ようこそ、フォーラム色川のホームページへ

2011年12月の一枝通信

2011年12月の一枝通信

12月20日 南相馬より

みなさま

今日、また南相馬にやってきました。
先月までは福島から南相馬までの路線バスは海沿いの道を通って、相馬、鹿島を経由して通じていました。
今日は川俣町、飯舘村を通ってきました。
この道はこれまでもバスではなくタクシーや友人の車に同乗しての時には通っていましたが、ずっと片側工事中だったので路線バスはそれを避けて海沿いの遠回りの道で通じていたのです。明後日あたりからは南相馬と鹿島間の電車も開通するようになるので、地元の人たちにはまた少し助かるようになるでしょう。

今日は先月赤ちゃんの顔を見た鹿島地区の仮設を訪ね、話を伺ってきました。
康成チャンは4ヶ月になり、あやすと笑うようになりました。
抱きあげると首もしっかり座って、手足をしきりに動かしてそばにあった色のきれいなおもちゃもじっと見つめていました。
「放射能の影響が心配だし、こんな時に生んだことで康成には悪いことをしたと思うけれど、この子がこうして元気に生まれてきてくれてありがたい」
「夫も仕事からかえると、この子を抱いて『パパだよ、パパだよ』と言うんです」
複雑な思いを抱えながら、生まれてきた子供に希望を託したい両親の思いを話してくれました。
お母さんの友里子さんは、来月から康成ちゃんを保育所に預けて休職中だった鹿島地区の藤倉ゴムに職場復帰するそうです。
保育所は鹿島地区で、入所すれば康成ちゃんは最年少児。
30キロ圏外の鹿島地区のこの保育所は、0歳から5歳までの市立保育所だそうです。
今度来た時jには、その保育所も訪ねたいと思いました。
友里子さんは鹿島の生まれで実家も夫婦で暮らしていた家も津波で流され、夫の実家は原町区の雫で1階部分が壊れ2階は残ったそうです。
今夫の実家を住めるように直しているところなので、完成したら仮設を出てそちらに引っ越すと言います。
雫は30キロ圏内です。一律の線引きは放射線量の危険を正しく示さないとは思いますが、より近い場所への移動を私は不安に思いましたが口には出せませんでした。
お母さんにお友達で子育て中の方達は他所に避難した方もいますかと尋ねると、多くの友人は戻ってきたと言います。
新潟に行ったまま、もうそちらでの暮らしを選んで戻らない友人は一人だと言うのです。

政府は『収束』を宣言しましたが、とんでもないまやかしだと思います。
福島からのバスで飯舘村を通過する時、窓の外には防護服を来て畑を除染する人たちの姿が見えました。
それを見ながらも私は、畑の向こうの山の除染が出来なければ今見えている除染風景は気休めではないかと思いました。
道中車窓の風景は、北の斜面や影になるところにはうっすらと白く雪がかぶっていました。
その雪は木や草や土の放射能を吸い、雪が溶ければ、その水はまた放射能を含んで流れることでしょう。
あるいは蒸発して大気を汚染するのでしょうか?                                いちえ

12月20日その1

みなさま

午前中は原町区に出来た新しい仮設住宅を訪ねました。(これまで訪ねたところは全て30キロ圏外の鹿島地区に作られていた仮設でした)
この仮設は小規模で46戸ほどです。
萱浜(かいはま)にあった家が流され、今はこの仮設にすむ75歳のおばあさんの話です。
萱浜には120軒あまりの家があり、20軒は非農家だったが他はみな専業農家でした。
ここでは87人が津波でなくなり、22人は今も行方不明だそうです。
このおばあさんも娘さん二人と孫を亡くされています。
3人とも遺体は早くに見つかり最初の頃に荼毘にふされました。
そのことを「早く見つかってよかった」と言い、毎日お位牌に祈りを捧げています。
そして今日私が伺ったときもそうでしたが、朗らかに冗談をいいながら明るく振る舞っていますが、寝る時には精神安定剤を飲まないと眠れないと言います。
自身は津波が来た時に高台に逃げて助かり、避難所に行って一晩明かしたのですが、勤めに出ていた娘と孫と外に行ってたもう一人の娘は、避難所で会えず連絡もつかず、人の話で流されたらしいと聞いたのです。
娘たちの姿がないかと、家があった辺りを探して歩いたそうです。
「萱浜は農業用の灌水のための堀(幅5mほど)があって、その水は海岸へ流れ込むようになっている。
その堀に遺体が重なりあって、泥の中のドジョウのようにごちゃごちゃと束なってあがっていた」
娘さんたちの遺体は原町体育館の安置所で見つかったそうです。
捜索隊の人たちが来て探しても、萱浜の辺は掘っても掘っても海の土だったと言います。(大津波で大量の海の底の土が運ばれてきたということ)
昼間は気丈に過ごしていても、暗い夜を一人で過ごす高橋宮子さんの胸の内を思いました。

もう一人、すぐ近くの日あたりの悪い場所に建てられた仮設住宅に住む82歳のやはり一人暮らしのおばあさんです。
年相応に足腰は弱ってきてはいますが、悪いところはなく普通に暮らせているのですが、昼間もふとんの中に居るのです。
仮設住宅には電気こたつ、エアコン、テレビ、冷蔵庫、炊飯器、電子レンジなどの電化製品は支給されました。
そして30アンペアで配線されています。
それらの電気製品を使えば、電気代が嵩みます。だからせっかくこたつがあっても使わずに、ふとんの中で暖をとっていると言うのです。
仮設は、日あたりのいい場所に立っているところもありますが、そうした仮設でも窓際などにいるとかなり寒いです。
今日、部屋に上がって話を聞かせて下さった人たちのところでも、私はお行儀が悪かったですがコートを脱げないところがありました。(少し風邪気味でもあったのですが)
電気製品の支給もいいが、月々の電気代の支援も必要ではないかと思いました。
仮設にすむ人たちの中には、年金暮らしの人が少なくありません。農業、あるいは漁業をやっていた人たちです。
月に3万円の年金で電気代、ガス代を払えば残りは極わずかです。
ガス代は入居して最初の3ヶ月は無料だったが、それ以降は3万円(3ヶ月分として)までは援助があるがそれ以上は自己負担だそうです。
3ヶ月でだいたい37000円ほどのガス代なので、7000円は自己負担ということです。
風呂は追い炊き機能のないものなので、冬はすぐ冷めてしまうので毎日は入らないし、夏でも瓦礫撤去に行って埃だらけになっても風呂に入るのは2日に1回で我慢したという人も多いそうです。

他にももっともっとお伝えしたい話をたくさん聞きましたが、また改めてお伝えします。             いちえ

12月20日その2

午後は鹿島地区の、以前にも行った仮設を訪ねました。
鹿島地区は先月までは津波の被害にあったときのままのような状態でしたが、今日通ってみると畑地は雑草が上土ごと除去されてあちらこちらに小山に積み上げられていました。それと共に打ち上げられたままになっていた船も、おおかたは片付けられてあと何艘かが残っているだけでした。
来年四月からは小高地区が警戒区域が解除されて自宅が残っている人は、自宅に戻っても宵ということになりました。
鹿島の畑地の雑草が除去されたり船が片付けられたりしたことも、もしかすると30キロ圏内の小高が警戒区域解除されたことと同様の理由からかしらと思っています。
ただ、小高の人たちが自宅に戻れると言っても、ここは殆どが農家です。
農機具も流され、畑の除染も、また波をかぶった畑の土もそのままでは使えず、東電が出している「精神的苦痛に対する補償」の10万円も出なくなっては暮らしをどうやって立ち行かせるか、難しいことでしょう。
もちろんこれは仮設に住む人たちにとっても同じ問題です。誰しも来年4月からの生活は、大変問題がお大きいことでしょう。

さて、鹿島の仮設の佐々木さんの話です。
小高の家は地震で少し傾いたけれど、この方は大工さんなので直してそこでまた暮らしたいと思っているそうです。
実家は農家だったが兄弟が多い(10人)家族で、長男だった自分は家は兄弟の誰かが継ぐようにと考えて大工になったと言います。
私より10歳年上の方ですが、子供の時から長男として親を助けて働いてきた戦争中の苦労なども聞かせてくれました。
父親が亡くなったあとでは一家の長として、家族の面倒を見てきたと言います。
結婚して子供が生まれてからは東京に出て働き、収入を自分の親、妻の実家に仕送りしてきたそうです。
その頃は東京も都営住宅などが盛んに建設されていた頃だったそうです。
息子は性格も成績もよく、都立立川高校に進み大学進学を希望していたそうですが、可哀想だが経済的に大学にはやれないからとあきらめさせたと言います。
その頃佐々木さんが仕事で関わった地として、高井戸とか立川とか私には懐かしい名前も出てきました。
佐々木さん一家も立川の都営住宅に住んだそうです。
その後故郷に錦を飾るような思いで実家のあった小高に家を建て、故郷に戻りました。
息子は原発で働くようになりました。
結婚した息子が家を建てる時には金銭的な援助も大分したそうですが、土地購入や建て主の名義は息子にしなければならないと言われたのだそうです。
その自慢の息子さんは40歳前で大腸癌で亡くなってしまいます。女の子と男の子、二人を残して死んだそうです。二人はまだ小学生だったと言います。
息子の妻はその子供二人を連れて、息子が亡くなって一週間後に実家に戻ってしまい籍も抜いたそうです。
息子に大学進学を叶えさせてやれなかったので、孫たちが望むなら学資の面倒も見てやろうと考えていたが、その孫にもあわせてもらえないのだそうです。
息子が不憫で毎朝仏壇で祈り、月命日にはいつもお墓参りをしていたのに小高が警戒区域になってお墓参りも出来なくなったと嘆きます。
来年が息子さんの十三回忌だそうです。
佐々木さんの奥さんは今は目が不自由で、ほとんど見えず、足も弱くて外には一人では出られないそうです。
今日お邪魔した時にも、茶を入れて下さるのも全て佐々木さんがやって下さいました。
その佐々木さん自身も職業柄アスベストを吸っていて健康を害していて、その上この6月に前立腺がんの手術を受けて今も加療中です。
更にその上、娘さんの夫が心臓発作でつい最近倒れて一命は取り留めたけれど勤めは続けられなくなったと言います。
娘さんは働いているそうですが、娘の収入だけでは大変なので娘一家の面倒も見てやらねばと思っていると言うのです。
佐々木さんはこうした半生を語ってくれながら、「なぜこんなに苦しい目に遭うのかと毎日泣いている」と言います。
自宅に住めず仮設暮らしを強いられ、息子さんを先立たせたこともあって、東電に対しては「賠償なんてどころの話じゃない。訴えてやりたい」と言いました。
佐々木さんは息子さんの癌は、放射能の影響だと信じています。

今日午前中に訪ねた仮設でのことです。
そこはまだ新しい仮設で、住民たちも最近になって仮設住まいとなった人たちばかりです。
お邪魔して話を聞かせてもらっていた人の前の家に、出先から戻ってきたおばあさんが居ました。
手提げから鍵を出して玄関を開けようとするのですが、鍵の開け方が判らないようなのです。
普通に鍵穴に鍵を差し込んで回すだけのものなのですが、差し込み方が判らないようなのです。
同行のボランティアの荒川さんが急いで行って、説明しながら開けてやってようやくおばあさんは中に入れました。
荒川さんが言うには、「きっと農家の人だったのでしょう。私も農家だったけど、その辺に行くときは鍵なんか掛けない暮らしだったからね。この辺じゃ、みんなそう。鍵かけなくたって、心配なかったからね」
こんなのどかな暮らしも失われました。                                 

まだまだお伝えしたいこともありますが、今日はこの辺で。             
今日もまた、物資がたくさん届きました。
ただこの六角の「原発事故から命と環境を守る会」のボランティアの方達も年末年始は自分の家の用事も多々ありますから、もしこれから何か送って下さろうとしているのでしたら、25日までに着くようにして下さい。
新年は10日過ぎにお願いいたします。男性用のL、LL判のズボン下がまだまだ不足しています。
私も50枚ばかりは持ち込んだのですが、とても足りません。
どこかメーカーにコネがあればと思うのですが、もしお心当たりの方がおいででしたら教えて下さい。お願いいたします。              いちえ

12月24日

みなさま

師走の南相馬から戻ってきました。
今回も仮設住宅を何カ所かまわり、被災者の方達からお話を伺ってきました。
そして前便で、男性用のズボン下が圧倒的に不足していることをお伝えしました。
その後友人からアドバイスや、友人の知り合いで衣料品を安く売ってくれるところの紹介も頂きました。
2枚で980円という値段の提示もありましたが、明日また別の店をあたってみるつもりでいます。
ただ安く仕入れるとはいえ枚数が相当量になります。
私は当初500枚と考えていますが、それでも絶対量は足りません。
できれば1000枚、2000枚を送りたいと思っています。
南相馬仮設住宅は2300戸以上あり、その他か利上げ住宅に住んでいる人たちも現在把握しているだけで200所帯ほどあります。
そこで、出来たらみなさんからカンパをお願いしたいのです。
どうぞ、ご協力をお願いいたします。
ご協力いただけるなら、下記口座にご送金をお願いします。渡辺一枝の個人名になっていますが、このためだけに開いた口座です。

銀行名;ゆうちょ銀行
預金種目;普通預金
口座番号;6741383
口座名義;ワタナベイチエ

出来れば年内に送りたいと思っています。被災地の方達が、せめて下着だけでも暖かくしてお正月を迎えて欲しいと願っています。
どうぞよろしくお願いいたします。                              いちえ 

12月27日

みなさま

先日支援のお願いをしました男性用のズボン下(仲間内で「ももひき作戦」と呼んでいます)の件です。
おかげさまで短時間のうちに資金が集まり、また品物を安く提供してくれる店も見つかり、本日1900枚のズボン下が南相馬に向けて発送されました。
本当にありがとうございました。
アクトナウの浅井さまはじめたくさんの方からのご支援のお陰です。
南相馬の被災地の方達には皆様お一人お一人のお名前を必ず伝えます。ありがとうございました。
目標の2000枚にはなりませんでしたが、当初は500枚でもと考えていたので年内に1900枚揃えて送ることができたことは思いがけないことでした。
運送会社によれば、東北地方は天候などによる道路事情で現地到着が遅れることがあるかもしれないとのことですが、年内には届くことでしょう。
現地ボランティアの方達も年の瀬で忙しい時期ですが、各仮設を一戸一戸回って配って下さる手筈になっています。
ありがとうございました。

これをもって「ももひき作戦」の支援募金は、いったん閉め切らせて頂きます。
ただ、手もとにズボン下代金を支払っても余る支援金が残っています。
本来でしたら「ズボン下支援を」とお願いして寄せて頂いたお金ですからお返しするべきと思いますが、有効に使わせて頂きたく、お願いいたします。
以前の「一枝通信」でお伝えしましたが、仮設住宅の近くに土地を求めてビニールハウスを作る計画があります。
被災前は農家だった方達が多く、その方達に少しでもこれからの生き甲斐に繋がることができればと考えてのことです。
その資金に使わせて頂きます。
仮設にいるお年寄りたちは体を動かすことがめっきり少なくなって、そのために筋肉が衰えて這って動く人も出てきています。
被災前には畑で働き、あるいは船で漁に出ていた人たちなのに、です。
ビニールハウス建設計画が具体的になったら、また改めてご支援をお願いいたします。
ありがとうございました。   

                           いちえ

a:2331 t:1 y:0

              

powered by Quick Homepage Maker 4.85
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional