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2012年12月の一枝通信

2012年12月の一枝通信

2012.12.19その1

みなさま

期日前投票を済ませて16日朝から、南相馬へ行ってきました。
現地からお送りするつもりでパソコン持参で行ったのに、
うまく繫がらず、遅れてのご報告になりました。

16日は、仮設住宅にいる子どもたちにと
クレヨンハウスさんからお預かりした絵本を、
小池長沼仮設住宅、小池第3仮設住宅、
寺内第2仮設住宅の子どものいる家庭にお渡ししてきました。

小池第3仮設住宅は、
昨年の11月に支援物資配給で訪ねた時に
思いがけずにお母さんに抱かれた赤ちゃんに出会ったところです。
その時生後3ヶ月だった康成ちゃんには、
その後も仮設住宅で、
また萱浜のお父さんの実家に居た時にも会っていましたが、
この日はちょうどお昼寝したばかりのときで、
寝顔を見ただけで帰りました。

すやすやと眠っている康成ちゃんが、
このまま健やかに育ちますようにと祈りました。
小池長沼は子どもの姿を良く見かける仮設住宅ですが、
日曜日だったためかお留守の家が多く、
自治会副会長の志賀さんに託して帰りました。
この仮設にいる赤井さんは萱浜で自転車屋さんでした。
仮設の住まいの外にも自転車が何台か置かれていて、
それは修理を頼まれたものであったり、
また廃棄された自転車を集めて、
仮設の皆さんが使えるようにと直したりもしているのです。

赤井さんのお宅にも子どもがいるのですが、
この日はやはり留守でした。
小野田さんの家の外には子供用自転車が
2台置かれていましたが、
小野田さんも留守でした。
置かれていた自転車は、
赤井さんが直したものだったかもしれません。
寺内第2は上野さんの倖吏生(さりい)ちゃんがいますが、
上野さんも留守でした。
上野さんの2軒となりの浜野さんに、
倖吏生ちゃんへの絵本を預けました。

浜野さんのお宅でお茶を頂きながら、
また話を聞かせてもらいました。
昨年8月に私が初めて南相馬を訪ねた時に
最初に話を聞かせて頂いたのが、
この浜野さんでした。
昨年3月11日の地震の時、
浜野さんはいわき市の病院に入院中でした。
その前日に胃ガンの手術を受けたばかりだったのです。
奥さんも付き添いでいわき市に居ました。

萱浜の自宅は津波を受けて傾き、
畑もすっかり波をかぶってしまいました。
いわき市に居たお陰で夫婦共に無事でしたが、
退院後は帰る家はなく避難所に居て、
7月に仮設住宅に入居できました。
初めて私が会ったのは、仮設入居の一ヶ月後のことでした。
それから後も被災された方達から聞く話は
どれも忘れられない話ばかりですが、
この時に浜野さんから聞いた話も衝撃的なものでした。
萱浜の集落では津波で亡くなった人が60人以上にのぼり、
知人や友人のお葬式が相次いだそうです。

浜野さんは東電からの仮払い賠償金の100万円で夫婦の喪服を買い、
友人や知人のお葬式の香典や花輪などで
その100万円は瞬く間に消えてしまったと言いました。
津波で何もかも失ってしまっても、
なお地縁を大切にする人たちの、これまでの暮しを思いました。

今年の春にはみなさまからのご協力も得て、
仮設住宅の近くに被災者のためのビニールハウス5棟と
9反5畝の畑を作りましたが、
浜野さんは毎朝畑の草取りをして下さっていましたし、
キュウリやトマト、ナス、インゲンや枝豆、
たくさんの野菜を育てていました。
腰が曲がって足元がおぼつかない浜野さんですが、
真夏にも朝4時過ぎには、もう手押し車を押して
畑に行き草取りをしていました。
浜野さんのご主人はこの秋に
電球の球が切れたのを交換しようとして踏み台から落ち、
肋骨の骨を折って入院したと聞いていたので心配していたのですが、
数週間前に退院してこの日はご夫婦揃って家に居ました。

お茶を入れてくれながら、奥さんが言います。
「米が高くてまいっちまうな」と。
萱浜では農業をしていたので、
お米も買ったことはなく自分で作ったものを食べていましたが、
買う身になってみると「米は高いもんだな」と言うのです。
作った米を農協に売っていたときの倍以上の値段で買わねばならない、と。                 

翌日に訪ねたところで聞いた話では、
鹿島区では今年は米を作ることができ放射線量も
基準値以下の20〜30ベクレルで出荷できるのですが、
福島産だということで売れず、
結局はチェーンでやっている飲食店などに
格安で買い叩かれてしまって農家は大変だということでした。

こうしたことは被災地だけの問題ではなく
私たちの国が抱える経済システムの問題ではありましょうが、
被災地にはなお一層の重くのしかかっているのです。                                    いちえ

2012.12.19その2

みなさま

16日に南相馬の駅に迎えに来てくれたのは
現地ボランティア「六角支援隊(原発事故から命と環境を守る会)」
の荒川夫妻でした。
陽子さんが着ていた赤いフリースの上着が、
私より8歳ほど若い彼女にとても良く似合っていました。

「きれいな赤ね。よく似合う」と私が言うと、
「なんだかこの頃ストレスが溜まってんのかなぁって思うけど、
鬱っぽくて、それで気分を変えようと思って着たんだ」と、
答えが返りました。
現地ボランティアの牽引役の大留さんを支える左右の腕が、
この荒川陽子さんと鈴木時子さんです。

荒川さんの家は小浜の海岸縁で、津波被害を受けました。
家族はみな無事でしたが、
以前は3世代5人家族で暮らしていたのですが、
今は3カ所に分散して暮らしています。
福島市内に勤め先がある息子は会社の寮で暮し、
嫁と孫は避難先の東京でアパート暮らしです。

陽子さんと登さんは、
南相馬市内の借り上げ住宅に愛犬と共にいます。
荒川さんは自身も被災者でありながら、
現地ボランティアとして支援物資配給や、
ビニールハウスと畑の作業、
その他毎日ボランティア活動に忙しく過ごしてきました。

私は月に一度か二度現地に行くだけですが、
その折に見ていてさえも、
本当に六角支援隊の皆さんは
自分のことをする暇もないくらいに
被災者支援に奔走している毎日なのです。

陽子さんが言ったことがあります。
「ボランティアしてるから、
こうして元気でいられるんだ。
これがなかったら、気分が落ち込んでどうにもならないと思う。
だけど息子がこの間言われたんだって。
親がボランティアしてるって言ったら、
”へぇ〜、家がなくなったって、
ボランティアするような余裕あんだな”って。
そうじゃないんだけどね。畑もなくなっちゃったし、
やることなくなっちゃったから、
気持ちに余裕なんかなんにもないんだけどね」

自宅の在った場所は居住制限区域になってはいませんが、
この先をどうするのかまだ考えることができずに居る陽子さんです。
息子達はもう元の場所に住む気はないと言うし、
親戚達は実家の在った場所を残して欲しいと言う。

自分たち夫婦は、息子達と一緒にどこかへ移って
そこで新たな生活を始める気力は湧かないと、
悩んでいる毎日です。
被災直後の避難生活の頃から今も、
睡眠役と精神安定剤を服用していますが、
これまでの疲れも出ていると思いますし、
なによりも先が見えないことが
一番大きなストレスの原因になっているのでしょう。
正月が過ぎて被災から丸2年を迎える3月、
現地の人たちの抱える心の重さはどんなでしょう。

クレヨンハウスからの絵本を配りに
鹿島区にある仮設住宅を廻りましたが、
小池第3の世話役の蒔田さんは座骨神経痛が痛んで
腰を曲げ足を引き摺るようにしてやっと歩いていました。

皆さんからのご協力でズボン下を贈ったのも、
昨年のこの時期のことでした。
ますます寒さが厳しくなってくるこれから、
案じられることばかりです。
上原さんのおばあちゃんは、
昨年末にご主人が亡くなってから
だんだんに引きこもるようになり、
認知症の症状が出ていましたが
なお一層酷くなっているようです。
大留さんに会っても、まったく判らないそうです。                              いちえ

2012.12.20

みなさま

17日の早朝、小浜の海べりを歩きました。
原発から20キロ圏内のエリアは、
まだ津波の後も生々しく残っています。
それでも夏頃よりはだいぶ瓦礫も片付けられていますが、
地盤はかなり沈下していることが判ります。
田圃だったところは、
地中に埋めてあった給水パイプがむき出しになって、
虚空に手を伸ばしたように出ていました。

そして干潟のように、
海水が浅く残ったままで田圃の面影はありません。
その水面に白鳥が数十羽、
鳴き交わしながら浮いていました。
道の端には、牛の顎の部分の白骨が転がっていました。
すっかり乾涸びた牛糞が一つ、叢にありました。
雨が降れば流れてしまうものでしょうに、
こうして残っているところを見れば、
そう古いものではないのかもしれません。
まだこの辺りに、
はぐれ牛が彷徨っているのかもしれないと思いました。

宿に戻って朝食の後で何人かの方に会いましたが、
誰もが一様に、選挙の結果に愕然としていました。
「経済よりも、命だろうが!」と、漁師さんの言葉です。
この方は3月11日、地震の後で橋の方を見たら
白い波が橋を呑もうとしているのを見て
「津波だ」と思い家に戻ってバイクで逃げました。

バイクのエンジンがかかった時には、
津波が背後に迫っていました。
そのまま逃げ切りましたが
「俺のバイクは時速40キロだから、
津波の時速も40キロだったんだ」と言っていました。
息子さんも漁師さんで、
息子は船で沖に向かったが波の高さは船の全長と同じだったそうです。
津波を乗り切る時に、
船が垂直に立ったと、言いました。
父子とも辛くも逃げ切り、
家族は全員無事で今は中古の家を買って住んでいるそうです。

この日は相談事があって、
鹿島区の勝縁寺のご住職にお会いしました。
ここでもまた、震災当時のお話をたくさん聞かせて頂きました。
予定ではもう一泊南相馬で過ごすつもりでしたが、
用事もすべて早くに済んだので、17日に帰宅しました。
家に戻って新聞を読み、
選挙の結果に改めて暗澹とした思いになりました。
けれど、落ち込んではいられません。
むしろ、闘いはこれからなのだと思いました。                      
いちえ

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