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2012年4月の一枝通信

2012年4月12日

みなさま

昨夕、南相馬に来ました。
昨日の雨が上がって陽の射してきた今日は、
午前中は畑とビニールハウスを見て回りました。

畑は以前お伝えしたところよりも更に増えて、
全部で5カ所総面積9反5畝です。
ビニールハウスは当初5棟を計画していましたが、
3棟で終いました。
近くにNPO団体が別に3棟のビニールハウスを建てたので、
「原発事故から命と環境を守る会」も3棟で終うことにしたのです。

我が”六角支援隊”(「原発事故から命と環境を守る会」は、
だれ言うともなくそう呼ばれています)のビニールハウスと畑は、
数日前の春の嵐で、被害にあったようです。
ビニールがはがれたところが出たそうです。

嵐が治まって後に直ぐに修理したということで、
ビニールに損傷は見られませんでしたが、
パイプの歪んだところがありました。
そして風よけが必要だということで、
風よけネットを張るためのパイプも組まれていました。
(ネットはまだ張ってありません。これからの仕事です)

既にハウスの中にも外の露地畑にもほうれん草、水菜、
豆、ピーマン、トウモロコシ、ジャガイモ、カボチャなどなどの種がまかれ
芽を出しているものも多く、
仮設の方達が畑仕事を待ち望んでいた様子が見て取れました。

これらの種も、皆さまからの支援で送られてきたり
資金カンパで購入したものです。
仮設のお年寄りたちは朝6時頃には畑に来て水やりをしたり
芽が出た様子を見たりして、それから戻って朝ご飯という方が多いようです。

現地ボランティアの荒川さんも早朝に来て、
そんな皆さんの姿を見ているそうです。
前回私が南相馬に来た1ヶ月前には草だらけの畑地の草取りをしていたのですが、
今日はその畑はきれいに畝が作られ蒔かれた種が芽を出していました。
ほんの一ヶ月前がもうずいぶん前のことのように感じられました。

小池第3仮設近くの畑にいた時に太鼓の音が聞こえてきて、
仮設で何か催しがあるみたいだからと行ってみると
仮設の自治会でのお花見会でした。
仮設の敷地内には桜の木はなく、
それにあいにく今年は春の訪れが少し遅いのか他の場所で見ても
桜はようやく一つ二つほころびだしたかという様子です。

でもその仮設の集会所の前にはテントが張られ
大きな鍋が4つも並んで汁が煮え、
テントの脇にはビニールシートが大きく並べられて、
仮設に住むみなさんが賑々しく立ち働いて嬉しい光景でした。

会費500円で住民の親睦を図る試みだそうです。
寺内の仮設では、上原さんのおばあちゃんを訪ねました。
おばあちゃんは昨年末にご主人を亡くされて、
ずいぶん気落ちしていたのですが今日訪ねたら
少し元気を取り戻されたようで前回、
前々回にお訪ねした時より
も話す声も話すことも、
明るくなっていました。

それに第一、今日お訪ねした時には
部屋の掃除をしていたのです。
掃除をするといってもこたつが置いてあるので
掃くような空間もない狭さですが、
それでもこんなふうに掃除をしようと
気持ちが動いたことは嬉しいことでした。

けれども上原のおばあちゃんから聞いた話は、
また胸の痛いこともありました。
おばあちゃんお部屋の並びの何軒か先で、
独居の方が亡くなっていたというのです。
救急車が来てなんだろうと思っていたら、
その部屋の人が亡くなっていたのだと言うのです。

仮設住宅はいろいろな地区から来ている人たちの寄り合い住宅なので、
おばあちゃんもその人がどういう人だったか判らないと言っていました。
こんなことが起きないようなコミュニティ作りも必要でしょうし、
公的な見廻りももっともっと必要だと思いました。

午後は高倉のホットスポットへ。
石川さんと荒さんのお宅を訪ねました。
どちらも以前にお訪ねしたことのあるお宅です。
石川さんのところは以前は2.7〜3.5μSvとありましたが
敷地を除染して今は1.2〜1.7μSvに下がっていました。

石川さんは被災以前は曾孫までの4世代7人で暮らしていましたが、
昨年3月以降は80代のご夫婦と60代の息子さんの3人の暮しです。
今日は玄関先だけで失礼しましたが以前お訪ねした時には、
部屋の中には曾孫のおもちゃがついさっきまで
そこで遊んでいたままのように置かれていました。

「いつ帰ってきても直ぐに遊べるようにと思って。
でも、もうここには帰って来られねぇ。
こんな線量が高いところには住ませられない」
と言われて言葉が、今も私の耳に響きます。
荒さんの家は玄関前では2.7μSvですが、
庭の叢は5.5μSv。
でも、荒さん夫婦と30代の独身の息子さんは
そこで暮らしています。

夕方海の方へ行き、
雫地区に入った時に改築して間もない家で
「高田」と表札のかかった家を見ました。
もしやと思ってお訪ねすると、
やはり探していた高田康成ちゃんのおじいちゃん、
おばあちゃんの家でした。

康成ちゃんとお母さんの有里子さんには、
昨年10月に寺内の仮設で出会ったのです。
六角支援隊と一緒に物資を配っていた時に
「こんにちは。支援物資です」と声を掛けると、
思いがけずに赤ちゃんを抱いたお母さんが顔を出したのです。
それが有里子さんでした。

「赤ちゃんがいる!」と、
思わず私は声をあげてしまいました。
その赤ちゃんが康成ちゃん。
生後一ヶ月になる少し前でした。
次にいった時にも訪ね元気に育っている様子にホッとし、
その後も気になるので寺内
の仮設に行く度に訪ねたのですが
留守で会えませんでした。

以前話を聞いた時には
雫にご主人の実家があって、
津波で一部壊れた家を直しているところで、
改築が済んだら仮設を出て実家で暮らすと言っていたのです。

今日厚かましくも改築されて間がない家の表札を見て訪ねたら、不審げな顔つきで赤ちゃんを抱いて出た人の腕の中にいたのが康成ちゃんだったのです。事情を話すとあちらも驚いて「息子たちはまだ仮設住まいだけど、今日は有里子がインフルエンザで家で寝込んでしまっているので、康成を預かっているんです」と。
そして「有理子がいつも言ってました。『赤ちゃんがいる!』と言って物資を持ってきてくれた人がいる」とも言うのです。
康成ちゃんはもう寝返りをするようになり、抱くとしっかりと脚をつんつん突っ張って小さな小さな2本歯を見せて笑うのです。
私は嬉しくて、涙が溢れました。元気に育って欲しいと思います。心から願います。

すっかり津波をかぶってしまった辺りに、
鯉のぼりが泳いでいます。
鯉のぼりの前には、一階部分は流されて筒抜けですが
二階が辛うじて残った家が一軒だけ。

家の裏手の木立が、
辛うじて家が流されてしまうのを防いでくれたのでしょう。
辺りには他に残った家はなく、
家々があった形跡すらもない平地です。
この家は両親、お嫁さん、
子供たちの5人が津波で亡くなり、
仕事で外に出ていた息子さん(子供たちのお父さん)だけが助かりました。

その息子さんは仕事を辞めて今も毎日、
亡くなった5人がどこかで生きていると、探し歩いているそうです。
息子さんの同級生から聞きました。
「あいつと顔を会わせるのが辛い」と。                   

長々とになりました。
明日は小高が警戒区域解除になります。
小高の様子を見に行こうと思います。           

いちえ

2012年4月12日

みなさま

信州発、産直泥つきマガジン『たぁくらたぁ』26号が刷り上がりました。
今号も原発特集です。
●「助け合い」とは無縁の災害がれき広域処理
●フクシマ健康調査プロジェクト報告
●柏崎刈羽原発の再稼働を止めよう
など「原発ニッポンの迷走」として特集を組んでいます。
また飯舘村の菅野哲さんの「翻弄された飯舘村に復興はあるのか」
や長谷川健一さんへのインタビュー第2弾、
浪江町の希望の牧場、
牧場主の吉沢正己さんに取材しての
「警戒区域内に封じられた現実」などなど、
是非たくさんの方に読んで頂きたい内容です。

『たぁくらたぁ』は季刊雑誌ですが、
昨年春の23号の緊急拡大号「3・11大震災 
ずっとウソだったんだよ、日本」。
24号は「総特集 3・11 脱・原発社会へ」、
25号拡大号「脱原発 フクシマは問い続ける」と
、昨年春以来しっかりとした取材を重ねて書き起こし、
毎号原発特集ですすめてきています。
どうぞ、バックナンバーも、お読みいただきたいと思います。
フクシマ健康調査プロジェクトも、
多くの人に知って欲しいと思います。

購読お申し込みは下記へ
「たぁくらたぁ編集室」
Tel;026−237−8100 
info@o-emu.net http;//o-emu.net/

14日から、また福島へ行って来ます。
畑やビニールハウスがどんなになっているか、楽しみです。
新田川の土手の桜も満開でしょう。
川岸はかなり放射線量が高いのですが。 

いちえ

2012年4月16日

みなさま

昨夜 0時に南相馬市の小高区が警戒区域から解除されました。
私が定宿にしているビジネスホテル六角は、
国道6号線に面しています。
そして6号線をほんの150mほどビジネスホテル六角から南に行くと、
原発から半径20キロの検問所がありました。

その先が警戒区域だったのです。
小高区は、この警戒区域内にあります。
これは昨年4月22日、
原子力災害特別措置法の下に設定された「警戒区域」でした。
でも、皆さんもご存知のように同心円で描いた半径で、
放射線量が出るものではなく
飯舘村のように30キロ圏外でも危険な線量値を示す地もありますし、
20キロ圏内でも浪江町の海寄りの地では
飯舘村よりもずっと線量の低い地もありました。

けれどもこの一年、一律に20キロ圏内は警戒区域とされていて、
許可証がなければ入れませんでした。
小高区の住民は、
昨日までは自分の家に自由に入ることができなかったのです。
これまでに2度、一時帰宅日とされた日に
2時間ずつ自宅に戻ってものを持ち出したり
様子を見に行くことが出来ただけです。

さて昨夜、私の部屋からは
赤いランプが点滅している検問所が見えていましたが
11時過ぎから赤ランプを点滅した車両が何台かやってきて
作業をしていましたが、0時10分にはすべての車両がいなくなって、
あとは信号機の灯だけになりました。

そして今朝、昨日までは警戒区域内に入る許可車両だけが通る6号線を
何台もの車が南に向かって行きました。
小高の人たちが、我が家の様子を見に行くのでしょう。
私も朝食後に現地ボランティアのAさん、
Sさんと一緒に小高に行きました。
「昨日までの検問所って、なんだったのだろう?」
と思いました。

つい数ヶ月前に希望の牧場の吉沢さんが
牧場の牛たちに餌をやりに行くのに、
同行させてもらったことがありました。
その時にはトラックの荷台で
飼料のモヤシの搾りかすが入った大きな袋の間に潜んで、
上からはブルーシートをかかられて、
それこそ”密入国”のような心地で行ったのです。
今朝は全く隠れもしないで堂々と入れたのです。
その間に小高の放射線量が下がったという訳ではなく、
その時も今朝も変わりない数値だったのに。

小高に入ると畑地には人の背丈以上に伸びた枯れ草の原。
役場の前でフォトジャーナリストの山本宗補さんにばったり会い、
宗補さんに「液状化が凄いです」と指差されて見た辺りは
路面が波打っていました。

そこから小高の駅前通りを行くと
商店がことごとく傾いたように沈んだり崩れていて、
この辺りの地盤の緩さが一目瞭然でした。
小高は”蔵造り”という建築方式の家が多かったそうですが、
ちゃんと建ってさえいれば
本当にお蔵のような質実剛健と言う感じの家や商店が、
土台から崩れてへしゃげていました。

これを見てAさんもSさんも
「見なければ判らなかった。原町区は地盤が堅いんだね。
こんな風に崩れた家はなかった」と。

小高は液状化や地盤が沈下しているのでしょう。
山の方へ行くと放射線量は上がり、
私の線量計は3.6μSvを示しました。
浪江町の方へ向かい、
希望の牧場で吉沢さんに会いました。

20キロ圏内に何軒か残っている牛を飼っている人たちがいるので、
今後はその人たちにも飼料を分けていきたいと言っていました。
「牛もミルクも出荷できる訳ではないが、
その人たちは殺処分も餓死もさせずに牛たちと共に生きてきた。
だからこれからもそうやって牛たちと共に生きていけるように、
いわばこれはこれは癒しだよ」と言います。

希望の牧場は浪江町です。
牧場の入口脇の道路には、
これまでにはなかった検問所が出来ていました。
ここがゆうべ0時以降から新たに指定し直された警戒区域となるのです。
希望の牧場から下って村上浜など海の方へ行くと堤防よりずっと手前から、もう海。
そこらは住宅や畑、田んぼだったところだそうです。
でも私には海にしか見えませんでした。海岸線が陸地の方へ入り込んでしまっているのでした。
その海の中に乗用車や消防車、工事車両や農業用車両がゴロゴロと転がっていました。
これまで片付けられないままでいた、震災後のそのままの小高でした。

警戒区域解除にはなりましたが、
水も電気もないのですから、津波の被害にあわず、
たとえ家は流されずに残っていてもそこには住めません。
南相馬市は今後は「帰宅困難区域」
「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の3区域に移行して、
今後の帰還に向けて除染やインフラ、
防犯などの対応をしていくことになりますが、
住民からの苦情が市役所に相次いでいるようです。

自由な出入りが出来るようにはなっても
水道も電気もなく、山の方の地区では線量も高いというのでは、
自宅への宿泊も出来ません。
自由に出入りできるようになりはしても、
もとの家に済めるように掃除をしたくても
掃除さえも出来ないのです。

そのために住民からの苦情や怒りが、
市長や市役所職員に向けられているそうです。
「警戒区域解除したって、家に住めないではないか」などと。
市長や市の職員に向けるべき憤りではなく
東電に向けるべき憤りだと思うのですが、
直接向けられる相手としてそうなってしまうようです。
このために市職員は、
これらの苦情を受けるのに耐えきれずに
辞めていく人もいると聞きました。

職員の中には自身が家族や家を失っている人もいるのですから、
このような筋の違う憤りを向けられるのは
どんなに辛いことかと思います。
東電の出来る限り賠償金は払わずに済ませたい腹が、
この警戒区域解除→3区域移行にあるのではないでしょうか。
3区域に移行と言えばごまかされやすいですが、
実際には3区域に分割ということです。
住民や地域が纏まらず、
将来の方向性も決めにくい状況に追いやって
住民側に賠償額の妥協を迫っているように思えます。  

午後はビニールハウスや畑の土地を無償で提供して下さった、
小林さんのお宅を訪ねました。
道路から家までは一面の福寿草の原!
福寿草の間にはキクザキイチゲの白い花や、
ヒメオドリコソウの薄紅の花、
ホトケノザの紅の花、オオイヌノフグリの青い花。
そして白梅紅梅も。眼に嬉しい光景でした。
この一面の福寿草は有名らしく、
わざわざ郡山から写真を撮りにきている人もいました。

新田川の岸辺の桜はようやくポチリと咲き始めていた昨日ですが、
今日の暖かさで桜も三分咲きほどになりました。                                                          いちえ

2012年4月16日追伸

みなさま

昨日警戒区域解除になった小高の様子を追伸いたします。
一昨日までは自分の住んでいた家や場所なのに、
自由に行けなかったのです。
ですから昨日は、そこで何人もの人たちに出会いました。

海の方には、一階は柱を残してがらんどうになっていても、
二階はそのまま残っているようなお宅もあります。
そうした家では、床に散乱した物を片付けている人たちがいました。
また若い世代は県外に避難し年寄り世代が仮設住宅に住み、
離ればなれで避難暮しをしていた家族が、
一年ぶりに元の家で顔を合わせたのでしょうか、
持参してきた飲み物や食べ物を前にして語り合っている姿もありました。

家の中に残っていた食べ物も飲み物は、
一切口にしないようにとお達しも出ていましたから持参してきたのです。
津波をかぶったMさんの納屋には、
扉が外れてしまった保冷庫の中に30キロ入りの米袋が積み上げられたまま、
崩れずにありました。ミニトラクターなど農機具も、
波をかぶったままの姿で。

津波にあった海側の辺りでは震災直後に自衛隊によって
遺体捜索された時に
瓦礫をある程度片寄せたのでしょうか。
そこここに小さな山になって瓦礫が詰まれていました。
村上浜は田んぼだったところが海になっていますから、
本格的な瓦礫撤去はこれからになるでしょうが、
行方不明の方がもしや底に沈んでおられるのでは…なども思いました。
ここに再び家を建てることができるようになるのだろうか、
おそらくここにはもう暮らせないのではないかと思いました。

地盤がかなり沈下しているようですから、
相当かさ上げしなければ無理でしょうから。
波が寄せる数百メートルも先に
かつての堤防が低く見えているのです。

家はそのままに残っている山の方では、
草ぼうぼうになった庭の草むしりをしている人や
伸びきってしまった庭木の手入れをしている人もいました。
身の丈ほどに伸びた草ぼうぼうの畑地、
草を刈っても放射能を含んだその草を置く場所はどこになるのでしょう。
刈った草が全体どれほどの量になるのかも、
またその仮置き場も定かにはなっていないのです。
線量が高い場所ではなお一層、元の暮しに戻ることは難しいでしょう。

みんな自宅に戻れる日を待っていたのでしょうが、
こうして戻れたと言っても住むことは出来ないのですから、
どんなにか複雑な思いだったことでしょう。
この日だって自宅に入れはしても、
トイレも使えず水も出ないのですから。
そのために役場には仮設トイレが10基ばかり作られていました。

昨日まわった辺りには墓地も何カ所かあったのですが、
それらの墓地で何組もの人たちを見かけました。
警戒区域解除になって、真っ先にお墓参りをしに来たのです。
“ふるさと”を生きる心を思います。

そこでの日々はきっと、
死者たちとも共に生きてきた日々なのではないでしょうか。
過ぎた遠い日々も今に繋がって、
そんな時の流れの中で生きてきた毎日だったのではないでしょうか。
いま、”ふるさと”から根こそぎ引き剥がされた人たちは、
遠い日々に繋がる時間軸をも断ち折られてしまったのだと思えます。
墓参する人たちにも出会いましたが、
海の方では墓地も津波に流されて墓石が散らばっていました。

畑やハウスの土地を提供して下さった小林さんは、
鹿島に何代も続く旧家です。
家の裏手には樹齢数百年と言うシラカシの木があり、
家の前には今は使われていない武家門があります。
小林さんが言いました。
「何でも便利になった世の中だけど、
こうして原発の事故が起きてしまって…。
シラカシの木は、
侍が腰に刀を差していた時代から、時の流れをずっと見ていたのだなと思いますね。
木が話せたら、なにを言うでしょうね」
「おとついまで四国に行ってたんですよ。
友人たちと山登りです。高知では田植えをしてました。
ああ、私らのところでももうじき田植えの時期なのに、
去年も今年も田植えが出来ないことを深く感じ入りました」

政治家たちに福島の声を聞いて欲しいと思います。
仮設のお年寄りたちは、
ビニールハウスや畑が出来て作物の生長を楽しみにしています。
そのハウスや畑のための管理費が、
まだまだ必要です。

畑をするにも長靴も流されてしまって、
持っていない人たちがほとんどですから
そうした物も揃えていきます。
どうぞこれからもご支援をお願いいたします。

●ゆうちょ銀行から送金する場合は
記号;18220
番号;5137881
なまえ;ゲンパツジコカライノチトカンキョウヲマモルカイ
●他行から振り込む場合
店名;八二八(読み ハチニハチ)
店番;828
預金種目;普通預金
口座番号;0513788
どうぞ、よろしくお願いいたします。           

いちえ

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