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2012年3月の一枝通信

2012年3月11日

みなさま

''3月は記憶を深く心に刻む月。
独りの記憶も、たくさんのいのちの記憶と共に私の胸に深く刻まれる、3月です''。

2012年3月10日

あれから53年が流れました。
ラサ市民一斉蜂起記念日の今日、
私も渋谷で行われた「チベット・ピース マーチ」に参加しました。

あいにくの冷たい雨でしたが、
在日チベット人とチベット支援者が150人以上、集いました。

会場は渋谷の宮下公園です。

開会の前に、ドルマ・ツェリンの呼びかけで、
53年前から今日までのチベット人犠牲者、
拘束されている人たち、また日本での昨年の震災犠牲者、
世界中の平和のための闘いで犠牲になった人たちのために1分間の黙祷を捧げました。

そして会が始まりました。

私たち参加者の前にこちらを向いて並び、
チベット国旗を掲げて国歌を歌うチベットの友人たち。

傘もささずに、胸をはって遠く高みを見つめながら歌う
その顔を見ながら、私は胸が一杯でした。

チベット本土の友人たち、
いま渋谷であなた達を思いながら歌う同胞が見えますか?

心の中で私は、本土の友人たちに呼びかけていました。

数年前の事です。ラサの友人たちが日本に来た時の事です。

一行は30代の兄弟と、
その知り合いのおばあさんと彼女の孫の4歳の男の子でした。
数日を東京で過ごした後で、
私は一行を京都へ案内したのです。

三条河原町を歩いていた時に、
学生たちのデモに出会いました。
それはほんの十数人の小さなデモでした。
沖縄基地を返せというメッセージを掲げたデモでした。
何事かと目を見張る彼らに、私がデモの意味を説明したのです。
すると、4歳のその坊やが突然、拳を高く掲げて叫んだのです。
『プゥ ギャロー!プゥ ギャロー!』と。
彼は『チベットに勝利を!』と声を限りに叫んだのでした。
30代の弟の方が、ぽつりと言いました。

「町の中には軍も居ないし、こうした事をやっても誰も捕まえられる事も無いし、
道を行く人たちが拍手したりしています。それだけでも日本はとてもいい国だと思います」

宮下公園での集会後は、3〜4列横隊でシュプレヒコール、
そして合間合間には先導者がマイクでチベットの現状と支援を訴えながら歩きました。

大小様々なチベット国旗が、風にはためいていました。
コースは、ハチ公前から宮益坂を上がって青山通りを抜け、
表参道に出てキャットストリートから、出発点の宮下公園に戻ったのでした。

表参道、1945年3月10日。

東京が焼け野原になった日から、67年が経ちました。
その日、すり鉢状の地形のこの辺り一帯は火の海となり
表参道の石灯籠だけが残りました。
石灯籠には今も、当時の犠牲者の血の跡が残っているといわれます。

石灯籠からキャットストリートの方へ曲がる時に私は、
先月南相馬で聞いた被災者の言葉を思い起こしていました。
83歳の鈴木とよ子さんと言います。
原発から20キロ圏内の村上に住んでいましたが、津波でご家族も家も流された方です。
とよ子さんは、地の言葉で話して下さいました。
「67年前の東京大空襲の跡みだいだった。
叔父が池袋に住んでだがら、戦争が終わって9月に、東京に行っでみたの。

わだすは中学生だった。
叔父の家から護国寺に行っだら、ほら、あすこは高台にあるでしょ?
護国寺から見だら、はぁ、なぁんにもないの。
津波の後で家あっだどこさ行っだら、67年前の東京みだいだった」

チベットの平安を、チベットの人たちが真に望む平安な日々をと、祈ります。
ただひたすらに、心から祈ります。
世界中のすべてのいのちが、すべての存在が毀損される事の無い世を、と祈ります。

被災からから一年目を迎える明日です。
被災された方達が悲しみを友としながらも、
明日に向かって歩いて行かれますようにと、祈ります。

私は明日からまた、南相馬へ行って来ます。       いちえ

2012年3月11日その2

みなさま

昨日は郡山の開成山野球場で開催された「脱原発 福島集会」に参加しました。
私も呼びかけ人になっている「脱原発をめざす女たちの会」
ではバス3台を仕立てて、東京駅の鍛冶橋駐車場から出発しました。
他にも多くの団体がそれぞれバスを仕立てて、
それらのバスが連なって郡山を目指しました。
私の乗ったバス1号車には、奈良や長野からなど
東京近辺からばかりでなく各地からの参加者が居ました。
車中ではマイクをまわして、各自が自己紹介と
原発に対する思いなどを一言ずつ発言してから、いくつかに関して意見交換をしました。
車の中では本も読めないし字も書けない私は
(電車なら大丈夫ですが車だと気分が悪くなってしまうのです)
メモを取れなかったので、頭に残っていることだけで、それらをお伝えします。

★東電のホームページを見るとスポンサー企業が判る。
三井住友銀行などの預金は解約して、地元の信用金庫に変えたほうが良い。 
★原発国民投票に関しては
・「憲法を9条を変えたいために
、国民投票法案を作ろうと進めている人たちも居る。国民投票は、
危険をはらんでいる。急いで集約すると、
推進派に有利な結果になると思う。だから原発国民投票には賛成できない」

・「原発意見投票をそのように捉えるのは違っている。
大阪や東京で行われた原発意見投票は法的な力はなく、
アンケートとしての意味で我々の意見を伝えて行くものだ。
国民投票法案を成立させて、国会を通らなければ実行力はない。
実際に意見投票を集めるのには受任者が相手に会って、
対面で説明と意見交換をして上で納得して署名をしてもらうのであって
相当に時間を掛けて丁寧に集約していく。だから前者の意見は、ナンセンスだ」
(拍手がたくさんおきました)

これらの意見を交わしながら、
途中のサービスエリアでのトイレ休憩を2回はさんで会場に着きました。
私たちの席は1塁側の内野席でしたが、内野席はこちら側も3塁側も満席となりました。
外野席の芝生上にいる人たちも居ました。
何度も「外野席は除染が済んでいません。
どうぞご承知の上気を付けてご利用下さい」
とアナウンスが流れました。
そこにはまだ小さな姉妹たちが駆け回ったり、
また芝生に寝転んでいる人も居て、
内野席の椅子に座っている人たちの中から心配の声やため息が上がっていました。

集会の様子はきっと、
報道されている事と思いますのでこの通信からは省きます。
集会後にはデモ行進があったのですが、
私はここから南相馬へ行くのでデモには参加せずに郡山駅に出て
東北本線で福島へ向かいました。
いつも南相馬へ行く時には東京駅から新幹線で福島駅へ、
そこから急行バスで南相馬へと行くのですが、
この日はバスの時間まで余裕があったので、郡山から在来線を使ったのです。
新幹線だと線路は高架で、郡山から15分で福島駅です。
東北本線では土の上に敷かれた線路を行くので、景色がより近く見えます。
各駅に止まりながら行くので、より風景を味わいながら行けます。
それでこちらを選んだのです。

バスの時間まで少し余裕もありましたし。
途中の松川駅で停車した時、
線路際の木造の家壁に、こんな文字看板がありました。
「日本の歴史は 女の我慢で出来ている」
「絶滅危惧種の種の中に 絶望の種が宿る」
どんな人が、どんな思いで記したのか…。
いつかこの駅で降りてこの家を訪ねてみたいと思いました。

南相馬ではいつものホテル六角は満室で、
地元ボランティアの方の家に泊めて頂きました。         いちえ

2012年3月12日

みなさま

昨夜は泊めて下さったAさん夫妻に、一年目の今日どんな事を思い、
どんな会話を交わされたのかを尋ねてみました。
「朝からずっと物資配りをしていて、
終わってからも大留さんのところに集まって明日(12日、つまりは今日)
のことを打ち合わせて忙しい一日だったの。
だから、かえって良かったんだ。考える暇なんか無かったもの」とのことでした。

Aさん一家は昨年3月11日までは、
息子さん一家も同じ敷地内の別棟で暮らしていたのです。
息子さん夫婦は共働きで、もうじき2年生になるお孫さんは
「ジジババが育てた」と言ってました。
お嫁さんが腱鞘炎になったために赤ちゃんの世話がむずかしく、
それでAさんがミルクを作ってやりA婦人がおむつを替えてやりと育
て、幼稚園の送り迎えも保護者参観日にもAさんたちが行ったのだそうです。
その孫は原発事故の後、お母さんと一緒に東京の墨田区で暮らしています。
息子は家族を支えるために、Aさん夫妻と共に地元に残って役所勤めを続けています。
Aさんがぽつりと言いました。「今日は孫の写真が写メールで送られて来たんだ」

先日7日の「トークの会」で最後にAさんが話された一言
「原発が憎いです。家族が離ればなれになったのが、とても残念だ」
という言葉が、蘇りました。
Aさんの家は半径20キロ圏内の警戒区域内で海岸線からすぐのところにありました。
津波で家は流され、今は市内の借り上げ住宅に息子と共に住んでいるのです。
Aさんたちご家族が、またにぎやかに暮らせる日が戻るだろうか?
どうか戻って欲しいと思いました。

今朝起きると、空は晴れて真っ青、昨日までの雪まじりの雨空が嘘のようです。
天気予報でも、今日は雨か雪と言っていたのですから。
「原発事故から命と環境を守る会」の皆さんは、
今日は4組に分かれての活動で朝から大わらわです。
一組は大留めさん率いる畑の草刈り隊。
東京、仙台からの青年たちボランティアを10数人引き連れて、
大留さんは鹿島小池第3仮設住宅そばの畑の草刈りに出動です。

現地ボランティア、仮設住宅の有志も参加しています。
もう一組は現地ボランティアのSさんが案内して
松戸からのボランティアグループの「歌声喫茶」隊です。
この3月は各仮設住宅集会所はさまざまな催しが企画されていて、
ようやく確保出来た2カ所の集会所で開けた「歌声喫茶」です。
3番目の組は草刈り隊の行く畑の小池第3仮設住宅集会所を借りて、
豚汁の炊き出し。A婦人が隊長です。
これは草刈り隊、「歌声喫茶」隊、
全員がお昼にはここに集合して一緒にご飯を食べるので、そのための準備です。
4番目の組はホテル六角での、おにぎり作りです。

私は3番目の組に入りました。
豚汁が煮える間、この仮設に居る志賀さんと熊井さんの話を聞きました。
熊井さんの家は小浜にありました。
津波警報で避難所に逃げ、逃げた避難所もまた危ないというので
別の避難所に移りました。
ご主人は震災前から入院中でしたが、
入院患者たちは震災の後どこかへ移送されたのですが
どこに行ったかが直ぐには判らずようやく1週間目に判ったそうです。
それが判るまで、どんなに心配だった事でしょう。

その後5月にご主人は亡くなられたそうで、
92歳になるお舅さんと熊井さんが残されました。
お舅さんはとてもしっかりした方だそうですが、
最近物忘れがひどくなりそれを自身がとても悔しがっているのだそうです。

熊井さんは「じいちゃんが何でも覚えていたのも、
ずっと同じところで同じような毎日を送ってたからなんだよ。
ようやくこの仮設に入れたけど、それまで何カ所も避難所を転々としたんだから
覚えらんないのも当たり前なんだよ」と諭すそうですが、
お舅さんは自分が悔しくてかんしゃくを起こすと言います。
熊井さん自身もそうした毎日にストレスが溜まって、
「トイレに座っている時がやっとホッとできるときなんだ。
だけどホッとすると、ああ、でも死んでしまった人もたくさん居るんだから、
命があっただけでも有難いと思わなくちゃって思うんだ」

熊井さんの話を聞いて一緒に聞いていた志賀さんも、
こう話してくれました。
「ああ、家はあの日は義母がデイサービスに行ってたの。
私は地震の前に下の孫を幼稚園に迎えに行って、
上の孫を迎えに小学校に行ったんだけど、まだ教室から出て来なくて、
それで一度家に帰ろうかと思ったんだけど
下の孫が校庭で友達と遊んで待ってたいって言うから家に帰らないでそこで待ってたのよ。
家に帰ってたら孫と二人で津波で流されちゃってた。
帰らないでよかった。
それでそのまま学校の体育館に避難でしょ。
その後そこも危ないって別の学校の体育館に避難して、
今度は原発が爆発したって言うんで、
市役所からのバスで筆穂(宮城県丸森)のは意向になった高校へ避難してそこで3ヶ月。
義母はあの日デイサービスに行ってたんだけど、
揺れも収まって送ってきてもらった時には私たちは
避難所に居て家は留守だったからそのまま連れて帰られて、
ようやく連絡が取れた時には義母は山形に居た。

南相馬から横浜に送られてそれから山形に移されたという事だった。
探したんだけど判らなくて、一ヶ月たった頃に
私の実家から連絡があって判ったの。
筆穂では地元の人がとれたての野菜なんかを差し入れてくれて、
有難かった。
避難所の高校の料理教室で自分たちで炊き出しして、食べてたの。
だけど、地元の人たちも知らずに居て私たちも後から知ったんだけど、
筆穂は線量が高かったのよね。
あの三ヶ月で、私も孫たちもたっぷり放射能を浴びた。
この前健康検査で上の孫は未検出だったけど、
私はセシウム137が出ていた。
下の孫は機械で計るのじゃなくて尿検査だやったら、やっぱり出ていた」

短い時間の聞き取りでしたが、考えさせられる点が多々ありました。

4組が集合しての昼食の後で、草刈り隊、
「歌声喫茶」隊はまたそれぞれの持ち場に移りました。
私たちは2時から同じ集会所で物資の配給をしました。
食料品と衣料品でした。
送られて来た支援物資の中には
大きな段ボール一箱分の大量の生理用ナフキンがありました。
でも、ここ福島の仮設住宅に住むのは本当にお年寄りばかりです。
(岩手の仮設には若者も、子供たちも居ました)
物資をもらいにきた方達数十人のなかに、
こうした品が必要そうな人はたった一人でした。
他の人に判らないようにそっと私はその人に知らせましたが、
「ストレスからだと思いますが、生理が来なくなってます」と。
男性たちも読むこの「一枝通信」ですが、こんな現実も是非知って欲しいと思いました。
原発の見えない恐怖がこんなかたちでも現れているという事を。                       いちえ

3月12日追伸

みなさま

大事な事を、お伝え漏らしました。
ビニールハウス建設について皆さまにご協力をお願いしていましたが、
現在3棟建っています。
おかげさまで3棟建設が出来たのでした。ありがとうございました。
お礼がこんなに遅くなりました。どうぞご容赦を。
なお引き続き、肥料や種、水道代など、管理のための費用も必要になってきます。
どうぞ、今後もご協力をお願いいたします。             いちえ

飯舘村の声

みなさま

今回は宿泊先でインターネットが使えなかったため、
報告の日付がリアルタイムではありません。ご容赦を。
飯舘村から福島市に避難している市澤美由紀さんと岡本易さんには13日に、
14日には菅野哲さんから話を聞きました。
美由紀さんには昨年12月に初めてお会いし、
1月にも会って話を聞きました。その時には飯舘村のご自宅まで案内して頂きました。
今日は3度目になります。
岡本さんは美由紀さんのご紹介で、
今日初めてお会いしましたが短い時間でしたが密度の濃いお話を伺いました。
飯舘村では、今年の2月の末に村民を集めての会議が開かれたそうです。

昨年3月12日、続いて14日に原発が爆発し
飯舘村に高濃度の放射能が流れたのですが、
ここが計画的避難区域に指定されたのは一ヶ月後の4月11日でした。
けれどもこの間にも村民からは「こんな危険なところに子供らを住ませられるのか?
村長として避難の結論を早く出せ」との声があったにもかかわらず、
国や東電の発表を鵜呑みにして村としての避難指示を出しませんでした。
そしてようやく5月、ほとんどの村民が村を出ての避難生活となりました。

このように昨年の原発事故以来、村長の姿勢に対して
一部村民たちからは首長として村民の健康と生活を守ろうとしたかについて
批判の声が上がっていました。
その後村長は住宅地から除染をして、
数年後には村民を避難先から帰村させたい考えを発表しました。

この村長の案に同調する村民も居ますが、
除染の有効性に疑問を持つ村民も居ます。
20年30年経っても、本当に安心して住めるようになるのか?
それよりもまずは安全な地に村を移し、
本当にもとの場所に戻れるようになった時に
帰村するとした方がいいのではないかという声も少なくないのです。

こうした声を無視して村長は帰村を急ぎ、
莫大な予算を使ってモデル地区除染が実施されています。
先月開かれた村民会議では村民が意見を出し合う討議の場になる筈だったのが、
村長からの除染と復興計画の説明会になったようです。
その計画は、村の北部にスマートビレッジとして
200〜300戸の一戸建て住宅を造り、スーパーや職場も作るというものです。
この計画案に大いに疑問を持つ村民たちは少なくありません。

飯舘村では多くの村民が村を離れて避難生活をしていますが、
室内の線量が高くないという事で9つの事業所は避難せずに
現地で営業を続けていました。
けれども現在そのうちの3事業所は既に営業を止めて撤退しています。
こうした事から考えても、村長の帰村案は現実的ではない
”空しい希望”と村民は受け止めています。

東電は賠償問題に関して、各被災者に分厚い請求書を渡しました。
これに対して何人かの村民が、東電側が用意したこの請求書には書きたくない。
自分たちで納得の行く請求書を提出すると準備しています。
その根拠は何か不法行為があった場合、
その被害者が加害者に対して請求書を出すのがまっとうで、
加害者側が書式を用意するものではないということがあります。
岡本さんがこの集団訴訟の口火を切り、
現在のところ同調者は10人ほどだそうですが今後、同調者は増えていくだろうと思います。

14日は、雑誌『たぁくらたぁ』の編集委員たちと一緒に
菅野さんの案内で村内を回りました。
役場はモデル除染で、自衛隊員600人が来て除染をしました。
役場の正面玄関前には接地された線量計があって、数値が示されていますし、
我々持参の線量計でも計りました。
正面では0.25μSvですが、裏手は 2.6μSvありました。
村内でも地区によって(というより地形によってと言った方がいいでしょう)
線量にずいぶん差があります。
長泥地区の山では16.0μSvと、路上で 4.1μSvもありました。
ここで線量を測ったりしていた時にちょうど、
長泥に家がある菅野さんの知り合いが通りかかりました。
その人は避難先から飼い猫に餌をやりに戻って来たところでした。
1〜2日に一度、こうして餌やりに来るそうです。

彼は言い、菅野さんは答えます。
「情けねぇな。自分の家があっても、入れねぇ」
「そうだな、もう戻れねぇぞ」「我が身は守らねばなんねぇからな」
線量を測ったこの地点には展望台があり、
この日は雪があって展望台には上れませんでしたが、
そこからは山陰からかすかに太平洋が見えるそうです。
村内で海が見えるところはここだけという事でした。
村民たちは初日の出もここから拝むならわしだったと言います。

背後の山の上の神社にお参りをして、その後ではみんなで酒盛り。
「みんなして賑やかに、よく飲んだもんだな」
「ああ、そうだったな」
展望台の下の斜面にはたくさんの桜の木が植えられていて、
それは皇太子の結婚記念にと村民たちが植えた桜でした。
よく手入れもされていて、桜の季節はそれは見事だった事でしょう。
そんな話をしている間にも何台もの車がこの道を通ります。
この道路はいわきと山形を結んで居て
、こんなに線量が高い地域を通るのに、
まったく閉鎖されていないのです。
『たぁくらたぁ』のNさんが、「驚いたなぁ!放射線街道だ」と言ったのに、
みんな頷きました。
その一方で南相馬で私がいつも泊まるビジネスホテル六角前の国道6号線は、
六角のすぐ先が半径20キロ地点で検問所があり、一般人は通行できません。
でも検問所から浪江町の辺りまではずいぶん線量は低いのです。
一律に半径で線引きしている、その矛盾が露呈しています。

この日は酪農家の長谷川健一さんにも話を伺いました。
長谷川さんは伊達市の仮設住宅に住んでいます。
菅野さんは福島市の仮設住宅住まいです。
お二人とも地区の区長をしていたのですが、
仮設住宅に移った時にも直ぐに、地区の人たちのために動かれました。
仮設住宅の近くに農地を借りて村民のみなさんが、
する事も無くただ家に居るという事が無いようにとはかったのです。

「みんな生き生きとして畑をやってるよ」と言います。

●昨年12月に長野市内で催された
長谷川健一さんの講演録ができました。
『【証言】 奪われた故郷ーあの日、
飯舘村に何が起こったのか』 オフィスエム刊 700円
●今回も取材に同行させて頂いた
『たぁくらたぁ』の編集委員の方達ですが、
『たぁくらたぁ』次号の26号も原発特集です。
 バックナンバー23、24、25号共に、
是非お読み下さい。400円
●オフィスエムのブックレット
『女たちの3・11 それでも、私は命を繋いでいく。』800円+税

上記お申し込みは
Tel;026−237−8100、
Fax;026−237−8103
Eメール;order@o-emu.net

長文になりました。ご容赦を。明日は南相馬、ビニールハウスの件をお伝えします。       

いちえ

2012年3月18日

みなさま

以前の通信で「ビニールハウスを5棟(3+2)建設予定とお伝えしていましたが、
今回は3棟(2+1)で一応終了と致しました。
『原発事故から命と環境を守る会』でビニールハウス建設を計画している事を知って、
他のNPOなども動きだし、そちらでの計画が具体的になったというので、
それならこちらは3棟で終わりにしましょうということになったのです。

実際に資金も、3棟建設にはまだ少し不足の状態ですから、
無理をせずにやって行くことにしたのです。
鹿島小池に2カ所、荒畑に1カ所の建設が出来ました。
皆様のご協力のお陰です。ありがとうございました。
そして今回13日に草取りをしたのは、
このどちらでもなく新たに借りる事のできた畑地でした。
ここにはビニールハウスは建てず、露地畑です。

今回は13日から雑誌『たぁくらたぁ』の編集委員の方達と合流しましたが、
その方々が3カ所の畑地と3棟のビニールハウス内の線量を測って頂きました。
ハウス内も入口辺りと奥、接地と1m高の空間でと丁寧に計った結果、
いずれも周辺よりもずっと低い線量でした。

ハウス前の道路や草地がR−DANで168cpm、
gamma計測1.12μSvですが、ハウス内は42cpm、0.23μSvという値です。
0.25μSvのところに1年間ずっと居れば1ミリSvとなりますが、
ハウス内に365日24時間ずつ留まる事は考えられません。
ですからこの値は、安心できる数値でした。嬉しい事です。
13日草刈りをした畑地も42cpm、0.24μSvで、
これは草を刈ったのが図らずも”除染”となったのでした。
きっと、「線量の高いだろう場所でビニールハウスや畑を作って大丈夫だろうか?」と、
心配して下さった方達もおいでだったと思います。
「仮設のお年寄りが自給自足するためではない。
作物を育てる事で生き甲斐になればいい」
と思って始めた事ではありましたが、この結果を見て、本当に安心できました。
今後は肥料や種などが必要になってきますので、
どうぞ今後もなお、ご協力をお願いいたします。

昨日お送りした通信で、飯舘村の菅野さん、
長谷川さんの話していた事が一層胸に響きます。
飯舘村では伊達市、福島市、相馬市の仮設住宅で避難生活を送る人が多いのですが、
長谷川さんや菅野さんら、村で区長をしていた方が率先して、
仮設住宅入居が決まるのと同時に農地を借りたそうです。

そのお陰で、狭い仮設住宅に引きこもって過ごす人もなく、
村に戻る事は出来ないかもしれないという大きな不安を抱えながらも、
畑の作物の実りが楽しみになっています。
ここでは農作物や、それらから作った食品などが仮設内の販売所で売られてもいて、
生産者に収入も入るようになっています。

南相馬の仮設住宅の皆さんにも、
そうした小さな喜びが生まれたらいいなと思います。
この冬は例年になく寒く、雪も多い冬でした。
春を迎えて、緑が芽吹き、伸びてくるのがなお一層待たれます。                  いちえ

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