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2012年5月の一枝通信

2012年5月6日

みなさま

5月2〜4日、仙台に住む友人の案内で南三陸と石巻に行ってきました。
一言で「被災地」と言っても、
各地で大きく状況が異なっていることを実感しました。
入り組んだリアス式海岸は海辺のすぐ背後は山で、
平坦なところはわずかですから
逃げ切れなかった人が多かったことも察しられました。
瓦礫は車両、立木は仕分けられていますが、
あとはあまり仕分けられずに小山になっていました。

細かく仕分けようにも、
分別して置くには、海岸線が狭いので
やりようがないということもあるのでしょう。
何度か行った南相馬で
本当に細やかに瓦礫が仕分けられていたのは、
平坦な場所があるからこそだったのだと、
ここに来て思い至りました。
細かく仕分けられていれば、
資源としての再利用も可能です。
「瓦礫の広域処理」については意見はさまざまですが、
瓦礫の撤去が済まなければ復興、あるいは復旧、
または再建が進まないのは事実ですし、
でも仕分けができないままで焼却をしてはならないだろうと思います。

2日は仮設商店街で昼食を済ませてから、
南三陸町の防災庁舎、公立志津川病院、
戸倉小学校など津波の爪痕も生々しい状況を見た後で、
友人の親戚で、仮設住宅に暮らす方を訪ねました。
たまたま自宅を離れていたために助かった方です。

狭い仮設暮らしで、日常の買い物や通院など
さまざまな不便を耐えながらの暮しです。
やはり夜は睡眠薬が無いと眠れないと言っていました。
一年以上経ってもまだ非日常が続く、仮設での暮しです。
その夜の宿は、民宿「下道荘」でした。
ここは津波で元の所は流されてしまったけれど、
高台の竹薮を切り開いて再建した民宿です。

宿のご家族も気持ちの良い方達で
3歳から小3までの3姉妹、カナちゃん、
セラちゃん、モカちゃんと我らがツァーのワンパク坊主2人
(小6と小2の男児兄弟)はすっかり仲良くなって、
翌朝の別れを惜しんでいました。

3日は朝から雨足が繁く、
歌津の丸七水産さんを訪ねて
そのまま夕方まで入り浸ってしまいました。
丸七水産の高橋七男さん一家も
自宅と作業場が津波で流されましたが、
高台に仮設住宅&作業場を作りそこで生活を再開しています。
仮設住宅と言っても公的なものではなく、
家族全員で暮らせる住居と作業場を
自力で作ってしまったのです。

ワカメ漁はもう終わった時期だったのですが
他所からワカメを用意して下さっていて、
私たちは根元近くの葉と上部、
茎の部分を手作業で仕分ける作業を教えてもらいながら
体験しました。

そしてその場で奥さんの和子さんが
タマネギとワカメの酢の物や、ワカメのしゃぶしゃぶを作って下さり、
美味しく頂きました。
そればかりか「この雨ではどこも行かれないね」
と作業場から移動して、
自宅にみんなでお邪魔してお昼ご飯まで頂きました。
たらの芽やコシアブラの天ぷら、フキウドの酢みそあえ、
ミツバとほうれん草のおひたしなどなど
地の物で手際よく作られた美味しいご馳走でしたが、
和子さんは「想定外」のお昼の用意まで全く嫌な顔もなさらず
気持ちよくもてなして下さったのでした。

ワカメ、ホタテ、カキなど水産物を育てる仕事は、
陸の畑仕事と何とよく似ていること、
とお話を聞きながら思いました。
また被災直後の避難や、救援物資が届くまでの避難生活、
物資が届くようになってからの様子など
たくさんを聞かせて頂きました。
この日は一日雨。その夜は丸七水産のすぐ近くの民宿でした。

4日。
前夜から冠水で通行止めになったいる箇所があるという情報が
入っていましたが、
この日も朝から激しい雨で心配しながらの出発でした。
冠水して通行止めになった箇所を迂回しながら行きましたが、

それでも何度かは水に隠れた道路を水しぶきを上げながら進みました。
南三陸町、旧北上町、
旧雄勝町、女川町を通り
74名の児童が亡くなった大川小学校に寄って、
石巻に出ました。
一日風雨が激しく、この雨で道路も冠水していましたが、
庭にも水が流れ込んで床下浸水している家が何軒もありました。

泥の色をした海は壁のようになって寄せ、
白い波をけたてて俄仕立ての土嚢の堤防に
当たって砕けていました。
津波はずっとずっと巨大な壁のような波だったことでしょうが、
この荒れた海と道路を越えて宅地まで入る波に、
あの日の様子を思い描きました。
地盤が沈下していたせいもあったでしょうが、
たった2日間の雨で床下まで水が入ってしまうのです。
それらの家の方達は、
どんなに切なかろうと思いました。

大川小学校は
海からはかなり離れた北上川の川岸にありました。
背後の山は勾配が急で、
地震の後で小学生が登るのは無理だろうと思われました。

海からはかなり内に入っていますから、
建設時にはまさかここまで津波が来るとは
それこそ「想定外」だったでしょうが、
杉木立の山にせめて避難路の階段が刻まれていたら…と思いました。

この日の昼食も
被災後に仮店舗を建てて営業を始めた食堂で食べ、
また途中の仮設商店街に寄ってお土産を買ったり
トイレを借りたりしながら仙台に戻りました。

今回の被災地巡りで一番印象に残ったのは、
途中何カ所でも見た仮設商店街や
最初の晩に泊まった民宿下道荘、
自主仮設住宅と作業場を作って仕事を再開していた丸七水産など、
前に向かって歩き出している被災者の姿でした。

どこも活気が感じられましたが、
ただこれらを見て「復興に向かっている」
と言い切ってはならないでしょう。
これらは専ら被災者の努力によっていることですから、
行政には被災者の意見を汲み上げての援助を求めたいと思います。

漁が再開できる港が出来ることや、
水産市場が開かれることなどなど課題は山積みです。
瓦礫の処理と併せて考えなければならないことだと思います。
また考えさせられたことは、ボランティアの在り方です。
被災直後には物資配達や瓦礫撤去など
さまざまなボランティアが、
大きな力になりました。

でも一年経て、それらは不要になってもいるし、
逆にマイナス面も大きくなってきているようです。
ボランティアが作業に入ることで
地元の雇用が奪われていることや、
地元の商店の売り上げが抑えられてしまうなども出てきています。

裏返してボランティアを受け入れる側からすると、
人を雇えば給料を払わなければならないが、
ボランティアなら賃金を払わなくてすむなども.
問題になってきているようです。

また機会を作って訪ねたいと思いました。
皆さんもどうぞ被災地を訪ね、被災者の話に耳を傾けて下さい。
メディアが伝えないことを感じとられることと思います。              
いちえ

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