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2012年9月の一枝通信

2012年9月の一枝通信

9月6日

みなさま

昨日南相馬に来ました。
今回はいつもの東京ー福島(新幹線)、福島ー南相馬(バス)のルートではなく、
仙台回りで来てみました。
東京ー仙台(新幹線)、仙台ー亘理(常磐線)、
亘理ー相馬(常磐線代行バス)、相馬ー原ノ町(常磐線)のルートです。

亘理ー相馬間は津波で線路が全くなくなってしまっていて、それで代行バスなのです。
バスは「各駅に止まって行きます』とアナウンスしていましたが、
JRの駅や駅が在った場所近辺を経由しながら行きました。
駅が在った場所の近辺というのは、
駅も津波で流されてしまってそのあたりにバスの停留所と待合室ができていました。

代行バスに乗って、最初の駅「浜吉田」は駅舎が残っていました。
そしてその入口に大きな立て看板で「祝浜吉田駅開通 平成25年5月」
と書かれ看板には制服姿の女子高校生が万歳をしている絵も描かれていました。

でもその先の「山下」「坂元」「新地」「駒ヵ嶺」には、
そうした告知は在りませんでした。
復旧工事が進められてきて、
たった一駅区間でも来年5月には開通できるそんな歓びの立て看板だったのだと知りました。
原ノ町ー相馬間が運転再開した日を思い出しました。
それまで原ノ町駅前は”死んだ街”のような雰囲気でした。
初めて南相馬を訪ねたとき、福島から相馬回りでバスで来て
終点の「原町駅前」で降りたとき、私は途方にくれてしまったのです。
タクシーもなく訊ねる人も開いている店もなく、
「ここから大甕の六角までどうやって行けばいいのだろう?」と。

昨年12月21日の運転再開した日、
駅前には自転車が行き交い高校生たちが各校の制服姿で
駅舎に吸い込まれて行くのを見ました。
人気が戻った駅前でした。
鹿島の仮設に行くのに途中踏切をわたりますが、
たまたま2両編成の電車に行き会った時には、
六角の現地ボランティアの人も私も、思わず「ばんざい!」と言っていました。
浜吉田駅の開通を待つ地元の人の思いが、
看板から伝わりました。
亘理ー相馬間が一日も早く運転再開できるよう祈ります。
でも、「原ノ町」より先の「浪江」「双葉」
「大野」「夜ノ森」は警戒区域です。
それらの駅はこの先何年も、
いえこの先ずっと復旧工事をされることもないでしょう。
上野ー仙台間を走っていた常磐線ですが、
津波で消えた線路や駅舎の復旧は出来ても
放射能で汚染されてしまった地域の復旧には手がつけられません。
道路も同様です。高速道路も工事が済んでいたのに通ることができないのです。

昨日仙台から常磐線に乗ってすぐの頃から雨になり、
雨脚はどんどん激しくなって雷も鳴っていました。
原ノ町に着いた時もまだ雨は激しく降っていて、
大甕の六角に着いた時も土砂降りの雨と雷はまだ止みません。
六角の食堂カウンターの上にはポツリポツリと雨漏りが…。
今日はこれから仮設住宅を回りますが、
昨日の雨で仮設はどんなだったろうと案じています。
またご報告します。                                          いちえ

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9月7日

みなさま

今日は昨日の天気が嘘のような、くも一つない空。
朝のうちに、4月16日に警戒解除になった
小高区の海側の方に行ってみました。
この辺りもこれまで何度か来ていた所ですが、
津波をかぶった家々はまだそのままで、
傾きかけていた家はいっそう傾いてきています。
津波をかぶらなかった家も、
上下水道が通じていないのでまだ人は住めません。
それになにより、除染が全く出来ていないのです。
どの家も身の丈よりも高く、草が生い茂っていました。
畑だった所も草ぼうぼう。
ここに生活が戻るのは、まだまだ先のことに思えます。

いったん六角に戻ってから鹿島区の小池第3仮設住宅に行きました。
今日行った小池第3仮設住宅は自治会長はいませんが、
その仮設に住んでいる蒔田さん(53歳、男性)
が社恊から委託されて集会所に毎日午前中に詰めています。
(仮設によっては自治会長を置いている所もあります)
以前そこで蒔田さんのおばあちゃん、佐藤さんのおばあちゃん、
鈴木さんのおばあちゃんと3にんのおとしよりから話を聞いたことがあります。
今日はその蒔田さんの息子さんからの話を聞きたくて行ったのです。
集会所に詰めていながら、仮設の皆さんの様子に心を配ってお世話をしたり
相談役になっている人です。

この仮設住宅は今朝私が行ってきた小高区からの人が多く、殆どが高齢者です。
最高齢が98歳で90歳以上の方がかなり居ます。
老夫婦二人で入居しながら、ここに来てから連れ合いが亡くなって
独居になった方も居ます。
集会所で蒔田さんと話していると、住人の板倉さん(78歳、男性)
が顔をのぞかせました。
板倉さんの家は小高の村上浜で、80戸ほどの家があった所ですが
ほとんど流されたと言います。
村上浜には請戸港から舟を出している人も4軒、あったと言います。
小高の家では息子夫婦と一緒に暮らしていた板倉さんですが、
息子さんの家族は別の仮設に居ます。
板倉さんはここで奥さんと二人で住んでいますが、
奥さんは今日はめまいがするからと家で休んでいるそうです。
私が「めまいは今日だけのことですか?前からですか?」と尋ねると
「どうかなぁ。仮設病ってのもあるからな」と。

そしてまた、「小高はな、警戒区域解除になったって今片付け始まったけっど、
ガレキ置き場もないからな。除染するったって、できっかなぁ」と、板倉さんは言います。
78歳の板倉さん、この仮設にはもっともっと高齢の方達が居ますが、
生きている間に元の場所に戻れるかどうか、
仮設にいつまで居るのか、先を考えれば具合が悪くもなるだろうと思います。
板倉さんは睡眠薬、精神安定剤は飲んでいないし、
お酒もやめたと言います。タバコとパチンコはやめられないと。
もともとお酒が好きで仮設に入ってからもいつも飲んでいたそうですが、
2ヶ月ほど前にきっぱりとやめたそうです。

板倉さんがお酒をやめたのは、蒔田さんの口から聞きました。
板倉さんは嬉しそうに、少し照れていました。
この生活でそれまで好きで毎日飲んでいたお酒を断つのは、
大変な努力だったことでしょう。
それをきちんと見ていた蒔田さんのような人が、
この仮設に居ることはお年寄りたちにどんなに心強いことかと思います。
板倉さんの奥さんは睡眠薬と安定剤が、欠かせないそうです。
「仮設は狭いからなぁ。音だって筒抜けだよ。隣のイビキが聞こえんだからなぁ」
と蒔田さん。板倉さんも頷いていました。

昨日の雨の影響はなかったかを蒔田さんに尋ねると、床上には来なかったけど床下に水がタッポタッポした所があって、役所に行ってすぐ来てもらったそうです。
水はけが悪くて、床下にジャッキを入れて上げている所もあるそうです。
またこれから寒さに向かって行くと、さまざまな問題が出てくることでしょう。                  

仮設から戻る時に原町区の海岸の方に行ってみると、
以前は丁寧に仕分けされた瓦礫の山があった所に土の山がいくつか出来ていました。
既に草が生えてきている山もあります。
この小さな山々に木を植えて、防潮林に変えて行く計画です。
南相馬は、他の被災地に比べて本当に細やかに瓦礫の仕分けをしていました。
そしてこうした小山を造って木々を植える計画ですが、
土が足りず、それをどうするかがこれからの課題になっているようです。
もっとご報告したいことはたくさんありますが、長くなるので失礼します。
今日も長文で失礼しました。                                    いちえ

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9月8日

みなさま

今朝は5時に、六角支援隊の荒川さん夫妻が迎えに来て私は陽子さんの車に乗り、
登さんは大留さんから借りたトラックを運転して
3人で鹿島西町仮設住宅の畑に行きました。サツマイモの芋掘りなのです。
大甕の六角から鹿島までは20分ほどで着きますが、
途中寺内第二の畑に寄ってから芋畑に着きました。

浜野さんのおばあちゃんが、ナスをもぎに来ていました。
ハウスの中に置いてあった鍬を持って鹿島西町の畑に行くと、
既に鎌田さんのおばあちゃんが居て、ナスやピーマンを採っていました。
鎌田さんは自分の持ち分の場所をいつもきれいに草取りをしていて、
収穫中のナスもピーマンも見事な出来です。
ほどなく柏のKさんたち遠来のボランティア4人
(男性3人、女性一人の若ものたち)も到着しました。

昨夜東京を発ってきた彼らは、今日はここでの芋掘りと
寺内第二仮設の畑の草取りをし終えたら、
現地ボランティアの六角支援隊の皆さんをねぎらうために
食事を作るのだと張り切っていました。
6畝分の芋畑を掘り終えて、ジャガイモを収穫し終えた後
何も植えずにいたもう3畝分の草取りを終えると7時半。

六角支援隊の鈴木さん夫妻がおにぎりやお茶、
漬け物の朝ご飯を持って来てくれました。
仮設の集会所で鈴木さんが作ってくれた栗ごはんのおにぎりを美味しく頂いて、
しばし休憩。
六角支援隊で用意した畑は全部で5カ所あるのですが、
この鹿島西町の畑にだけがビニールハウスがなかったのです。
以前の「もう一棟ビニールハウスを建てたいのでご協力を」とお願いしたのが、
ここのことなのです。

皆様のお陰で資金も集まり、ハウスを建てられることになったのです。
今日芋を掘り起こした跡地を、また畝ってここにハウスを建てます。
ご協力を、本当にありがとうございました。
被災者の方達は農家だった方達が多く、
種を選ぶのにも長く農に携わってきた人としてのこだわりがあります。
例えば大根なら「くらま」という種類の大根がおいしい。
かぼちゃは「九重栗」がいいというように。

そしてそのこだわりが誇りでもあるでしょうし、
その種を選ぶことがまた明日への意欲に繋がりもするでしょう。
朝は訳から畑に出て来ている仮設のお年寄りたちの姿に、
ビニールハウス、そして畑を作って本当によかったなと思います。
ただ昨日蒔田さんとも話したのですが、
こうして畑に出て来たり集会所での催しに出てくる人はいいのですが、
そうでない人たち、体もですが気持ちも引き込んでしまっている人たちを、
どう支えて行くのかが難しいことです。

鹿島西町の畑での作業を終えて皆は寺内第二の畑の草取りに行きましたが、
私は陽子さんと一緒に彼女の家に行きました。
そこでシャワーを使わせて貰ってからまた陽子さんに原町駅前まで送ってもらい、
10時10分のバスで福島に戻りました。
途中通過した飯舘村では、除染作業をしているのを見て過ぎました。
「椏久里珈琲店」のブルーベリー畑の辺りにも何人かの人が居て、
なにやら調べている様子でした。
福島では「椏久里」に寄って、市澤夫妻に会ってから帰宅しました。                      いちえ  

a:2276 t:1 y:0

2012.9.16

みなさま

昨日は八王子の労政会館で開かれた、
林洋子さんの朗読会『ふくしまー懐かしい いのちの声』に行ってきました。
「福島の子供支援公演」と銘打たれての朗読会でした。
福島県伊達市霊山町で暮らす詩人、
久間カズコさんの詩を女優の林洋子さんが朗読するというこの公演のことを知ったのは、
8月末の東京新聞紙上でのことでした。
直ぐに前売りチケットを購入して、この日を待ったのでした。
林洋子さんは「ひとり語り 宮沢賢治」の出前公演を続けている方です。
公演を知らせる新聞記事には久間カズコさんの詩の一節が載っていて、
それを読んでその詩に触れたいと思ったのです。

昨日の会は第1部で経産省前のテント村で”とつきとおかの座り込み”
を呼びかけ、先頭に立って行動してきた「原発いらない福島の女たち」の世話人、
椎名千恵子さんの報告「福島の子供たちは いま」で始まりました。
第2部が、林洋子さんによる久間カズコさんの詩の朗読でした。
久間さんは霊山町の曹洞宗成林寺ご住職の奥様で72歳。
平成23年度 第64回福島県文学賞の詩部門で受賞されました。
11月で82歳になるという林さんの張りのある艶やかな声で、
久間さんの詩の言葉が立ち上がってくるようでした。
この日朗読された久間さんの詩から、
3編だけですがご紹介します。詩集『山百合』から。

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    『写真』

無言
撮影日
平成二十三年 三月十三日
場所
福島県伊達市
撮影者コメント
玄関先に出しておいた巣箱です

箱の中の蜜蜂の死骸は
巣の真下に集まっていて
逃げ惑った様子もない

撮影日の三月十二日は
福島第一原発一号機の水素爆発で
この地区に恐ろしいものが
流れてきたのだ

一瞬のうちに
黒い目を見開いたまま
巣から落ちてしまった大量の蜜蜂

それらの悲鳴が聞こえてきそうな
一枚の写真

     『孫のはなし』
霊山にホウシャノウがなかったとき…
盛岡に避難をしている五歳の愛弓の口ぐせ

霊山にホウシャノウがなかったとき
おばあちゃんと外でいっぱい花をつんだよね

霊山にホウシャノウがなかったとき
いとこの大ちゃんと楽しく砂あそびをしたよね

霊山にホウシャノウがなかったとき
おいしいももやりんごをたくさん食べたよね

霊山にホウシャノウがなかったとき
特定避難勧奨地点ということばもなかったよね

ふくしまにホウシャノウがなかったとき
人の心は
この秋空のように青く澄んでいたよね

地球上にホウシャノウがなかったとき
人の心は
とてもきれいだったよね

*平成二十三年六月三十日
福島県伊達市霊山町の小国地区の一部が特定避難勧奨地点に指定された

『視線』
赤ちゃんを抱いた若い夫婦が店に入って来た
プクプクと太った三ヶ月ぐらいの女の子
母親の顔を見てニコニコと笑っている
盆を迎える準備で混雑しているスーパーマーケット内

よく太って元気そうね
アラ、可愛いわね 何ヶ月?

放射能が降ってくる以前の店内なら
知らない人がこのように
気軽に声をかけることができたのに…
今は それができないのだ

人々は冷たい視線を向けるだけ
この非常時にマスクもさせないで外出させて…

それでも
赤ちゃんはニコニコと笑っている

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第一部での椎名千恵子さんの言葉「悔しい!」が胸に鳴り響いています。
こんな日々を私たちは作ってしまったと、久間さんの詩に胸が張り裂けそうです。 

 いちえ

9月18日

みなさま

★10月13日の南相馬仮設住宅での床屋&ネイルサロンへのご協力を、
ありがとうございます。
 理容師さんが一人、ネイルを担当してくださる方が一人、
他よろずお手伝いしてくださる方が一人、声を上げてくださっています。 
 また、マニュキアや除光液などを提供してくださった方もいます。
 資金カンパもたくさん頂いています。

 ありがとうございます。
お礼を言うのが遅くなって失礼をしていますが、どうぞお許し下さい。
 この試みは、今回はラーメンの炊き出しに合わせて日程を組みましたが、
次からは理容師さん、美容師さんが休める平日に継続してやって行こうと思っています。
 どうぞ、今後ともご支援をお願いいたします。


以前に「一枝通信」でお伝えしたことのある木村紀夫さんを訪ねて、
18日は信州白馬へ『たぁくらたぁ』の編集部の方達と共に行って来ました。
連休後の火曜日でしたが、舞雪ちゃんにも会うことが出来ました。
運動会の代休だったのです。
舞雪ちゃんの運動会のために来ていたのでしょうか、
紀夫さんのお母さんの巴さんと叔母さんも見えていました。
『たぁくらたぁ』の編集部は5人、そして私と訪問者は総勢6人。

きっといつもは木立の中の家で父娘の二人が静かに過ごしているのでしょうが、
この日は賑やかな時間が流れました。
木村さん家族の愛犬ベルも、賑やかな声につられてゲージの中で吠えていました。
この日の訪問は、木村さんの「省エネでゲストハウス経営を」
という願いを具体化するために少しでもお手伝いが出来たらとのことで
『たぁくらたぁ』のアイディアマンたちが集まったのでした。
提案される幾つかの案に木村さんも資料に見入って頷いたり、
質問したりして同席していた私も「あ、それで来たらいいな」
と思うことしきりでした。

『たぁくらたぁ』の人たちはこの先も、
他の仲間たちも巻き込んで木村さんを助けて行くと思います。
木村さんのところはきっと、皆さんにも興味深いワークショップが展開される
「体験型宿泊施設」となることでしょう。
具体化して行ったら、またお知らせします。どうぞ参加してください。

前回訪ねた時からずっと気になっていた舞雪ちゃんも、
大人たちと一緒にテーブルを囲んで話を聞いていました。
お菓子造りが好きだと言う舞雪ちゃんの作ったクッキーを私たちはご馳走になり、
私は舞雪ちゃんと一緒にクッキーとケーキの作り方が書かれた本を見ながら話をしました。

亡くなったお母さんの深雪さんに教えてもらったことや、
もっと教えてもらっておけばよかったことなどを話す舞雪ちゃんの様子に、
そうした話題がタブーにはなっていないことを知って、私は少しホッとしました。
けれども何の話からだったでしょうか、
「おとうさんの宝ものは汐凪だよね」
と舞雪ちゃんが言ったのにはドキッとしました。
舞雪ちゃんの言い方にも表情にも負の感情は感じられませんでしたが、
心に刺さる言葉でした。

これからも機会あるごとに、舞雪ちゃんを訪ねようと思いました。               
いちえ

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9月19日その1

みなさま

★床屋&ネイルサロン追伸
 前便でお願いを落としてしまいましたが、
理容師さん、美容師さんなどへアーカットをしてくださる方、
またネイルを担当してくださる方
(こちらは資格がなくても結構です。
ご自分で日頃マニキュアなどでお手入れしている経験がある方ならどなたでも)は、
まだ募集中です。
どなたかおいででしたら、どうぞお願いいたします。


昨日は南相馬へ行って来ました。
昨年の冬のことでしたが、鹿島寺内仮設住宅の浜野さんから、
浜野さんの家があった萱浜の津波被害のことを聞いていました。
集落の家の多くは流され、87人が亡くなり22人が行方不明と、
その時に聞いていました。
萱浜は太平洋から松林を隔てて、こちらの平地に田畑と家々がありました。
畑中を貫いて幅5メートルほどの堀が、海に流れ込んでいました。

同じく萱浜に家があった池田のおばあちゃんは、
浜野さんの言葉に繋げてこんな風に言っていました。
「地震の後で津波が来っからって防災無線が言って、
オレははぁ、避難所へ逃げてったべ。
なんも、持ってなんか出られねえんだわ。着の身着のままでさ。
ほいでもって次の日に(3月12日)に行ってみたのよ。
家さ、どうなってんだべってな。
はぁ、瓦礫がいっぺえだったけどな、いやぁ、なんもねえ!
家なんかなんもねぇ。

堀ん中にゃ、流された人がドジョウみてえに泥ん中に重なって、
ごちゃごちゃに重なってな….酷いもんだな….みんな死んでな…」
その萱浜に一軒、屋根も崩れずしっかりと残った家があるのです。
海岸線からはだいぶ離れているのですが、
松林も何もかも流されてしまった被災後では、海はすぐ目の先に見えます。

海に背を向けて建っている家で、海側の壁は残っていましたから、
引き波が内部をさらって行ったのでしょう。
一階部分は波が突き抜けてガランドウなのですが、
二階は窓のガラスも壊れずにあるのです。
初めて南相馬へ行ったとき、
大留さんに案内されて海よりの被災跡をずっと見て歩きました。
その頃はまだ畑地には自動車や電車などがゴロゴロと転がっていて、
電柱や農機具、墓石などもそこらに散らばっていました。

一軒残っているその家の前を通る時に大留さんから
「この家は若い夫婦だけが仕事に出てて無事だった。
おじいさん、おばあさんと子供二人は流されてしまった。
おばあさんと小学生の女の子の遺体は見つかったけど、
おじいさんと下の息子はまだ見つかっていない」と聞いていました。

秋の彼岸の頃に行くと、家の前に花が手向けられていました。
そこを通る度に私も、家の前に置かれた線香を焚き、手を合わせて過ぎていました。
冬が去り、春彼岸も過ぎ、
4月になると家の前に立てられたポールに鯉のぼりが泳いでいました。
彼岸の頃の祭壇や鯉のぼりを見て私は、
若い父親の”生きる意志”を思っていたのです。
ところがこんなことを聞いたのです。
彼は、息子はまだ生きていると思い込んでいて、
仕事も辞めて毎日幼い息子を捜し続けているというのです。

風呂にも入らず、着の身着のままで浮浪者のような姿で彷徨っているというのです。
それを聞いたのは4月16日、
警戒区域だった小高区が警戒解除になった日のことでしたが、
消えた人を捜し続けることが異常なのではなく、
探し出せない現実が異常ではないかと、聞きながら私は思ったのです。
警戒解除になった小高区に入ってみると、
被災から一年以上も経っているのに被災の時のままの状態で
車も農機具も何もかもが流された折れたままの姿で、そこに在りました。

20キロ圏内立ち入り禁止とされたその日からずっと、
被災のままに手をつけられずにそこに在ったのです。
こんなことこそが異常で、そこにはきっと、
直ぐに探せば助かった筈のいのちも、埋もれているのではないかと思えたのです。                                                     (続く)

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9月19日その2

みなさま

前便の続きです。
★9月6〜8日と南相馬へ行ったのですが、
帰りしなにまた、萱浜のあの家に行きお線香を手向けて帰ろうとした時でした。
車が止まって降りてきた人がいたのです。
「こんにちは」とあいさつをすると
「こんにちは。ありがとうございます」と挨拶が返りました。

その人が”幼い息子を捜し続けている父親”の、上野敬幸さんでした。
噂で聞いていた感じとは違って、
日に焼けた笑顔からは穏やかさを感じました。
前便で書いたように我が子は生きている筈と思い込んで、
着の身着のままで探しまわっている(暗に精神に異常をきたしている…
)と聞いていましたし、また、お線香を上げようと思って家の前に立ったら、
殴り掛からんばかりの形相で怒鳴られたと言った人もいたのです。
でも挨拶を交わしたばかりのご当人に「話を聞かせて頂けますか」
と伺うと快諾され、19日に上野さんに会いに行ってきたのです。
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3月11日上野さんは地震の後で職場から家に戻ってみると、
お母さんが長女の永吏可(えりか、当時8歳)ちゃんを
学校に迎えに行って帰って来たところに出会ったのでした。
長男の倖太郎(こうたろう、当時3歳)くんは、
家の中にお父さんと居て無事でした。
奥さんは職場から戻っては居ませんでしたが、
両親と二人の子供の無事を確かめて上野さんは職場に戻って行きました。
会社に戻る途中で津波に遭い、もう家にも戻れず、
流されてくる人たちを助けながら津波から逃げて進みました。

津波が収まって避難所に行きましたが、
そこには家族の姿はありませんでした。
家の方に行ってみると辛うじて自宅は流されずに残っていましたが、
辺りは瓦礫の原でした。もう辺りは暗くなっていました。
一階は津波が通り抜けて家財道具が流されたり散乱し丁ましたが、
二階は残っていました。

家の中には家族の姿はありませんでした。
裏手の瓦礫が溜まったところを懐中電灯で照らして「誰か居るか?」と声をかけると、
上野さんの家から浜よりの方の家に住む男性の声がしましたが、
怪我をしていて動けず、上野さんも一人では救い出すことができず、
持っていた携帯で警察に電話をして救助を頼み避難所に戻りました。
翌朝行ってみると、男性は救助されずにそのままそこに居たそうです。

上野さんの友人たちで近所の消防団の人たちが捜索に出ていたので、
その仲間たちと一緒に男性を救助したそうです。
敷地内で見つけた永吏可ちゃんの遺体を、
上野さんは自分の手で抱いて安置所に運びました。
「ごめんね.ごめんね」と、
変わり果てた我が子の姿に謝りながら運んだと言います。
「自分は、津波の時に何人かを助けたけれど、
我が子を助けることができなかった。複雑です。
助けた人が後からお礼を言いに来られたけれど、
お礼言われても嬉しくなんかない。複雑です」
お母さんの遺体も見つかり、永吏可ちゃんとお母さんの遺骨は、
近所のお寺さんに預かってもらっています。

あの日から毎日、一日も欠かさず上野さんは倖太郎くんとお父さんを捜し続けています。
家族ばかりではなく、行政区の萱浜の行方不明者たちを
一人でも見つけて家族の元に戻してあげたいと捜索を続けています。
始めの頃は上野さんと近所の消防団の友人たちだけでの捜索隊でしたが、
東京や神奈川、千葉などからボランティアに来てくれる人たちが加わるようになって、
上野さんの家を拠点に”復興浜団”として捜索と瓦礫撤去、
小高区の除染にも取り組んでいます。
昨年9月16日、次女の倖吏生(さりい)ちゃんが生まれ、
家族3人で仮設住宅に住んでいますが、
上野さんは今も毎朝5時頃には自宅に通っているそうです。

そして捜索と、ボランティア“復興浜団”の拠点としての活動を続けています。
この5月にも、小高の水門のところで胸から上の遺体を見つけて届けたそうですが、
それは新聞にも載ったそうですが「地元の青年が散策中に見つけた」
と記事にはあったそうです。
上野さんは言います。
「4月20日(’11年)にやっと自衛隊が捜索に入って、
その時に自分は“ああ、これで終わった”って思ったんですよ。
終わったって言うのはみんなが見つかるって思ったんですよ。
でも自衛隊がいたのは10日ばかりで、その間に2人が見つかっただけでした。
自衛隊の人は“どこか気になる場所はありませんか?”
なんて聞いて来たけど、僕はどこもが全部気になるとこですって言ったんだよ

またこんなふうにも言うんだよ。
”人は埋まらないので土の中に居ることはありません”って。
自分は何人も土に埋まった人を見つけてるんだよ。
だから言ってやったんだ.“お宅はこれまでに、
津波で行方不明者の捜索に関わったことがありますか?って。
自衛隊は、自分の方が上だと思ってそんな風に偉そうに言ったんだろうね」
「自衛隊が捜索に入ったのはその10日ばかりだったし、
僕は国に見捨てられたと、そのとき思ったね。

警察も僕が見つけて連絡した怪我人をきゅうじょにきてくれなかったでしょう?
僕らは見捨てられてるって思ったね。
30キロ圏内は見捨てられてると思ってるよ」

また、上野さんは言います。
「僕は感情の起伏が激しいからきついこと言うんだけど、
時々東電のコールセンターに電話するんです。
“10キロ圏内がいつから入れなくなったか知ってますか?”とか”
20キロ圏内がいつから入れなくなったか知ってますか?”
って聞くんだよね。東電の社員はそれに誰も答えられないんだよ。

JALの社員が御巣鷹山に行くように
東電の社員は全員一度はこの被災地に来て欲しい。  
東電の社長は家族を亡くした20キロ圏内の人一人一人に、謝って欲しい。
補償金とか賠償金とか、お金じゃない。誠意を見せて欲しい。
それは常識でしょう?

社長の謝罪、社員全員の理解、
それが第一の順番で商?お金の話はその後でしょう?」
「僕は幸せだと思ってます。10キロ圏内で、
行方不明の家族を自分で捜すことができない人たちが居るけど、
僕は自分で永吏可を抱いて安置所に運んであげることが出来た。
倖太郎を、自分で捜し続けている。自分で捜すことも出来ない人たちに比べたら、
僕は幸せだと思います」

生きることへの執着はない。自死しようと思わないが、
生きたいとは思っていない。
寿命が来るのを待っている。
子供を助けられなかった親として、自分を責めて生きていく。
上野さんはそう言います。

ご自分でも言っておられたように、
悔しさの激しい思いに突き動かされるような日々もあって、
それが前便でお伝えしたような誤解をも生んでいるのでしょう。
私は、上野さんの悔しさを共有したいと思います。
そして、倖太郎ちゃんが一日も早く見つかりますようにと祈ります。
****************************************************

今回も長文になりました。長くなると部分的に文字化けする方もあると、
ご指摘を頂いています。
なお努力いたしますが、ご容赦下さい。
28日(金)トークの会『福島の声を聞こう』まだ席が空いています。
ご都合つきましたら、どうぞお出かけ下さい。                          いちえ

a:2276 t:1 y:0

2012.9.29

みなさま

昨夜はセッションハウス・ガーデンでのトークの会『福島の声を聞こう』、
第3回目を催しました。
トークの会のタイトルは福島ですが、
今回は福島に準じて放射線量の高い、宮城県南の丸森町筆甫からの声でした。
ゲストスピーカーは東京からIターンで丸森に暮し、
17年になる太田茂樹さんです。
太田さん夫妻は、そこで4人の子供たちを育てながら、
”山の農場&みそ工房SOYA」を営んできました。

始めに太田さんは、東京で生まれ育ち農業との縁もなかったのに、
宮城県丸森に居を固め、今の暮しを選んで生きようと思った軌跡を話されました。
大学で環境社会学を学び研究者の道を歩み始めたのですが、
それよりも”自然が豊かな場所で実践者として生きたい”
と方向転換して、丸森に移住しました。

移住先に丸森を選んだ理由は、もともと西よりも北の地方を志向していたことと、
福島原発からも女川原発からも距離が離れていることもありました。
無農薬で米、大豆を育て、
自家栽培した米や大豆で味噌を造り「一貫造り」と名付けて販売し、
町内外に顧客を増やしネットワークを築く中で、
東京から来訪した未弧さんと結婚しました。
地域活動にも積極的に参加して地域に溶け込み、
丸森への移住希望者と現地の橋渡し役も担って来ました。

無農薬で除草剤も使わずに造る米は、
列をなして植えた稲の間の縦、横の隙間を除草機で草を鋤きこんで取り除き、
機械では採りきれない根元の周囲の草は手で抜き、造って来た米です。
そのようにして築いてきた農の暮しに、
放射能が降り注いでしまったのです。
原発事故直後には丸森の状況が掴めなかったので、
子供たちをすぐに避難させようと考えなかったが、
その後ネットや友人たちから情報を得て、
学校が春休みになるのを待って妻子を東京に避難させました。

茂樹さん自身はここを選んで住み、
地域の人たちと共に生き、味噌を造ってきた思いからこの地を離れることは考えにくく、けれどもそうした自分の思いに妻子を付き合わせていいのかと、
深く悩み自問しました。

子供たちを連れて東京に避難した未弧さんもまた、
このまま避難生活をするのか丸森へ戻るか考え悩みましたが、
夫婦で話し合った末に出した結論は、
「家族で丸森で暮らしていこう」でした。
そして二人は「筆甫に残ると決めたからには、
子供たちのために出来る限りのことをして行こう。
我が子のためばかりでなく地域の子供のため、
地域のために出来る限りのことをして行こう」でした。
茂樹さんは宮城県南部の仲間たちと
「子どもたちを放射能から守るみやぎネットワーク」
を立ち上げその代表になりました。

ネットワークでは、国や県、市町村などの行政、
議会に対しての「要望」活動、
講演会や上映会を通して放射能の不安について気軽に話し合える場の提供といった
「知る」「つながる」活動、
食品測定会や空間線量測定協力、尿検査への協力などの「測る」活動、
除染の指導や実践など放射線量を「減らす」活動、
メディアへの働きかけやサイト、メーリングリストの運用などの
「情報発信」活動に取り組んでいます。
また、高齢化している丸森筆甫の今後を考えて、
廃校になった中学校を利用しての福祉施設立ち上げを考えても居ます。
それは今後の活動になっていきますが、
プロジェクトは、もう始動しようとしています。

こうした報告を話して下さった茂樹さんですが、
こんなことも言っていました。
「一番心にぐさっときたのは”自分の子供を避難もさせないで線量の高い地に置いて、『子どもたちを守るネットワーク』なんかやっていいのか”と、
ネットで言われたことです」と。
茂樹さんのその言葉は、また逆に私たちの心に刺さります。
ともすれば“部外者”であると思い込んでいる私たちは、
“気の毒な当事者”のことを、考えていると思い込みがちです。

そこに生きる人たちの思いを知って、
その思いに寄り添いながら共に生きていくことを考えていきたいと、
茂樹さんの言葉から改めて私は、強くそう思いました。
国や行政に対して声を大にして言いたいこともきっとあるでしょうに、
静かに穏やかに話される茂樹さんに参加された皆さんは心揺さぶられた昨夜でした。
そして「山の農場&みそ工房SOYA」で造られた長熟味噌をお土産に頂いて、
散会しました。

参加してくださった60人のみなさま、ありがとうございました。
また「丸森支援」カンパをお寄せ下さってありがとうございました。
カンパ総額は43,900円となりました。
その中には言叢社さんからの書籍(『フクシマ』)
売り上げからのカンパもありました。
ありがとうございました。                                            
太田さんや同じくIターンで丸森で暮らす太田さんの仲間のことを、
『たぁくらたぁ』27号に私は書きました。お読み頂けたら嬉しく思います。                                           いちえ

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2012.9.29追伸

みなさま

昨日お送りした中で、大事なことをお伝え漏らしてしまいました。
太田さんが持って来てくださった配付資料の中に、
「原発事故子ども・被災者支援法」のチラシがありました。
これは今年の6月21日に成立した法律ですが、
長引く放射能汚染に苦しむ原発事故の被害者が置かれている状況を踏まえて、
その支援・救済を目的とした法律です。

●被災者が留まることも避難することも
、どちらを選択しても支援する。
在留者、避難者双方に国の責任として支援を行うこと、
●特に子ども(胎児を含む)の健康影響の未然防止、
影響健康診断および医療費減免などが盛り込まれています。
広島・長崎の被爆問題や水俣病の被害者が長年苦しんできた点を踏まえて、
被曝と疾病の因果関係の立証責任は、
被災者が負わないこととされています。
その疾病が、「放射線による被曝に起因しない」
ということであれば、国側がその立証責任を負うのです。

万一病気にかかっても、被害者が「この病気は放射線の影響によるものです」
と立証責任を負わずに、原則として医療費の減免が受けられるのです。
この法律はすべての党を含む超党派の議員により提案され可決されました。
原子力政策を推進してきた国の社会的責任も明示した画期的な法律ですが、
理念法であるため、今後、対象地域の提議づけ、
基本方針、政省令の策定、予算措置なが鍵になってきます。
この法律を絵に描いた餅にしないために、
この法律をもっと多くの人が知り、広めていくことが大事になります。

また、地元選出の国会議員に、
支援対象地域を年1ミリシーベルト以上の地域にすべきだとか、
避難先で保育所を確保して欲しいとか、
遺伝的影響も加味して欲しいなどの具体的な要請を届けることも必要です。

どうぞ、「原発事故子ども・被災者支援法」を、多くの人に知らせてください。   

いちえ

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