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2012年2月の一枝通信

2012年2月6日

みなさま

鹿島区小池の仮設住宅に、上原さんのお宅を訪ねてきました。
上原さん夫妻のことは「原発事故から命と環境を守る会」のメンバーから以前に話を聞いていました。
こんな話です。

3月11日、上原さんのご主人は白内障の手術のために入院していました。
奥さんは時間を見計らってご主人のいる病院に行こうと、家にいたのです。
ところが大きな地震が起きて、奥さんはきっとご主人が病院から帰って来てくれると思い玄関に座って待っていたそうです。
そこへご主人が戻ってきて「津波が来るぞ」と奥さんの手を引いて車に乗せ、あわやというところでお二人は助かりました。
避難所生活の後に仮設住宅に入居したのですが、奥さんは「私が生きてられるのはお父さん(ご主人のこと)のお陰。あんな地震があって私は動けなかったけど、お父さんはきっと病院から帰って来てくれると思ってた」と、何度も言っていたそうです。
仮設住宅に移ってからご主人は何度か下血して、ご自分では痔だと思い込んでいたのですが、病院に行って調べたら大腸癌だったのです。
直ぐに入院し、手術をしました。
奥さんは毎日病院に通っていました。
そんなことを聞いて私は、上原さんの奥さんから直接お話を聞かせてもらいたいと昨年10月に小池の仮設を訪ねたのです。
奥さんはお留守で、それなら病院かもしれないと上原さんが入院している病院を訪ねたのでした。
奥さんは病室にいましたが、上原さんは何本もの管に繋がれて意識も朦朧としていて、一緒に行ったよく知っている人たちの顔も判らないようでした。
ですから奥さんからお話を聞くこともせずに、お見舞いだけして帰ったのです。
12月に来た時に、また上原さんのお見舞いに行きました。
上原さんはベットの上で再尿管こそつけていましたが、とてもお元気そうでした。
私が「3月11日の地震のときに奥さんは、上原さんがきっと帰ってきてくれると玄関先で待っていたそうですね」と尋ねると、上原さんは「そう言うと、なんだか美談だが」と言いながらその日のことを話してくれたのです。
すぐ後ろに津波が迫ってくるのを辛くも逃げ延びることが出来た話を。
上原さんはとてもお元気そうで、もっともっと話したそうでしたが、疲れさせてはいけないと失礼して帰ったのでした。
私が家に戻ってから2日後、一緒にお見舞いに行った鈴木さんから電話があって上原さんの訃報を知ったのでした。
年が明けて1月に、上原さんのお宅にお線香をあげに行きました。
穏やかそうな笑顔の上原さんの写真が飾られた仏壇の前で、奥さんは「しっかりしなきゃと思ってます」と言っていました。
今日お訪ねすると、「時間が経つごとに淋しくなる」と涙が引きも切らないのです。

上原さんは農家でした。津波で流されてしまった萱浜にあった家は、その辺りの農家はどこもそうであったように大きく立派な家でした。
いま、二間しかない狭い仮設で暮らし、一部屋は布団を敷けばいっぱい、もう一片方もこたつを置いたら歩く間もない。
そこに小さな机を置いて仏壇にしている。
こたつに入って、目の前にある亡くなったご主人の写真を眺めて暮らすだけの日々。
「時が経つごとに淋しくなる」気持ちは痛いほど判ります。
そして、同じことを何度も繰り返す今日の奥さんの姿に、”この暮らしはこんな風にして、老いを嫌が上にも早めていくだけだ”と思いました。
元の家であれば、あれやこれやと家の中の細々した仕事もあって体も気持ちも動かしたでしょう。
仮設住宅の暮らしが、縮図のように見て取れた今日でした。

前便でお伝えした「ビニールハウス建設」計画も、こうしたことからも是非、成功させたいことです。
  狭い仮設に閉じこもらないで、外に出て体を動かす。
  少しでも何か先の目的、直ぐに目に見えるような目的を作る。
  そのことでわずかでも光が見えれば、意欲も湧いてくるのではないか。
そんなことから「原発事故から命と環境を守る会」は、ビニールハウス建設を計画したのです。
具体的に進んでいますので、次号でお伝え致します。                いちえ

2012年2月11日

みなさま

先日お伝えしたビニールハウス建設のための支援金の件です。
送金先の記号や番号がたくさんあって、どれを記入すれば良いか判らないとご指摘を受けました。
私の伝え方がまずかったです。ご容赦下さい。
以下にもう一度記します。
◎郵便振替の場合
記号;18220
番号;5137881
名前;ゲンパツジコカライノチトカンキョウヲマモルカイ

◎他の金融機関から振り込む場合
店名;八二八(読み ハチニハチ)
店番;828
預金種目;普通預金
口座番号;0513788

となります。どうぞ宜しくお願いいたします。
先日の通信で、現在資金が80万円あること、一棟の建設費用は60万円必要で、計画では全部で五棟立てる目標であることをお伝えしました。実は見切り発車で、既に資材を二棟分発注していました。
嬉しいことにその後も支援金が寄せられて、現在100万円ほどになっています。ビニールハウス二棟分の代金は、これでまかなえそうです。
その他の農具や水道敷設のための費用がまだ足りません。
野菜類の種蒔きの時期や生育条件などから考えて、三月中には全棟完成させたいと思っています。
どうぞ、みなさまのご支援をお願いいたします。                              いちえ 

2012年2月9日

7日は酪農家の杉さんを再訪しました。

以前はお話を伺う時間が無かったのですが、その時に牛舎の中のとても元気な乳牛たちを見て是非再訪したいと思っていたのです。

今回伺った時はちょうど搾乳の時間でしたが、待つ間に辺りを散策したり牛舎の見学をして過ごしました。
牛舎のすぐそばにはまだ開通はしていない高速道路が、高い橋桁の上を通っています。
そして母屋の目と鼻の先が、半径20キロの通行止めの柵です。南相馬市大甕片倉、すぐ後ろに山を控えていて線量の高い地域です。
杉さんは親子2代にわたっての酪農家ですが、息子さんの和昌さんから話を伺いました。

3月16日に妹の嫁ぎ先の新潟に家族を連れて避難し、和昌さんだけ19日に戻ってきました。
16日に出かける時には牛舎の牛たちにはタップリと餌を与えて行ったので、戻ってきた時も牛たちは元気でした。
水は自然水で、飲めば出るようになっているので心配はなかったそうです。
後日談ですが、山からのこの地下水は線量を測ってもらったところ問題の無いことが判って、今もこの地下水を使っています。
戻ってきた和昌さんはお腹に子牛のいる雌牛一頭だけを残して、後の30頭は肉牛として売ったそうです。
同業者たちの中には休業した人たちもいるが、和昌さんは休業する気は無かったと言います。
和昌さんは一言でそう言いましたが、多くの畜産農家や酪農家が牛を手放さざるを得なかったときに大変な決意だったと思います。
牛の出産を控えているのに、獣医さんも避難して現地にいなかったりしたこともあったでしょう。
休業した仲間から妊娠している牛を預かったり譲られたりして、今は子牛も入れて46頭いて、その内の15頭から搾乳しています。
もちろん乳は線量を計測して貰い問題が無かったので、出荷しています。
戻ってきてすぐは1頭だけでしたから前年の草を食べさせていました。
また、北海道から届けられた支援の牧草や敷き藁にも助けられました。
頭数も増えてきてからは、飼料の草は、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどからの輸入品を買っています。
北海道からも牧草は買えるのですが運賃が嵩んで、却って輸入飼料の方が安いのだそうです。
牧草は自分の畑で、牛糞からの堆肥を農家に運んでそこから稲藁を貰って敷き藁にするというように、以前は地元で自然循環で営まれてきたのが、今ではそれが叶いません。
今後、牧草の値段も上がりそうだし、これからのことを考えると不安が大きいと言っていました。
奥さんと高校2年生、中学3年生、小学校5年生の3人の子供は3月16日以来、ずっと新潟にいます。
子どもたちのことを考えるとここには戻せないし、戻ってきても市内で線量の低いところの仮設か借り上げ住宅に住ませるしかないし、「家があるのに家に住めないなんて、子どもたちは怒ってるだろうと思います」と。
和昌さんのお父さんは、1935年生まれ。1956年に「次・三男対策」で、アメリカに3年間の研修に行ったそうです。
家はもともと農家だったのですが、アメリカから戻って酪農を始めたのだそうです。
戦後に「次・三男対策」ということがあったというのを、私は初めて知りました。どんなことだったのか、調べてみようと思います。
お父さんに「お孫さんと一緒に住めないのは淋しいですね」と言うと「ええ、携帯で写真送ってくるから、いつもそれを見てますよ」と。

2012年2月10日 

みなさま

2月8日夜、護国寺で『世界同時開催 チベット本土のための緊急法要』が執り行われました。
寒い夜でしたが、私も参加してきました。

ご記憶にあると思いますが2008年、ラサに端を発したチベット人の抗議行動は時を置かずにチベット各地に広がり、多くの犠牲者が出ました。拘束されたまま行方不明の人も、たくさんいます。
その後のチベットは、町のそこここに、また新たな監視カメラが設置され、辻や要所に警備の軍や武装警官が6名ずつ銃を持って立ってるようになりました。立っているばかりではなく、やはり銃を持ってそこここを巡回しているのです。
チベット人が巡拝して歩く巡礼路にも監視カメラはもちろん盗聴マイクも仕掛けられ、建物の屋上からも見張りの監視役が立っています。
お寺では政治教育が一層強化されてきました。
こうしたことに対して、僧侶や尼僧、また一般人からも抗議の焼身自殺が続いています。
今年に入ってからでさえ、もう既に4人が亡くなっています。昨日も、1人が亡くなっています。
1月23日には平和的デモを行っていた数百人に対して治安部隊は無差別に発砲し、死者や負傷者が出ています。
外国のメディアが入れないので新聞やテレビでニュースになってはいませんが、どうぞ、チベットに目を注いで下さい。
実は昨年秋に私はまたチベットに行く予定でいましたが、入域許可が下りず行くこと叶わなかったのです。
この頃既に、抗議の焼身自殺は相次いでいたのです。当局はそうした事実を、外国人に知られるのを怖れたのでしょう。
あるいは、情報がすっかり統制されている現地ですから、外国人からチベットの他の地域で起きていることが知れ渡るのを怖れたのでしょう。
今日の報道で、中国政府は3月末まで外国人のチベット各地への旅行禁止を発表したとありました。
もうじきチベットのお正月(2月22日)が来ますが、チベット人たちは今年のお正月は祝わないと言っています。家にいて犠牲者のためにお祈りをして過ごすと言っています。当局は無理矢理にでも、晴れがましく正月を祝えと、強要することでしょう。
また、1959年3月10日の“ラサ蜂起”を記念する3月がやってきます。
当局は一層厳しく管理、監視、締め付けをしていくでしょう。
どうか、これ以上犠牲者が出ませんようにと祈るばかりです。

チベットに関しての情報は『チベットNOW@ルンタ』で、ご覧下さい。ダラムサラからの発信ですが、中には本土からもたらされた貴重な情報があります。そうした情報もまた、死を賭して送られてくるものです。  

                     いちえ

2012年2月15日

みなさま

昨夜から南相馬に来ています。
先日来お伝えしているビニールハウス、いよいよ今日から建て始めました。
鹿島の小池第3仮設住宅のすぐ前です。
12日(土)に水路と周辺の草刈りを、ボランティアたちで済ませてありました。
13日に資材が届いて、今日は朝から地元のボランティア10人に東京からのミュージシャンたち4人、仙台からのボランティア3人、ルーテル教会から2人が助っ人で、夕方までにパイプを建てることが出来ました。
ビニールハウスを建てるのは思いのほか時間がかかることで、当初は今日中にビニール掛けまでできるかと思っていましたが、ビニール掛けは明日の仕事になりました。
仙台からの3人は、急遽今夜はホテル六角に宿泊することにして、明日も朝から作業に加わってくれることになりました。

私は午前中は仮設住宅で聞き取りをしていました。
また現地ボランティアの女性たちは仮設住宅の集会所台所を借りて、炊き出しにかかっていました。
お昼には、大鍋に2杯の豚汁と大きなおにぎりがたくさん!
作業に当たっている男性群は建設現場で、女性たちは仮設の集会所でおいしい昼食を頂きました。

さて、仮設の集会所で聞かせてもらった話です。
鈴木とよ子さん(83歳)、佐藤くさこさん(81歳)、蒔田フサコさん(78歳)です。
仮設には集会所があって、ふだんでも住民たちが寄り集まってお喋りをしたりまたさまざまな行事にも使われているのですが、こうした場にもなかなか出て来ない人がいるようで、今日話を聞かせて下さった方達は、ふだんなかなか集会所に出てくることの無い方達でした。
これは「原発から命と環境を守る会」の荒川さんが、予めこの方達に声を掛けて集めて下さっていてのことでした。
荒川さん自身、家は津波で流されて今は借り上げ住宅に住んでいますが、この3人の方たちとは元は同じ部落(現地の人はこう言います。ここでは部落は差別用語ではなく、地域の繋がりとして使われていた本来の意味付けで今も活きています)で、よく知った人たちなので、こうしたことが叶ったのでした。いずれも20キロ圏内の警戒区域です。
みなさん地の言葉で話されるので、私は録音機に収録を任せて、専ら耳でしっかりと言葉を受け止める努力をしていました。
こんなとき片耳が全く聞こえない私は、手も動かせず聞き耳を立てるのですが、聞かせてもらった話をいま思い返しても、体験の重さに胸が潰れそうです。
鈴木さんは100歳のお姑さんとご主人が流されるのを目の前で見たのです。
蒔田さんは津波だというので家を出て高台に向かう途中で、娘さん、お嫁さん、お孫さんが橋の上にかかった時に波が来て流されて行くのを目にしたのです。
安置所を捜して、打撲や汚れで直ぐには見分けられなかった3人をやっと見つけることが出来た時には涙も出ながったと言いながら、涙を拭いました。ご私人は瓦礫に挟まって出られなかった時に、引き波で瓦礫に隙間ができたので体を動かして抜け出ることが出来たと言います。
佐藤さんは「家は根こそぎなぐなった。犬にぶつける土もねぇ」と。
地震から津波まで、そしてその後の転々とした避難所生活、それから今の仮設入居までを3人とも語り語りして下さいました。

3人は農家で、ビニールハウスができるのをとても楽しみにしていました。
途中で私は少し抜けて建設現場に行って写真を撮り、戻ってお見せすると「始めはほうれん草や人参がいいな」「ジャガイモもいいぞ」「キュウリやトマトは苗からではむずがしいがら、苗で植えたらいいな」「んだなぁ。苗でねぇとだめだな」「けど1年、畑やってねがっだから、できっかな?」「だどもそんな広い場所やるっでねぇべ?大丈夫だ」鍬を振るしぐさをしながら「畝つぐってな」
「畑はいいな。朝起きっど、今日はどれだけ伸びたか、見に行くのが楽しみだったもんな」「そうさ。土いじってど、楽しみだもんな」
次々に言葉が溢れてきました。

お昼ご飯を食べながら、「今日はこうすて話せて、すっぎりした。胸につかえてたんだ」と。
きっと、今だから話せるようになったのだと思います。
鈴木さんも、佐藤さんも、蒔田さんも、昼間はテレビを見たりして気を紛らわせても夜は睡眠薬が無いと眠れないと言っていました。

鈴木さんが割烹着の裾をあげて下に来ていたチョッキのポケットを裏に返してみせながら、言いました。
「物資で貰ったチョッキだども、始めは気がつかながったがなんか入ってるみてぇで、こうして見たらほれ!五円玉が」見ると安全ピンで五円玉が止め付けられてありました。
「嬉しぐてなぁ。ご縁がありますようにってつけてくれたんだべ。そんで反対のポケットには、ほれ!」と言ってみせてくれたのは一粒の大豆です。
「豆で暮らしてくれろと言うんだべ。それからは洗濯する時は外して、また付けて、いつもこうしてポケットさ入れてるんだ」
こんなふとした心使いが、どれほど被災者の方たちを元気づけたことかと思いました。『がんばろう』などという言葉よりもずっと、ずっと。

ビニールハウスが、仮設のお年寄りたちに「明日」を楽しみにする心を生み出しています。
今日建てた場所にもう1棟建てる予定です。別の場所にも、3棟建てたいと思っています。
まだまだ資金が不足しています。どうぞお友達にもお声かけして、支援をお願い致します。
◎郵便振替の場合
  銀行名;ゆうちょ銀行
  記 号;18220
  番 号;5137881
  名 前;ゲンパツジコカライノチトカンキョウヲマモルカイ
◎他行から振り込む場合
  店 名;八二八(読みハチニハチ)
  店 番;828
  預金種目;普通預金
  口座番号;0513788
また、種を提供して下さる方がおいででしたら、それもお願い致します。

明日は今日の続きにお作業が残っていますが、仮設集会所の台所は使えません。
私はこの六角で炊き出しのおにぎりを作るのを手伝って、午後のバスで帰ろうと思っています。         いちえ

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