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2012年11月の一枝通信

2012年11月の一枝通信

2012.11.3

みなさま

昨夜から南相馬に来ています。
★昨日福島で
昨日は昼頃に福島に着いて、珈琲店「椏久里」で美味しいコーヒーを頂き、
今日の移動喫茶用のコーヒーを仕入れました。
その時に、最近の飯舘村に関する情報を聞きました。
ご承知のように菅野村長は、”帰村”という方針です。
(当初は2年で、が今は5年で、となったようですが)
そのために来年は、一日に4000人の作業員を入れての除染に取り組むそうです。
(そのための歳出額は膨大です!!)

今は飯舘村から隣の川俣町に避難して仮校舎の小中学校も、
戻すという事だそうです。
除染後の汚染土、汚染物の仮々置き場に関しても
村民の分断が起きているようです。
この件に関してはもう少し情報を集めてからご報告します。
福島駅東口からのバスで飯舘村に入ると、
暮れなずむ薄桃色の空に薄鼠に浮かび、
紅葉した木々がきれいでした。
群れ飛ぶ鳥が、うっすら白い雲にシルエットのように見えて、
美しい光景でした。

見えない放射能を被ったままで、山も木も、
”美しく”在りました。
バスは臼石小学校を見て過ぎます。
ここには、誰もいません。
子どもたちは川俣町のプレハブの仮設校舎で、
勉強しています。
道路から見える小学校の外壁には、
「今日で欠席◯◯日」と、
大きく看板が掲げられています。

私が初めてここを通った去年の夏の日から、
いやそれ以前の全村避難になったあの日から、
◯◯に数字が入った事はありません。

現在仮校舎のある場所は
飯舘村から川俣町に入ってすぐの地、
そこさえもかなり放射線量は高いのではないかと思いますが、
帰村が実施されれば、子どもたちは村内の元の校舎に戻って
◯◯を数字で埋めるようになるのでしょうか?
そんな事があっていいものか!と思います。

★関口鉄夫さんのお話
今日は寺内第2仮設住宅集会所で、
環境科学者の関口鉄夫さんのお話の会でした。
関口さんは机上の学者のように数字や資料を見せて
説明するのではなく
野に出て自分で調査し、
それを素にごく身近な例を挙げて判り易く話してくれる人です。
今日も私は、その話し振りと内容に聞き入ってしまいました。
関口さんは皆さんの前で話し始めるとき、
なんとその手に、
短い茎を付けた色違いの3本のコスモスの花を
持って現れたのです。

「皆さんも、これで遊んだ事があるでしょう?」と言って。
一番前のおばあさんに一本渡して「どうぞやってみて」
と言うとおばあさんは「好き」と言いながら花びら一枚つまみ採って、
隣の人に渡しました。今度は「嫌い」と言って、その人がまた一枚。
最後の一枚になった花を、関口さんははみんなの頭を通り越して、
大留さんに渡しました。

大留めさんは、「だいッ嫌い」とつまみ採りました。
関口さんは、「これは『嫌い』から始めれば、
必ず最後は『好き』で終わるのです。

でも僕がここに来る前に飯舘村で摘んだコスモスは、
『嫌い』から初めても『嫌い』で終わったのです。
コスモスの花びらは8枚ですから『好き』で始めれば『嫌い』で、
『嫌い』で始めれば『好き』で終わるのです。
飯舘村では、花びらが9枚だったり11枚だったりもあったのです。
全部がそうではありませんが、何本かはそんなでした。
これが、放射能の影響なのです」
と、話し始めたのです。

今日は午前中は関口さん、大留さん、
現地ボランティアの荒川さんと
4月に警戒区域解除になった小高区を見て回り、
午後からのお話会でした。
関口さんはどこへ行く時もいつも線量計を持って、
測りながら歩いています。
今日のお話会もその時の事を話し、
「南相馬の海沿いは、僕の住んでる長野県と同じくらい。
若い人も安心して住んでいい状態です。
だから海沿いの所は、畑も使えるから、
そこをどんどん使って暮らしていったらいいです。
まだ大きな希望があります」と。

そして長野県の下條村という、
子どもがどんどん増えている村のことを話し
「なぜだと思いますか?」と問いかけ、
子どもの医療費が無料である事を伝え、
なぜそんなことができるかを具体的に話しました。
例えば村道の修理などは業者に任せるのでなく、
材料費は村が出し、村民が作業をする事で無駄な歳出が無いことで、
村としての借金が無いからできるのだと話し、
そんな自治体にしていくように
市民が動いたらどうかと提案もしたのです。

★移動喫茶

関口さんのお話、是非ぜひ、皆さんにも聞いて頂きたい話でした。
お茶の接待の私は茶菓子やお茶
、珈琲などを六角支援隊の人たちと用意しました。
会場の寺内第2仮設に来る前に、
南相馬道の駅近くの仮設にいる高橋宮子さんを誘って、
宮ちゃんも一緒に参加してもらったのです。
寺内第2仮設には萱浜の人が多くいます。
宮ちゃんも萱浜の人でしたから、
久しぶりにみんなと会えたらいいのではないかと思ったからです。

宮ちゃんは、家を流され娘二人を津波で亡くし、
孫達は埼玉に住んでいて無事だったのですが、今は仮設に一人です。
以前私は宮ちゃんの事を『青春と読書』に書きましたが、
毎朝仮設から小一時間押し車を押して歩いて海を見に行っているのです。
睡眠薬と精神安定剤が無いと眠れない毎日を過ごしています。

「寺内第2で先生のお話があるし、
私が移動喫茶やるから一緒に行こう」と誘うと、
最初は「別の仮設だから」と遠慮していたのですが、
萱浜で仲良しだった友達達にも会えると、
一緒に行ってくれたのです。
関口さんの話が終わってから、
萱浜で暮らしていた人たちが車座になって
またひとしきりお喋りをしました。

みんな子どもが小さかった時の事や、津波当時の話も出て、
互いに「大変だったなぁ」と労いあい、涙を流し、
「元気でいような」と別れました。
同じ集落にいた人たちが、
こんなふうにお喋りしあえる時を持てた事もよかったと思いました。
宮ちゃんを送って、わたしも六角に戻りました。

明日は小池第3仮設で、今日と同じように、
関口さんの話と移動喫茶です。
今回も長文、おつきあいをありがとうございました。                いちえ

a:2110 t:1 y:1

2012.11.7

みなさま

★「放射能」についてのお話会&移動喫茶
3日(日)午前中は、2日の寺内第2仮設に続いて小池第3仮設住宅で、関口鉄夫さんの「わかりやすい“放射能”のお話」がありました。前日よりも更に多くの方が集まって、また前日は女性ばかりでしたが、この日は男性達も数人参加されました。

関口さんのお話
「放射能の事を考える時に、まず日本がどんな国かを知って欲しい」そう言って関口さんは簡単に日本の地図を描き、「ここに宮古島という小さな島があります」
そう語り出した関口さんは、宮古島の住民に呼ばれて調査した時の事を話しました。
188人のお年寄りが住む小さな集落での事です。

●公害に対しての自治体や国の姿勢
集落の外れにゴミを溜めてある場所があって、そのゴミタメ場で火事が起き住民は逃げたが、煙は集落の方へ流れた。
火は消えたが3ヶ月後に住民達は、皮膚から薄紫色の出血が出たり水泡ができて破れたりした。
また、煙が流れた方角にあるサトウキビ畑で働いていた3人が死んだ。
住民達はみんな、どこかしら具合が悪くなった。(火事から3ヶ月後のこうした状況の時に、関口さんは呼ばれて調査に行ったのです)
調べてみると、ゴミタメ場からはもう火も煙も出ていないように見えたが、下ではまだ燃えていてアクロベイムとベンゼンという有害物質を出していた。
その後も2年ほど燃え続けていた。
住民は(平均年齢87歳)お金を出し合って、裁判を起こした。
沖縄県も環境省も、火は消えているから問題ないと言い続けた。
宮古島のこの例を話したあとで、茨城県の竜ヶ崎の井戸水が原因で癌になった住民の話もしました。
これは竜ヶ崎市のゴミ捨て場から有害物質が地下水に滲み、汚染水が井戸に入っていた事が原因でした。
住民は裁判を起こして最終的には勝訴しましたが、市も国も無視だったそうです。
「こう言う仕事をしていると、日本はこんな国なんだという事がよく判ります」と、環境科学者の関口さんは、自身が関わった中からの宮古島と竜ヶ崎を例に挙げて、こう言いました。
●福島第一原発事故
「事故の後で米原という学者が福島に来て講演をしましたが、皆さん覚えていますか?」
〜1年間に100ミリシーベルトの放射線を浴びても、200人のうちのたった一人が癌で死ぬだけです。
 1年間に200ミリシーベルトを浴びると、200人のうちの2人が死にます。〜
「米原さんは、こんな絵を描いて、そう言ったのです。たった一人という言い方をしたのです。
それでは、他の人はなんでもないのでしょうか?
国も御用学者達も、放射能=ガン=死としか考えられないのでしょうか?
チェルノブイリでは8年後に循環器系の障害が、10万人中98,000人に出ました。ほぼ全員ですね。
その他免疫障害や目の症状等々、さまざまな問題が現れています」
福島第1原発事故の影響は、人によっても出方が異なるので、自分はどんな汚染を受けているのかを知るようにすること。
そのためには、どんなに小さな事でもいいから、記録をとっていく事や、また昨年の3月以降の事もできる限り思いだして記録しておく事。
南相馬は海岸より2〜5キロの地域(20キロ圏内も含めて)は、長野市並みの放射線量なので、安心して住んで大丈夫。
(これは前日も話されたのですが、海岸から2〜5キロの地域は、日中に太陽に照らされて地表が温まっているいる為に空気が上昇している。その上昇する空気の層が、ちょうどヘルメットのようになって、原発から吐き出された汚染物質を含む空気を跳ね返す。そのために汚染された空気は、海岸から2〜5キロの地表を通り越して向こう側へ流れ落ちる。それが、阿武隈山系と奥羽山系の間を通り抜けて伊達市や飯舘村に流れた。)
ただし、南青馬でも山に向かって汚染が進んでいるし、場所によって汚染された度合いは異なっている。
海岸から2〜5キロでは、作物を作っても大丈夫だし、作物によって放射線の吸い方が違うので、そうした事もよく知って作っていくとよい。
●二次汚染
汚染された瓦礫と、汚染されていないものを混ぜて無雑作に燃やしたりする事が危険。(これにより放射能が出る)
政府はフィルターをかけて汚染物質を吸着させるから燃やしても大丈夫などと言っているが、それは嘘。
海に近い数キロの瓦礫はきれいだが、平野(川が流れてできた扇状地)の頭の部分の瓦礫や、山の方の瓦礫は放射線量が高い。
だから、これらを一緒に燃やしてはいけない。

関口さんは、もっとたくさんをわかりやすく話して下さいました。
そして最後に「国を頼っているといつまでも嘘をつかれます。国を信用しないで、丁寧に自分たちで自分たちの村作りをしている地域は、日本全国にたくさんあります」と言って、前日も話して下さった長野県の下條村などの例を話して下さいました。
参加された方からの質問にも丁寧に答えられて、きっと皆さんにはこれからの見通しを立てる指針になった事と思います。
仮設住宅に住む方達も、いろいろです。
海岸から2〜5キロに家があって、津波で家が流された人。
地盤沈下や液状化している地域に家があった人。
津波の影響は受けなかった山の方に家があり、家はそのまま残っているけれど放射線量の高い地域の人。
仮設住宅に住むお年寄りの子どもや孫世代は、南相馬を離れて避難生活を送っている人も少なくありません。
家族が分断された生活の中で、先の見通しが持てない事がなによりも辛い事だと思いますが、関口さんの話がそれぞれの家族が今後の暮しを考えていく上での参考になったと思います。
また、今ここで暮らしているお年寄り達にとっての安心感にも繫がった事と思います。
この日も、移動喫茶をいたしました。

報告がこんなに遅れて、また冗長な報告になりました。
この日の午後は鹿島区の浄土真宗本願寺派のお寺をお訪ねし、ご住職からのお話をお聞きして帰りました。
その報告はまた改めていたします。
最後までお読み下さって、ありがとうございました。                いちえ

2012.11.12

みなさま
 11月1〜3日の南相馬行きの報告が、まとめて速攻でお送りできず、何とも間延びした報告です。
ゆっくりと机に向かう時間が取れずに居ました。
11月2、3日の仮設住宅での、環境科学者関口鉄夫さんの講演の事は、前の通信でお伝えしました。
今日は3日の午後、お訪ねした南相馬市鹿島区のお寺で聞いた事をお伝えします。

●支援物資
このお寺は海からは離れていましたから津波の被害はありませんでしたが、地震でかなりの被害を受けました。
本堂も母屋も壁や長押が落ちたり、墓石が倒れたり、屋根瓦が落ちたりと、地震直後はかなり酷い状態でしたが、それでも屋根は崩れず人は住めたので、数家族の避難者を受け入れて暮らしていました。
福島第一の原発事故の報を受けて、ご住職の家族や避難して来た家族は福島、仙台、一関などへ避難しました。
ご住職は頼まれていた法要があったので、それを済ませて翌日家族に合流する予定だったそうです。
ところが津波で亡くなった方達の法要や火葬が次々に入り、結局すぐには合流で来ませんでした。
ガソリンが無くて火葬できないという時になって、家族が避難している仙台に行ったのですが、仙台について落ち着く間もなくガソリンが入ったから再開するという連絡が火葬場から入り、翌日すぐにまたお寺に戻りました。
原発から半径30キロ以内は物流が途絶えていた時期も、鹿島区のこのお寺は30キロ圏外でしたから、全国の同門のお寺から支援のお米などが届きました。
それを避難所に届けようとしたのですが、避難所では「宗教団体からの物資は受け付けません」と言われ、また同門のお寺関係からは送ったものは普通に言う”米”ではなく、仏に供えるものとして寺に寄贈されたもの”供物”(これをご住職はもっと違う言葉で言ったのですが、寺の用語のようです)だから、門徒に配るものであるということで、結局は避難所で被災者には配らず、避難所に居る門徒さんに連絡をして、お寺に取りに来て貰ったと言うのです。
お寺の修復を急いで台所が使えるようになった頃には、被災者たちも避難所から仮設住宅に移っていました。
その頃からはお寺で焚き出しをして仮設住宅の門徒さんたちに知らせて、お寺に来て食べていくというようにしたそうです。
食べ物以外の支援物資も、そのようにして配ったそうですし、今も各地の同門のお寺から炊き出しなどの申し出があって、その時にはこのお寺が会場になって、被災した門徒さんたちが集うのだそうです。
なんだかとても妙な気がしながら、このお話を伺いました。
お釈迦様が説かれた慈悲は、同門の一部の人に対してだけの慈悲ではなかったでしょうに。

●ご遺体の無い死者のこと
ご住職に「一番辛かったのは、どんな時だったでしょうか」と伺うと、行方不明の家族の死亡届を出す事について相談を受ける時だとの答えが返りました。
南相馬市では今年の5月の段階で、行方不明者3名となっていますが、家族が死亡届を出せば行方不明者ではなく死者として数えられます。実際にはまだ見つかっていない人は、もっともっと多いのです。
昨年6月に行方不明者の死亡認定が出されることになったとき、世帯主が亡くなった場合は500万円、家族の場合は250万円の補償金が出るが、それとは別に原発から30キロ圏内は一人10万円が出るが30キロ圏外にはそれは出ない。
そのような事から、生活の糧を無くした家族たちは、保険や賠償の問題などで苦渋の選択を迫られ、ご住職に相談したのです。
生活のために自分の家族を見殺しにして、葬式をしてもいいだろうかと相談されたが、そうした相談は6月当初から12月まで続いたし、一周忌過ぎなければ葬式は出せない人もいたそうです。
ご住職は、話を聞きながらも、また古くからのおつきあいでご家族の事をいろいろ知ってはいながらも、それを決めるのはご家族であると答えるしかないのですが、「とても辛かったですね」と言いました。

●お酒の力を借りて
仮設住宅ができ、避難所から仮設に移る頃に「ここで酒飲みでもしよう」と呼びかけてみんなが集まり、山形からたくさん送ってもらった山菜で天ぷらを作ってみんなに出したそうです。避難所ではお酒は飲めなかったからです。
始めはみんな黙って飲んでいたのですが、一杯が二杯に、三杯になる頃から、被災当時や避難の事などを「あの時、俺は…」など話し始め、それまで互いに誰にも話さず、胸にたたんでいた思いを口々に話し始めたと言います。
「やっぱりなぁ、酒が無いと話せなかったんだろうな。それからは、みんなざっくばらんにいろんな事はなすようになったな」とのご住職の言葉に、私も深く頷けました。
これまで何度か仮設住宅で被災者の話を聞かせてもらいましたが、女性よりも男性が、より辛さを口に出せずにいることを感じていました。
お酒の力を借りてもいいから、思いをためずに吐き出せる場や、時は必要だと思えます。

●30キロの線引きが起こす矛盾
「一年半経って、門徒さんの中からも6軒が家を新築して少しずつ変化が見られるけど、こうなってきてからかえって問題が出てきている。『あの家は家族が4人死んだから、金がたくさんはいったんだベ』なんて言う人がいるんだよ。前には『4人も亡くなって、大変だったね。家はそれに比べたら幸せだ』なんて言ってた人がだよ。30キロの線引きで、その圏内と圏外では賠償金なんかも違うから、余計にそんな問題が出てるんだ」
また、圏外の被災者は圏内の被災者に対して「貰った金で暮らしてないで、働け」と言って当たる人もいるそうです。
けれども最近では、30キロ圏内の被災者が働き口を求めても、求人側が「30キロ圏内に人はお金が入るのに、圏外の人はそれが無くて大変なのだから、うちは困っている30キロ圏外の人を採用します」と言うことが起きているそうです。
30キロ圏内の人と圏外の人は、このお寺での炊き出しや飲み会の時なども、まったく二手に分かれてしまって互いに反目しあっていると言うのです。
またこうした事はこの寺の門徒間での事ばかりでなく、他の被災者たちにも頻繁に見られる事のようで、政府の決めた30キロの線引きが大きな矛盾を生んでいると言います。

3・11後、盛んに『絆』が叫ばれました。
けれども原発は、放射能を放出するばかりでなく、こうしてコミュニティを壊し、人々の気持ちを反目させあい、体も心も蝕んでいます。
今日もまた、長文をお読み下さってありがとうございました。                          いちえ

2012.11.17

みなさま

14日、飯舘村から福島市に避難している「かーちゃんの力プロジェクト」代表の、渡邊とみ子さんに会いに行ってきました。
この日は東京を出た時には晴れていたのですが、福島駅に下りた頃から曇り空。
福島駅から「かーちゃんの力プロジェクト」の事務局があるコミュニティ茶ロン「あぶくま茶屋」のある金谷川に着くと雨がぽつぽつ落ちてきました。
あぶくま茶屋まで乗ったタクシーの運転手さんは「降ってきたね。ここらじゃ雨だけど、山は雪だよ」と言っていました。
東京では、本格的な冬支度はまだこれからという時期ですが、東北にはもう冬がやってきているのでした。

●かーちゃんの力プロジェクト
原発事故で避難を余儀なくされた飯舘村や川俣町、浪江町や葛尾村、川内村、田村市都路町などには「かーちゃん(女性農業者)」たちが地域の特産品や加工食品を作り販売する場がありました。
お店や農家民宿で手料理をもてなすかーちゃんもいました。
かーちゃんたちは、地元の食材にこだわり、体や健康に良いものを作ってきていました。
そこは、かーちゃんにとっては、厳しい自然の中で生きていく生活の場でもあり、地域にとっては、地元を活性化する上で大切な場でもありました。
ところが原発事故は、それまで築いてきたそうした場を奪い、避難先の暮しでは、かーちゃんたちの知恵や技術を活かす場がありませんでした。
そこでかーちゃんたちは、福島大学小規模自治体研究所とともに「かーちゃんの力プロジェクト協議会」を立ち上げ、かーちゃんたちの知恵と力を活かす場をつくったのです。
現在は「NPO法人ほうらい」など諸団体と協力して、あぶくま地域を元気にする活動に取り組んでいます。
とみ子さんは、このプロジェクト立ち上げに最初から関わり、会長をしています。

●渡邊とみ子さんの話
とみ子さんは飯舘村にいた時には、「飯舘ベイクじゃがいも研究会」という組織を作って、飯舘村特産の”イータテベイク(じゃがいも)”と”いいたて雪っ娘”という銘柄のカボチャの種の育成に取り組んでいました。
作物を育てるのは大変な仕事ですが、種を育てるご苦労もまた本当に大変なものです。
カボチャは他家受粉させないといけないのですが、育種のためには、系統別に受粉させるのだそうです。
専門的な話になって長文になりますので省略しますが、カボチャの品種登録は難しいのだそうですが、品種登録も済ませたのです。
20〜30年かけて飯舘オリジナルの種ができて、ようやくこれからという時に起きた原発事故でした。
とみ子さんは飯舘村から避難した先の福島市で土地を借り、また岩手県の遠野まごころネットを通じて遠野の牧草地だった場所も借りて、取り組み、今年の2月『現代農業』に種を販売する事を載せたそうです。
全国から注文が殺到して、飯舘村では10月下旬から11月に収穫していたのですが、早いところではお盆を過ぎた頃には収穫したと便りが届き、また「こんなに美味しいカボチャは、初めてです」という声も届いたそうです。
とみ子さんは飯舘村にいた時には育種の仕事と共に、「までい工房」を営んでいたので、そこで使っていた厨房用具をそっくり現在のあぶくま茶屋に持ってきて活用し、プロジェクトの皆さんが、ここで漬け物など農産加工食品を作ったり、栄養バランスを考えたお弁当を作り、販売しています。
また、あぶくま地域の食文化伝承を目指して、地域の子どもたちの体験学習などにも取り組んでいます。
「飯舘村での”までい工房”も5年目に入って、右肩上がりでやってきて、そこに突然の避難生活になって、今まで積み上げてきたものを止めるような気持ちの切り替えはできなかった。そんな時にこのプロジェクトの話が持ち上がって、飯舘村でやってきた事を活かしながら、あぶくま地区の女性農業者を一人一人訪ねて、仲間に誘ってプロジェクト協議会として立ち上げ、会長になりました。
夢中でやってきているけれど、飯舘村から避難して2年目の今、帰れない事は判っていても、飯舘村を捨てきれない。
考えると涙が止まらなくなる。最近、よけいにそうなっている。鬱と躁の状態みたいだと感じる事もある」と、とみ子さんは言います。

●とみ子さんの夢
「ここの仲間に『みんなの夢は何?』って聞いた事があるの。私の夢は、故郷を奪われて戻れないかもしれないこの方達一人一人が生きてきた証を、記録に残したい。伝統や技を伝えるだけでなく、人が居たという事を記録に残したい。飯舘村は町村合併の時も独立でやっていくという事で合併せずに、一人一人の力を活かしながら「人つくり」でやってきたのだから、関わってきた人たちの歴史を残したい」

●放射能測定
あぶくま茶屋で販売しているものは、もちろんすべて放射能測定をして基準値以下のものしか販売していません。
私は南相馬の六角支援隊の畑やビニールハウスに関わっていて、測定の際の苦労を目にしたり聞いてもいました。
たとえば、カボチャの場合。カボチャは皮が堅い野菜ですが、それをみじん切りにして一㎏の量を作るのです。
白菜でもキャベツでも人参、大根、すべて、みじん切りにしたものを一㎏用意して測定するのです。
六角支援隊の荒川さんは、それで腱鞘炎になりました。(今はフードプロセッサーを使っています)
とみ子さんに私がその話をすると、とみ子さんは言いました。
「そうなの。だから私はどこかに話をしにいく時には、みじん切りにしたカボチャや、じゃがいもなんかをビニール袋に入れて持って行くんです。それを机に置いたりすると『ゴミですか?ゴミ箱はここにありますから』なんて言われる事があるんです。
だから説明するんです。こうやって線量を測定していますって。カボチャの一㎏、じゃがいもの一㎏、白菜の一㎏って、みんな違うんです。ただの一㎏、水の一㎏とは違うんですって言うんです。簡単に検査、検査と言わないで欲しい」
「そうやって検査して、もしも基準値より高かったりすると、生産者は犯罪人みたいに言われてしまう。米もそう。作った人も、自分が悪い事をしたように思ってしまう。それはいたたまれない。生産者のせいじゃないでしょう?けれど、そんなふうに責められてしまうのは、いたたまれない」

それまでの生涯で築いてきたものを、突然断ち切られる。仕事も人の繋がりも、何もかも。
そして、とりあえずの今があるけれど、先の見通しがまったく判らない。
被災者が置かれているのは、そうした状況です。

育種の話など興味深く、もっとお伝えしたいのですがまたも長文になってしまうので、これで止めますが、最後にとみ子さんのこの言葉は、ぜひお伝えしたいと思います。
「植物を手入れしていて、こんなに過酷な状況で、芽を出し実をつけてくれる事に、涙が出る。
代償は非常に大きいが、日本人は生き方、生活の在り様を考え直さなければいけないのではないだろうか」 

最後までお読み下さって、ありがとうございました。              いちえ

2012.11.20

みなさま

●白馬へ
昨日は、福島県大熊町から信州白馬に避難している木村紀夫さんを訪ねてきました。
木村さんをお訪ねするのもこれで3度目ですが、新宿からあずさ3号に乗車した私の携帯に木村さんからのメールが届きました。
「水、木と、こちらは雪でしたから、気をつけておいで下さい」と。
大糸線直通の列車が松本駅を過ぎ安曇野に入ると、木陰や窪地は白く雪が見え始め、山間部に入ると人家の屋根も白くなりました。
中学時代は登山同好会、高校、大学は山岳部と、山ガールだった私には沿線はどこも、懐かしい地です。
雪の日も少なく、降ってもつもる事のない福島県浜通り地方の海が見える家に住んでいた木村さんが、雪深い信州白馬の木立の中の家に住むことになったいきさつを思いながら、雪景色を眺めて行きました。
白馬駅に着くと、野池道子さんが迎えてくれました。
道子さんは「信州発 産直泥つきマガジン『たぁくらたぁ』」編集長、野池元基さんの奥さんです。
道子さんが同行して下さる事が判ったのは、前日の夜の事でした。
キンカンデモ(金曜日官邸包囲デモ)から帰宅して白馬行きの支度をしていた時に、道子さんから電話がありました。
「私もね、木村さんのところにいつか行きたいと思っていたのだけれど、いきなり初対面の私が一人で行くのも躊躇するし誰か行く時に一緒に行きたいと思っていたの。一枝さんが行くのを聞いたから、私も一緒に行くわ」と。
とてもありがたい事でした。

●木村さんのお宅で
白馬は道路には雪はありませんでしたが、もうすっかり雪景色。
それでもこの日、はいくらか気温が高かったのでしょう。暗い空からは雪ではなく雨が降っていました。 
木村さんのお宅に着くと、舞雪ちゃん(木村さんの長女で6年生)は台所でシフォンケーキ作りに挑戦しているところでした。
まずは、道子さん持参のクリームシチューとパンで、お昼ご飯のテーブルを囲みました。
誰にでもすぐに打ち解けて話せる人柄の道子さんの話題に、木村父子も聞き入りながらの昼食を終えて、舞雪ちゃんは道子さんに手伝ってもらいながらシフォンケーキ作りの続きにかかりました。

●『福島の声を聞こう』vol.4のお誘い
私は木村さんと来月15日のトークの会の事を打ち合わせました。
12月15日のトークの会「福島の声を聞こう」で木村さんは、個人の体験というばかりでなく、きっと私たち誰にでも普遍的に考えさせられる問題を話して下さると思います。
ぜひ、たくさんの方に聞いて頂きたいと思います。
トークの会のご案内、チラシを添付いたします。

●「フクシマを忘れない!『希望の牧場〜ふくしま〜』代表、吉沢正己さん講演会」へ
木村さんの家を辞して、道子さんの車で長野へ向かいました。
7時から、長野市で吉沢さんの講演会が開かれるからです。
主催は、上に挙げた信州発 産直泥つきマガジン『たぁくらたぁ』です。
吉沢さんの話を聞いた事がある方も、多いことと思います。
渋谷のハチ公前にもたびたび街宣車で現れますし、11・11官邸前100万人大占拠の日も、スケルトンの牛(九州のアーティストの作品)と共に現れてマイクを握っていました。
私のトークの会『福島の声を聞こう』の、第一回の時にも話して下さいました。

●「ぼくが、被曝した牛を飼い続ける理由」
昨夜、長野市での講演会で吉沢さんは、3月11日の地震発生の時から浪江町全町民避難までの経過を話し、そうした中で“牛飼い”としての自分、そして飼っている牛たちのこれからを考えて今に至っていることを熱く語りました。
”絶望の町”になってしまった浪江町の牧場で、被曝して売り物にはならない牛たちに、自身も被曝しながら餌をやり続ける吉沢さんは「餌をやらなければ牛は餓死する。餓死は最大の虐待です。政府は、殺処分と言うけれど、それは戦争末期から戦後の“満洲棄民”と同じです。棄畜です」と訴え、原発を推進してきた政府と東電を糾弾します。
これからも脱原発を訴えて闘い続けるし、原発立地の市町村にスケルトンの牛と共に街宣車で行くそうです。
脱原発のために何よりも大事なのは、市民の「連帯」だと言います。
熱く、尽きずに話す吉沢さんに、参加者は「今日は辛い話を聞くかと思ってきたのですが、吉沢さんの話を聞いて力づけられました」の感想も出ました。                                       

吉沢さんの話にもあった「市民の連帯」が、そしてまた私たち一人一人の行動が、脱原発の社会を作って行くのだと思います。
原発事故を受けて、避難する/しない、で家族内で、職場で、地域で、子どもを持つ親たちの間で、分断が起きている事を見聞きしてきました。
原発問題は避難に関してだけではなくさまざまな点で、人間関係をも壊そうとしています。
「連帯」を、改めて思います。                              
★12月1日(土)午後1時半〜(開場1時)
 映画『シェーナウの想い』上映会&広瀬隆さん講演会
 場所;新宿カタログハウスB2ホール
 会費;1000円
 主催;戦争への道は歩かない!声を上げよう女の会
★12月5日(土)午後3時〜(開場は2時半)
 渡辺一枝トークの会「福島の声を聞こう!」vol.4
 場所;セッションハウス・ガーデン
 参加費;1500円(参加費は被災地への基金)
 ゲストスピーカーは大熊町から信州白馬へ避難している木村紀夫さん

★マークへのご参加、お待ちしています。

                  いちえ

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