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2012年3月

2012年3月

草原の輝き

福島で希望をつくる人びと

福島の現地の人々の話を聞く会があった。
私たちは何も知らないままだ。
津波で家族みんなが流されて
仮設住宅に一人で住んでいるお年寄りがいる。
仮設住宅はこどもの声がしない。
こどもたちは放射能が心配で避難したから、
お年寄りたちはこどもの声を聞くことがめったにない。

生き残ったことさえ奇跡だった。
あと何メートルで津波が来るところを救われた。
けれど、あんなに元気だった息子も嫁も、
孫もみんな流されてしまった。

近くにみんなが集まる施設があるから、
昼はそこで仮設に住んでいるみんなや、
地域のボランティアの人たちと話すのが楽しみだ。
けれど、仮設の家に帰ると、
一人きりで津波のこととか家族のことを考えて、
また落ち込んでしまう。
 一時金をもらったけれど、
仲間が死んだり葬式があったり、
ものいりが続くと、すぐになくなってしまう。
あとは年金だけだ。

仮設はものすごく寒い。
暖房器具を2つつけないと暖かくならない。
でも電気代がかさんで年金も減ってしまう。
だから暖房を止めて朝から一日中布団にくるまってじっとしている。

そうすると、生きている気力がだんだんなくなって、
もうどうでもいいや。
原発爆発事故のあった周辺の人びとは、農家の人が多い。
福島では海側を浜通りというが、原発はそこにあった。
だから、人々は働く場所も原発事故でなくした。
人は働かないでただ食べものを与えられているだけでは、生きていけない。

自分のビジネスホテルを
ボランティアセンターにしている人がいる。
目の前で93歳のおばあちゃんが自殺して、
どうにもならないのかと泣いた。そして考えた。
ビニールハウスをつくろう。野菜を作って売るためではない。
「お年寄りに生きる気力を甦らせたい」
畑も鍬も飼料も苗も用意した。
けれど、そこにおばあちゃんたちを連れてくるのが大変だった。
何もかも流されて気力がない。「もう歳だから」。

けれど、ついこの間まで浜通りの農地で
何十年も農業をやってきたおばあちゃんたちである。
ともかく連れてくれば変わる。
継続的な楽しみは生き甲斐をつくる。
「あそこにはこれを植えよう。ここには何がいいかねぇ」。
おばあちゃんたちに希望は生まれたろうか。

原発からわずか13キロのところで
牛を300頭飼っていた牧場がある。
でも原発の爆発でこの楽園のような町はおしまいだ。
チェルノブイリと同じだ。東電にも抗議に行った。
まわりの牧場はみんな人が逃げて何千頭の牛が餓死した。

みんな牛を捨ててきたことを泣いていた。
原発の爆発事故は畜産農家の人生を奪ったのだ。
政府は殺処分の方針を出した。
「でもオレは牛たちを死なせるわけにはいかない」
 放射能は恐い。けれど、この牛の命を救いたい。
だから牧場を「希望の牧場」と名づけて
牛たちを生かし続けている。
餓死でも殺処分でもない、
この牛たちを生かしながら役立てる第3の道はないか。
被曝・除染の研究や実証のために生かす道はないか。
オレたちは酪農家の意地を通したい。
それが「希望の牧場」なのだ。

自分は被曝してあと20年くらいしか生きられないかもしれないが、
負けてたまるか。
福島の人びとの上に起きていることを、
私たちは何も知らない。

けれど、伝え続けていくことはできる。

福島の声

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