ようこそ、フォーラム色川のホームページへ

2012年1月の一枝通信

2012年1月12日

みなさま

昨日は大波地区を訪ねた後で、伊達市の仮設住宅を訪ねました。
ここには飯舘村から避難してきた人たちが住み、
畜農家の長谷川健一さんもここにいます。
長谷川さんは被災後「語り部」となって飯舘村からの怒りを、
各地で語り続けていますから、
どこかで長谷川さんの講演を聞いた方もきっとおいでだと思います。
12月にも今回の行動を共にしている仲間たちの主催で、
長野県で講演会があり、大盛況だったそうです。
長谷川さんの怒りの矛先はもちろん東電もですが、
国や行政に向かいます。

長谷川さんは、飯舘村の今後は除染して戻るか離村か、
その2本のレールしかない。
しかし除染ができるのか?できないだろう。
除染しても子供が戻れるレベルには決してならないだろう。
もし戻っても、できることがあるのか?農業ができるのか?
農地の除染は到底できないだろう。
もし仮に自分たちの世代が戻って、
畑をやったとしても、
そこに子供や孫は決して住まわせられない。
次の代に子どもたちが継ぐことはできないだろう。
自分たちの代が終われば、
その先は何十年も何百年も人が暮らせる土地にはならない。
平地を除染するには5センチ土を剥ぎ取ればよくても、
そんな程度では地中に根を張る作物の汚染は免れることはできない。
が、それ以上深く土を剥ぎ取ったら、
地中の養分も同時に奪ってしまうから畑にはならない。

飯舘村の農地の除染に金を使うよりも、
国が土地を買い取ったほうが安く上がるだろうと言います。
実際に長谷川さんの言う通りだと思います。
昨日の大波地区での除染の実際を見ても、
全くその通りだと頷けます。

今日は飯舘村から福島市に避難している市澤美由紀さんの案内で、
松川町の仮設住宅を訪ねました。
この仮設住宅で世話役をしている
佐野ハツノさんから話を聞きました。
佐野さん一家は飯舘村の専業農家で、
水稲とタバコを作っていました。
姑とハツヨさん夫婦、別棟に息子と嫁と孫二人の7人家族。
村内にはハツヨさんの両親の家がありました。

5年前からハツヨさんは民宿も初めて、
それが軌道に乗ってきていた時の3・11でした。
民宿はお客さんたちが「田舎の親戚に来た気がする」などと言ってくれて
リピーターも増えてきていたのです。
「ホントに悔しい!」と、ハツヨさんは言います。

3月17日に息子たちは東京に避難し、
年寄りたちも避難させたのですが、
それ以前の15日には南相馬からの人たちが
「あんたのところは民宿をやってるのだから避難させてくれ」
ハツヨさんのうちに避難してきたそうです。

その15日、ハツヨさん夫婦はほとんど一日中外で作業をしていたと言いますから、
相当に放射能を浴びてしまったことと思います。
その後息子たちは福島に越し、
北海道や各地で農業ができるところを探したが、
結局7月に那須へ移住先を決めて移りました。

息子たちが那須へ引っ越す前に、
飯舘村の家に共に戻ったとき、
下の孫が蔵の前でじっとたたずんでいたのを見て
ハツヨさんは言ったそうです。
「まさき(孫の名)、お前が大人になっている頃は飯舘村に戻れるだろう。
蔵も山も田も、まさきのものだからな」
そう孫に諭したのがハツヨさんの
「最大の努力でした。本当なら、あそこでわめきたかった!」
戻れるなら戻って住みたい、ハツヨさんはそう言います。
「ここ(仮設)は便利だけど、精神的にとてもきつい。
隣の家の寝息まで聞こえる暮らしだ」と言います。

仮設の世話役をしているハツヨさんは62歳
、ここでは若いほうです。
住民のお年寄りたちは「ここでは死にたくない」
「オレの葬式は飯舘村の家から出して欲しい」と言うそうです。

松川の仮設住宅から、市澤さん夫妻の店に行きました。
亜久里(亞は木偏がつきます)と言うなのコーヒー店です。
市澤さんと知り合ったのも、私には「縁」と思えます。

北京に住む青海省出身の十数年来の中国人の友人が居ますが、
彼は福島県に農業研修生として
来日して日本語をならったことは聞いていました。
青海省から、福島県に農業研修生として来日して
日本語をならったという人を私は他にも2人知っていましたから、
よくある例だと思っていたのです。

ところが昨年末に来日してきた彼に東京で会った時に、
福島県のどこだったのかを聞くと
飯舘村の市澤さんという方の家にお世話になっていたと言うのです。

その彼から市澤さんの連絡先を聞き、

前回南相馬へ来た時に帰りに市澤さんの店を訪ねたのでした。

そして再会を約束して、今回の訪問になったのでした。

市澤夫妻は飯舘村に居た時から
同じ名前でコーヒー店をやっていて、
たいそう評判のいい店で県外からのお客さんも多く、
満席で順を待つ人もいるほどだったと言います。

今日はその飯舘村の店にも行ってきました。
もちろん、今は営業もしていず無人です。

そこで量った線量は154μSvでした。

福島から飯舘村に入る道路沿いには、
3・11前に立てられた『美しい村を子どもたちに』
と書かれた立て看板がありました。

南相馬の六角でパソコンを打っていますが、
今夜も何度か地震がありました。  

いちえ

2012年1月12日その2

今回会った飯舘村の人たちの、
誰もが原発事故直後の対策に関して言っていたことがあります。
「14日の前から、家の前を原発の方向から避難してくる車の列が
ずっと途切れなく続いていた。

そして福島の方からは赤いランプをチカチカさせながら
緊急車両が何台も何台も何台も原発のほうに向かって行った。
それなのに飯舘村では、村民に『屋内退避』と言ったり、
そう言っておきながら
タバコの育成組合の作業日程は予定通りだと言ってきたりした」

「除染」という言葉のまやかしについても、誰もが憤っています。
政府の発表をそのまま鵜呑みに伝えているマスコミに対しても
「飯舘村の状態を実際に見て言ってるのか」
と大きな不信感を持っています。
昨日お伝えしたハツヨさんもつい2ヶ月前ほどには、
政府や村長の言うように除染が進めば
あと2、3年もしたら村に帰れるだろうと考えていたらしいのです。
昨日会った時には「30年は無理だろう」変わっていました。
実際には30年経っても、放射能は消えてはいないでしょう。
チェルノブイリの村のように、
それでも故郷を離れないという何人かだけが戻ってかもしれませんが。

昨夕には南相馬に移動していつもの六角に宿泊し、
今日は南相馬の仮設にお年寄りを訪ねてきました。
今朝、起きたら雪。
福島でも会津地方と違って、
浜通りでは雪が降ることはあまりないそうです。

朝食後にボランティアの人たちがやってきましたが、
Sさんは上下になったゴアテックスの雨着に長靴と完全装備です。
Aさんは「これ履いてきたの」と、
暖かそうなブーツを指して言いました。

「私は長靴も流されちゃったからね。
支援物資で送られてきた中にこれが在ったので、貰っておいてよかった」と、
嬉しそうでした。
Aさんの家は津波ですっかり流されて跡形もなく、
家族みな命からがら逃げて助かり、
一時避難所に身を寄せた後で現在は借り上げ住宅にいるのです。
前回来た時に訪ねた仮設のお年寄りたち何人かの所へ、
今日もAさん、Sさんと一緒に行きました。

高橋さんのおばあちゃんの家に行って私たちは、
まず仏壇に手をあわせてから
おばあちゃんと一緒にこたつを囲みました。
「昨日まで息子が孫さ連れて来てて、
3日泊まってたの。そんではぁ、墓や一周忌の相談なんかして、
そこまではオラの責任でやっがら、
あとはおめぇがやれって言ったら
『うん、わがった』て言うから、これで安心だ」

高橋のおばあちゃんは娘と息子の嫁とを
津波で亡くしてしまったのです。
Sさんが法要はどこでやるのかを尋ねるとおばあちゃんは答えて、
「1月30日の11時から30分だ」と日時も言うのです。

日取りの早さと時間の短さに私は意外に思ったのですが、
Aさんが「頼む人がすごく多いからね。早ぐやるんだね」と、
相づちを打つのを聞いて判ったのでした。

そんな話をしているところへ、
向の家のおばあちゃんがやってきました。
「ズボンのほころび縫おうと思ったど、
針も糸もないで借りにきた」と言って。
このおばあちゃんは前回来た時には玄関の鍵の開け方が判らず、
難儀していた人です。

田舎の農家の暮らしでは外に出る時にいちいち玄関の鍵など締めなくても、
物騒なことなど無く暮らしていたのでしょう。
私たちがいるのを見て上がって話に加わりました。
自分の体験したことを話しながら
「私らも大変だったけど、
石巻や気仙沼も大変だったなぁ。テレビで見たら、
はぁ気の毒なことだったなぁ。
けどまた漁に出るって頑張ってんな」と言ったのです。

Sさんはそれを聞いて涙をこぼしました。
Sさんの実家はその石巻なのです。
幸いSさんの家は少し高台にあり、
家族は無事でしたが親戚や友人には亡くなった人もいるのです。

Sさんは涙を拭いて言いました。
「それでも海で生きてきた人たちは、
陸に上がっては生きていけないの。
だから前を向いて生きるんだ。頑張ってんよ」
こんな風にAさんやSさんと一緒に行くからこそ、
仮設のおばあちゃんたちも地の言葉で心置きなく
おしゃべりもできるのです。

高橋のおばあちゃんは、
昼間は陽気にしていますが暗くなってくるととても不安になり、
夜は睡眠薬を飲まないと眠れないのです。
「また来っからね。ばあちゃん元気にしてでね」と、帰りました。
おばあちゃんの家から六角に戻った後で、
「また3月11日が来るけれど、
どんな気持ちで迎えるのかしら」と言った私にAさんは言いました。
「私もそうだけど、みんな受け入れられない気持ちだと思う。
気持ちを収めることなんかできないと思う」

昼過ぎには雪も止み、夕方には晴れ間も出てきました。
『たぁくらたぁ』の仲間たちに同乗させてもらい、
福島には暗くなって戻りました。
夕食を食べて帰ろうと、皆で駅の近くのそば屋に行きました。
店のご夫婦に「この辺でも放射能のことは話題になりますか?」と尋ねると、
「みんな気にしてますよ』と答えが返りました。

若い人や子どもたちの数はめっきり減り、
以前だったら土、日は家族ずれで賑わった店だそうですが、
今は週末の客も少なく子供連れが来ることは無いそうです。
そして店に来た客からは、こんな話も聞いたと言います。
その人が東京で飲み屋に入り注文をしたところ、
言葉のなまりに店の人に「どこからきたんですか?」
と聞かれ福島からと答えたそうです。

すると店の人に出て行ってくれと追い出されたのだそうです。
放射能が移るからと言われたそうです。
また別の客からは結婚して東京に住む息子の家を訪ねようと電話すると、
嫁に「おかぁさん、来るなら家に入る前によく手を洗ってからにして」
と言われたそうです。

私が別の人から直接聞いた、こんな話もあります。
他県に避難していた時、
ガソリンスタンドでは他の車には満タンに入れるのに、
自分のには5リッターしか入れてくれなかった。
理由を聞くと、福島からだからと言われた。
他の福島ナンバーの車もそうだった。
被曝の不安を抱えている上に、
こんないわれなき差別を受けて福島の人は生きています。                  
いちえ

1月20日

みなさま

年末にはみなさまからのご支援で、
1900枚の男性用ズボン下を
南相馬の被災者へ届けることができました。
本当にありがとうございました。

ズボン下のための支援をお願いしたその日から、
たくさんの方から義援金が届き必要枚数を調達できる額に達して
いったん閉め切らせて頂きましたが、
その後にも届けて下さった方もおいででした。

その浄財は、現地でのその先の支援活動に使わせて頂くことを
お約束していました。
以前「一枝通信」でお知らせしたことがありますが、
ビニールハウス建設に用立ててもらおうと思います。

本日現地のボランティア組織『原発事故から命と環境を守る会』
(会長;大留隆雄)から、下記の手紙が届きました。
皆様にもご覧頂いて、了解下さるようお願いすると共に
更なるご支援をお願いいたします。
本来なら届いた手紙の文字のままにご覧頂くべきですが、
私のパソコンにも私の技術にもその術が無く
手紙の文面をそのまま写します。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           全国の支援者の皆様へ
[原発被害者の声]               原発事故から命と環境を守る会
                         会長   大留隆雄       (ここに角判がおしてあります)
                         Tel 0244−24−2639  
3・11より間もなく1年です。昨年度は大変お世話になり
、心より感謝申し上げます。
皆様方の支援により、今年の冬は暖かく暮らすことが出来そうです。
又、食料品等もたくさん支援して頂き経済的にも大変助かり
、一段と落ち着きが見られるようになって参りました。
しかし高齢の方が八割を占める仮設住宅では、
仕事が無く日に日に体の衰えを感じるとのことです。
私たちボランティアはこの人たちに何とか立ち上がってもらう為、
そのきっかけを作りたく考えたのがビニールハウスでした。

仮設住宅の近くにビニールハウスを立てて、
仮設住宅の皆さんに自分で食べる野菜を作ってもらうことです。
そして夢と希望を持ち、元の農業に戻れるよう
お手伝いをさせて頂きたいのです。
この計画を仮設の皆さんにお話ししたところ、
皆さん喜んで是非やって欲しいとの声が大きく、
私たちもこれは何としても成功させたいと思いました。

このプランを行うには大きな資金が必要に成ってきます。
ここで又、ご支援者の皆様にお願いしなければなりません。
どうか私たちの活動をご理解の上、
暖かいご支援を宜しくお願い申し上げます。
尚、支援物資の方は3月末日をもって終わらせることにしますが、
窓口は今迄どうりあけておきますので、宜しくお願い申します。
今年も大変な年になりそうですが、
皆様のお力をお借りしまして
目一杯頑張るつもりでおります。
最後に皆様のご健勝をお祈り申し上げまして、
末筆とさせて頂きます。        
敬具

〒975−0049
福島県南相馬市原町区大甕字林崎51
TEL 0244−24−2639
FAX 0244−24−270
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ズボン下資金のために開きました「渡辺一枝名義」のゆうちょ銀行口座からは、
残金を引き出して下記の現地口座へ送金し
渡辺一枝名義の口座は閉じさせて頂きます。
現地ボランティアがビニールハウス計画のために開いた口座は、下記です。
どうぞ、皆様のご支援をお願いいたします。

銀行名;ゆうちょ銀行
記号;18220
番号;5137881
名前;ゲンパツジコカライノチトカンキョウヲマモルカイ
店名;八二八(読み ハチニハチ)
店番;828
預金種目;普通預金
口座番号;0513788

私事ですが、集英社発行の『青春と読書』2月号に
「聞書き南相馬」を書きました。
3回連載の1回目です。
お読みいただけたら嬉しく思います。
月末からまた福島入りの予定でしたが、

チベットからの客人を迎えていて月末には動けません。
2月中には行きたいと思っています。
また少し先ですが、3月7日にトークの会を予定しています。
改めてお知らせしますが「福島の声を聴こう」というタイトルで、
福島から被災者を招いて話してもらうと共に私の現地報告もいたします。
トークの会は何回か重ねて行くつもりです。                             
いちえ

a:2181 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 4.85
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional