、
そうしたお年寄りたちも気がまぎれると思います。
ありがとうございます」
(津波には遭わなかったが20キロ圏内で家に帰れない男性。62歳)

夕方少し時間があったので馬事公苑に行ってみました。
半径20キロの線ギリギリに位置していますが、
そこの展示場に洗浄された写真類が展示されているのです。

写真洗浄作業は、私も始めて南相馬へきた時には
3日間ボランティアで関わりました。その時に、
洗浄した写真や物品類は馬事公苑に展示されていて、
被災者たちが見に来て自分のものを見つけると
引き取っていくと聞いていました。
津波で何もかも流されてしまった人にとっては、
「流された」ものは品物ばかりではなく、
それまでの自分の生きてきた”時間”
あるいは”生きてきた証”というものもまた、
すっかり流されてしまったと思えるでしょう。

そう思って丁寧に洗浄をしたつもりですが、
いかんせん写真などは塩水、
泥水をかぶって劣化し洗浄しても
残る部分はわずかしかない写真も多いのでした。

ざっと見たところでは私が洗浄した写真や、
トロフィーなどは見当たりませんでしたから、
関係者が見つけて持ち帰ったかも知れません。
そうだといいな、と思いました。

棚にはいくつものランドセルが並んでいて、
中には教科書が入ったままのものもありました。
赤いランドセル、
黒いランドセル、ピンクのランドセル。
津波にあった時間は、
ちょうど児童たちの下校時間帯でもありました。
地震の後で先生たちに引率されての下校ではあったと思いますが、
持ち主の子どもたちの安否を思いました。

ちょうど今日は、半径20キロ圏内の人たちの一時帰宅の日でした。
馬事公苑の前から先へ行く辺りには、
警察の車が止まりチェックの為の警官が大勢いました。
一時帰宅して戻ってきた人たちはそこで防護服やマスク、
手袋を脱ぎ、線量計によるチェックを受けていました。
今回の南相馬滞在は今日までで、明日は岩手に移動します。
しかし原発事故に因る被害の現状を見れば見るほど、
知れば知るほど、
『復興』など到底無理ではないかと思えてなりませんでした。                                                         いちえ 

11月25日

みなさま

先週は土曜日(19日)に南相馬から遠野に出て、
遠野で友人と待ち合わせまごころネットを通じての
ボランティアに参加して帰りました。
20日(日曜日)一日だけのボランティアでしたが、
行ってよかったと思っています。
遠野まごころネットを通じての活動は7月以来、
4ヶ月ぶりでした。

前回は最初が釜石、
2回目は陸前高田で瓦礫撤去をしましたが、
今回行ったのは陸前高田の仮設住宅でした。

内陸部の遠野から
ボランティアセンターの車で被災地まで行くので、
実際の活動時間は少ないのですが、
今回も行ってよかったと思いました。
始めに岩手県の被災地に行ってみて、
地震と津波の被害だけではなく
”放射能”を抱えてしまった福島の状況を知りたくて
通い始めた南相馬でした。

そして南相馬に通ってきながら、
もう一度原発事故の影響を直接受けてはいない
(とはいえ拡散された放射能は日本だけではなく
世界の各地にも影響を与えてはいるのですが)
被災地を見て、
どこが違うのかどこが同じなのかを
知っておきたいと思って行った今回の遠野行です。

今回行った陸前高田、
上長部の仮設住宅は偶然にも
前回私が瓦礫撤去に関わった場所のすぐ近くでした。
7月末に行った時に、
畑地だった所の瓦礫撤去をしたのです。

私たちがしたのは多分、
同じ畑地で何度目かの瓦礫撤去作業だったのではないかと思います。
始めはきっと重機で大きな瓦礫を片付け、
その後も何度か人の手によって片付けられていたと思われます。

けれども私たちが入った時にも、
まだまだ両手で抱えるような木材、
瓦や陶器片、硝子や鏡、位牌や仏具、
衣類などがたくさん散乱していました。
リーダーからは、「決してほじくり返さないように」
と言われての作業でした。
掘り返すと、下からまたさまざまな瓦礫が出てきて、
その日の作業の収拾がつかなくなるからということからです。

といっても頭だけのぞいていて
下が埋まっているものもありましたから、
それらは掘って除きました。
その日の作業を終えて土の上には
瓦礫の見えなくなった場所を見て、
そこを元のように畑地にする為の幾度もの作業と時間を思いました。
その日は表面だけは一応瓦礫が無いようにしましたが、
後日また重機で掘り返して
中から出てきた瓦礫を撤去するのでしょう。

そしてまたその日私たちがやったように
手作業での瓦礫撤去を何度か重ね、
すっかり瓦礫がなくなっても塩をかぶってしまった畑地です。

その土を作物を実らせる畑地にするには、
表面の土をとって新たな土を入れるかどうかして
畑地に戻すのだろうかと思ったのです。
気の遠くなるような手順だと思いました。
7月に瓦礫撤去をした場所は、
今回行ってみるとすっかりきれいに整地されて
グランドになっていました。

海岸線から1キロほど入ったところで、
ほんの少し高台ではありますが脇に川が流れる谷筋の、
細長くわずかに広い場所でした。
結局そこは耕作地に戻さずに、
グランドに変えたのでしょう。
そこから少し上がった所に2カ所仮設住宅がありましたから、
きっと住民たちの為のグランドとしたのかも知れません。
“気の遠くなるような手順だ”と思った場所が、
すっかりきれいに整地されていたのは、
なにやら嬉しいことでした。

今回の活動は仮設住宅の集会所での“足湯隊”でした。
ここで言う足湯は膝下までお湯に浸けるものではなく、
希望者にはほんの踝までをお湯に浸してもらって、
私たちはその間その人の手を揉みながら話し相手になるというものです。
遠野まごころネットを出発する前に、リーダーから手を揉む
”手当”の手ほどきを受けてのことでした。

足湯隊の活動というのは結局の所、
傾聴と”手当”ということのようでした。
集会所に集まった10数人の方達は、
順番を待ちながら私たちが用意した飲み物や
茶菓子を食べながらお喋りをし、
私たちボランティアも手が空いている人は
脇でそれを聞いたりお相手をしたりです。
40代のご夫婦もいましたが、
お年寄りが多かったです。
そこでの住民のみなさんの様子と、
南相馬の仮設の人たちの姿とでは
ずいぶんと違っていました。

まず、集会所の外には小さな子供や
その親たちの姿があります。
集会所にきたお年寄りも、
ここでは子供の家族と隣り合って住んでいたりしています。
被災前から一緒に暮らしていた家族は、
ここでも離ればなれにならずに一緒に居るのです。
それは南相馬とは大きく違っています。

もともと子供の家族とは離れて暮らしていた人が言いました。
「お正月がきても、
子どもたちをここには呼べないね。仮設は狭いからね」
実は同じ台詞を南相馬でも聞いてきました。
でもそれは意味合いが全く違っていました。
南相馬の人たちは、
放射能の影響を怖れての「ここには呼べない」でした。
また、この日足湯を受けに来た人の中にとても陽気なおばさんがいて
「ここは姨捨山だねぇ」と言って、
みんなを笑わせた人がいました。

実は「姨捨山」も、南相馬の仮設住宅を回っている時に
私自身が感じたことでした。
でもそれは、陽気に笑って言える言葉ではなく
先が見通せないやりきれないようなニュアンスで感じたことでした。

私自身が今回の震災の後で最初に入った被災地は岩手県でした。
そして福島県に通うようになり、
通う中で”放射能”を直接受ける地と、
受けない(と言いきると語弊がありますが)
地との違いを知りたくて行った今回でした。
今回の南相馬で「本当は行けるならどこかへ行きたい
。誰だってそう思ってるよ。
みんな神経がピリピリして暮らしてるよ」
という言葉を聞きましたが、
その言葉を聞かずとも私自身が南相馬で人々にあってそう感じています。
それが今回遠野に着いたときから、
そして遠野から陸前高田に向かう道中の風景にも、
陸前高田の仮設住宅の人たちからも福島で感じる
”ピリピリ”感がないのです。
被災前と同じにはいかないにしろ、
港も、畑も、人々の生活も、少しずつ戻っていけるだろうという
思いがあるからなのでしょうか?
17年前の阪神神戸大震災の後、
《復興》が報じられて震災の跡地は確かに
きれいなビルや商店街になりました。

けれどもハード面ではそうして復興されたように見えても、
住み慣れた地に戻れないまま孤独な暮らしから自死したお年寄りが
つい近頃もいた事実があります。
だから一概に放射能の影響が無い被災地は、
復興という希望があるとも言い切れません。
そのことは私も重々承知しては居るつもりですが、
それでもなお、福島と岩手との被災地の違いを感じて帰ってきました。
これからも南相馬に通いながら、
また他の被災地の様子も見ていきたいと思って帰ったのでした。

昨日(23日)は《脱原発をめざす女たちの会 11・23キックオフ!》集会が
座・高円寺で開かれました。
開会宣言は14歳のタレント、藤波心ちゃん。
閉会の言葉は病院から車椅子で駆けつけた吉武輝子さん。
今朝の東京新聞、毎日新聞には記事が出ていましたが、
たくさんの発言者の言葉から、私も多いに勇気を得た集会でした。

●12月1日から、また経産省前での座り込み。

●12月10日は「さようなら原発1000万署名」の集会
(日比谷野外音楽堂)とパレード。

●2012年2月11日、「さようなら原発1000万署名」全国一斉アクション、
全国主要都市&原発立地県一斉アクション、東京;代々木公園イベント広場ほか

●2012年3月11日、
「さようなら原発1000万署名」福島にて現地集会(東京よりバスツアーあり)
《脱原発をめざす女たちの会》も参加

●2012年4月7日、《脱原発をめざす女たちの会》集会、
(日本教育会館一ツ橋ホール)

●2012年6月2日、《脱原発をめざす女たちの会》講演と
パネルディスカッション、(日本教育会館一ツ橋ホール)
その他各地での動きがあると思います。
私も出来る限りは参加しようと思っています。    

いちえ

a:2426 t:1 y:1

                          

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