ようこそ、フォーラム色川のホームページへ

2012年7月の一枝通信

2012年7月の一枝通信

みなさま

ゆうべから南相馬に来ています。
昨日はここに来る前に、福島市のコーヒー店椏久里に寄りました。
前回のトークの会『福島の声を聞こう』のゲストスピーカー、
市澤美由紀さんに会いに行ったのです。

あの会の時に最後の質問コーナーで、
質問ではなく個人的な意見を行った女性が居たのでした。
講演会などで質問ではなく意見をいうというのは私は的外れな行為だと思いますが、
美由紀さんは「あの後かなり落ち込みました」と言ってました。
そして「一枝さん、第2弾をやりましょう。私はまた行きますよ」と言ってくれました。
飯舘村の声を聞く会を、またいつか計画しようと思います。

そして次回のトークの会『福島の声を聞こう』は、
9月28日(金)19;00〜神楽坂のセッションハウスギャラリーで行います。
ゲストスピーカーは福島の方ではなく宮城県丸森町からお迎えします。
たくさんの方に、ぜひお聞き頂きたいと思っています。
チラシができましたら、改めてご通知します。

さて、今回の南相馬は、相馬野馬追の開催に合わせて来たのです。
被災された方達にとって”ふるさと”とはなんだろうか?
数百年も続く祭事から、そのことを伺い知ることができないかと思ったのです。
線量が高く居住困難地区になっている大原の方で、
騎馬武者になって出陣する人が居ると聞いて、その方に会いに来たのです。
村上和雄さん、一光さん父子です。

和雄さんも一光さんも、野馬追出陣のために避難先から駆けつけたのです。
村上さんだけでなく、野馬追に出陣する人の中には避難先からの方達も多いと聞きました。
衣装も馬も津波で流されて、新たに作ったり借りたりという方も少なくないそうです。
今日は私も朝早くに村上さんのお宅へ伺いました。

2頭の馬に衣装を着けるところから見学させて頂きました。
中之郷、大原の方たち何人かが来て手伝いながらのことでした。
「一年抜けたから忘れちゃったな」などの声も漏らしながら、
甲冑を作る方が“先生”になって若い一光さんに教えながら
2頭の馬に晴れの衣装を着けていきました。
けれども皆さん、衣装付けの順序や紐の結び方
(種類や場所によってそれぞれ変わります)など、
体に染み込んでいるのでしょう。
頭で思い出すよりも手が覚えていたというふうでした。

こういうことを言葉で表すのは難しいですが、
その皆さんのふとした仕草や息づかいに、
また示し合わせてではない呼吸の合い方に、
こんな中にも彼らにとっての故郷がある、と私には思えたことでした。
馬に衣装を着せて部屋に戻ると村上さんの奥さんが
「暑いですね。窓開けられないからね、線量が高いもの」と言って、
お茶をいれてくれました。「測ってみましたか?」と訊ねると「測りません。測ると気になってしまうから」と。

外に出た時に私はそっと測ってみました。玄関先で3.6μSvありました。
馬に衣装を着せていた厩舎の辺りは、きっともっと高かっただろうと思います。

昨年は東日本大震災・福島第一原発事故で開催が危ぶまれたのですが、
震災で亡くなった方々への鎮魂と相馬地方の復興を願って規模を縮小して
80騎での開催だったそうですが、
今年はほぼ例年に準ずる500騎での開催だそうです。
第一日目の今日は出陣式。
村上さん父子や他の中之郷(南相馬市原町区)
の騎馬武者たちは太田神社に集結して参拝と祝杯を済ませました。
12時、炎天下の暑い盛り武者も馬も、
神主さんや神輿の担ぎ手、旗持ち、陣太鼓、それから見物人の私たちも汗いっぱいです。

軍者が旗を振り螺役が法螺貝を吹くと、いざ出陣です。
騎馬武者たちは馬上から「某◯◯役◯◯◯◯はこれにて出陣いたす」
一人一人名乗りを上げて列をなして雲雀ヶ原斎場に向かいました。

この日朝から路上にはそこここに馬糞が落ちていて、
これは数日前からのことだったそうです。
馬も武者も練習のために歩いたりしたのでしょうか。
今日は武者たちは紋付袴、あるいは野袴姿でしたが、
明日は甲冑をつけてのお行列と甲冑競馬、神旗争奪戦です。
さぞや暑かろうと思います。

私はこの祭事は、戦国合戦を模す祭事かと思っていました。
”戦い”ということが主眼の祭事かと思っていたのです。
そうではありませんでした。
元は、名前の通り武者たちが野馬を追って追い込み、
その内の一頭を捉えて神馬として奉納するもので、相馬の地が平安で繁栄するように願っての祭事だったそうです。

現在の様に合戦の意味合いが濃くなったのは、
明治時代以降のことだそうです。
それを知ってまた改めて「明治維新」の光と陰を思いました。
明治維新から原発事故に繋がる系譜を思うなどは、
私の思い過ごしでしょうか?
このことをもっともっと考えていきたいと思った今日でした。

ビニールハウスや畑も全箇所見て来ました。
どこの畑もハウスも、トマトやナス、キュウリ、
カボチャ、インゲン、枝豆、トウモロコシ、などなどが見事に実って、
一部の畑はもうジャガイモを掘り終えた跡に
次に植えたサツマイモの苗が伸びていたり、でした。
こんなに暑い時期ですから仮設の方達は、
いつも朝5時頃畑に行っているようです。
4時半頃に行く人もいるとのことでした。
私が今日行ったのは昼過ぎでしたからもちろん誰もいなくて、
でも真っ赤に売れたトマトを一つもいで畑の水道で洗って食べてみました。
美味しかったこと!

暑い盛りにハウス内でもいだトマトでしたが、
トマトって冷やさなくてもこんなに美味しかったんだ!と感激でした。
畑のお陰で、お年寄りたちが生き生きとしていることなども聞きました。
口の悪い大留さんは
「だってね、前はしなびたジャガイモみたいだった人が
畑をやり出したら新ジャガみたいになってるんだよ」と。
でもまた一方では、まだまだ睡眠薬がないと眠れず
その量も増えていってる人も居ることも聞きました。
それからまた、毎日一組と限らずにお葬式があることも。
これは既に亡くなっていた人のお葬式を出せずにいた遺族が、
ようやく気持ちの整理がついてという場合も多いですが
この時期になってなくなる人もまた、増えてきているようです。

被災地は、まだまだ皆さんの支えを必要としています。
どうぞ、お気持ち添わせてください。お願いいたします。                        いちえ

a:2046 t:1 y:0

2012.7.29

みなさま

ゆうべから南相馬に来ています。
昨日はここに来る前に、福島市のコーヒー店椏久里に寄りました。
前回のトークの会『福島の声を聞こう』のゲストスピーカー、
市澤美由紀さんに会いに行ったのです。

あの会の時に最後の質問コーナーで、
質問ではなく個人的な意見を行った女性が居たのでした。
講演会などで質問ではなく意見をいうというのは私は的外れな行為だと思いますが、
美由紀さんは「あの後かなり落ち込みました」と言ってました。
そして「一枝さん、第2弾をやりましょう。私はまた行きますよ」と言ってくれました。
飯舘村の声を聞く会を、またいつか計画しようと思います。

そして次回のトークの会『福島の声を聞こう』は、
9月28日(金)19;00〜神楽坂のセッションハウスギャラリーで行います。
ゲストスピーカーは福島の方ではなく宮城県丸森町からお迎えします。
たくさんの方に、ぜひお聞き頂きたいと思っています。
チラシができましたら、改めてご通知します。

さて、今回の南相馬は、相馬野馬追の開催に合わせて来たのです。
被災された方達にとって”ふるさと”とはなんだろうか?
数百年も続く祭事から、そのことを伺い知ることができないかと思ったのです。
線量が高く居住困難地区になっている大原の方で、
騎馬武者になって出陣する人が居ると聞いて、その方に会いに来たのです。
村上和雄さん、一光さん父子です。

和雄さんも一光さんも、野馬追出陣のために避難先から駆けつけたのです。
村上さんだけでなく、野馬追に出陣する人の中には避難先からの方達も多いと聞きました。
衣装も馬も津波で流されて、新たに作ったり借りたりという方も少なくないそうです。
今日は私も朝早くに村上さんのお宅へ伺いました。

2頭の馬に衣装を着けるところから見学させて頂きました。
中之郷、大原の方たち何人かが来て手伝いながらのことでした。
「一年抜けたから忘れちゃったな」などの声も漏らしながら、
甲冑を作る方が“先生”になって若い一光さんに教えながら
2頭の馬に晴れの衣装を着けていきました。
けれども皆さん、衣装付けの順序や紐の結び方
(種類や場所によってそれぞれ変わります)など、
体に染み込んでいるのでしょう。
頭で思い出すよりも手が覚えていたというふうでした。

こういうことを言葉で表すのは難しいですが、
その皆さんのふとした仕草や息づかいに、
また示し合わせてではない呼吸の合い方に、
こんな中にも彼らにとっての故郷がある、と私には思えたことでした。
馬に衣装を着せて部屋に戻ると村上さんの奥さんが
「暑いですね。窓開けられないからね、線量が高いもの」と言って、
お茶をいれてくれました。「測ってみましたか?」と訊ねると「測りません。測ると気になってしまうから」と。

外に出た時に私はそっと測ってみました。玄関先で3.6μSvありました。
馬に衣装を着せていた厩舎の辺りは、きっともっと高かっただろうと思います。

昨年は東日本大震災・福島第一原発事故で開催が危ぶまれたのですが、
震災で亡くなった方々への鎮魂と相馬地方の復興を願って規模を縮小して
80騎での開催だったそうですが、
今年はほぼ例年に準ずる500騎での開催だそうです。
第一日目の今日は出陣式。
村上さん父子や他の中之郷(南相馬市原町区)
の騎馬武者たちは太田神社に集結して参拝と祝杯を済ませました。
12時、炎天下の暑い盛り武者も馬も、
神主さんや神輿の担ぎ手、旗持ち、陣太鼓、それから見物人の私たちも汗いっぱいです。

軍者が旗を振り螺役が法螺貝を吹くと、いざ出陣です。
騎馬武者たちは馬上から「某◯◯役◯◯◯◯はこれにて出陣いたす」
一人一人名乗りを上げて列をなして雲雀ヶ原斎場に向かいました。

この日朝から路上にはそこここに馬糞が落ちていて、
これは数日前からのことだったそうです。
馬も武者も練習のために歩いたりしたのでしょうか。
今日は武者たちは紋付袴、あるいは野袴姿でしたが、
明日は甲冑をつけてのお行列と甲冑競馬、神旗争奪戦です。
さぞや暑かろうと思います。

私はこの祭事は、戦国合戦を模す祭事かと思っていました。
”戦い”ということが主眼の祭事かと思っていたのです。
そうではありませんでした。
元は、名前の通り武者たちが野馬を追って追い込み、
その内の一頭を捉えて神馬として奉納するもので、相馬の地が平安で繁栄するように願っての祭事だったそうです。

現在の様に合戦の意味合いが濃くなったのは、
明治時代以降のことだそうです。
それを知ってまた改めて「明治維新」の光と陰を思いました。
明治維新から原発事故に繋がる系譜を思うなどは、
私の思い過ごしでしょうか?
このことをもっともっと考えていきたいと思った今日でした。

ビニールハウスや畑も全箇所見て来ました。
どこの畑もハウスも、トマトやナス、キュウリ、
カボチャ、インゲン、枝豆、トウモロコシ、などなどが見事に実って、
一部の畑はもうジャガイモを掘り終えた跡に
次に植えたサツマイモの苗が伸びていたり、でした。
こんなに暑い時期ですから仮設の方達は、
いつも朝5時頃畑に行っているようです。
4時半頃に行く人もいるとのことでした。
私が今日行ったのは昼過ぎでしたからもちろん誰もいなくて、
でも真っ赤に売れたトマトを一つもいで畑の水道で洗って食べてみました。
美味しかったこと!

暑い盛りにハウス内でもいだトマトでしたが、
トマトって冷やさなくてもこんなに美味しかったんだ!と感激でした。
畑のお陰で、お年寄りたちが生き生きとしていることなども聞きました。
口の悪い大留さんは
「だってね、前はしなびたジャガイモみたいだった人が
畑をやり出したら新ジャガみたいになってるんだよ」と。
でもまた一方では、まだまだ睡眠薬がないと眠れず
その量も増えていってる人も居ることも聞きました。
それからまた、毎日一組と限らずにお葬式があることも。
これは既に亡くなっていた人のお葬式を出せずにいた遺族が、
ようやく気持ちの整理がついてという場合も多いですが
この時期になってなくなる人もまた、増えてきているようです。

被災地は、まだまだ皆さんの支えを必要としています。
どうぞ、お気持ち添わせてください。お願いいたします。                        いちえ

a:2046 t:1 y:0

2012.7.29 2日め
みなさま

相馬野馬追2日目の今日です。
今日も昨日お邪魔した村上さんのお宅に、朝6時に伺いました。
今日は甲冑をつけるので、
身支度になお時間がかかるからです。

2頭の馬への衣装付けは、
私が伺った時にはもう既に終えていました。
昨日と同じ方達がお手伝いに見えてのことです。
伺った時には皆さんで朝ご飯を頂いているときでした。
私もお相伴にあずかりました。

朝食が済むと、武者の村上さん父子の衣装付けです。
光一さん(昨日の通信では「一光さん
」と間違えてお伝えしました。失礼しました)にも和雄さんにもそれぞれ二人掛かりです。
昨日の紋付袴姿ではなく、今日は筒袖に野袴です。
脚絆をつけて脛当て、腕当て(と言うのでしょうか?肩から手首までの防具です)
鎧、肩当て、それから真新しいわらじをつけて、手甲。
鎧の腰に真白い晒を巻いて、晒のはちまきを締めます。
言葉で順序を書いていくとあっけなく支度ができたようですが、
この支度に一時間ほどかかったのでした。

鎧だけでもほぼ20㎏あるそうですから、
武者は暑さと重さで大変なことでしょう。
避難生活をしている村上さんは、
甲冑を狭い避難場所に運ぶことはできず、
いつもは奥さんの実家に預けてあるそうです。

また以前は馬を飼っていたけれど
原発事故後避難地に移るために手放したそうです。
今回の野馬追で乗る馬は、栃木県の所有者から借りたそうです。
騎馬での出発地点までは車で行くので
、兜はかぶらずに車に乗せました。

馬を運ぶ車は一台なので、
まず光一さんの馬を運びました。
出発地点で光一さんは兜をかぶり、
馬上の人になりました。
鎧の背には、下り駒の絵が描かれた幟旗をさして
副軍師の前に進みでます。
昨日同様に「某、中の郷大原中頭、村上光一。
出陣の折なれば馬上からのご挨拶失礼つかまつります。
本日は副軍師佐藤公信さまのご出陣に最後までお伴いたす所存で参りました」
と口上を述べ、副軍師は「ご苦労!」と答えます。
中頭の光一さんは、お使い番の武者から差出された
お神酒を飲み干し全員が揃うまで馬上で待機しています。
次々に武者が挨拶し、お父さんの和雄さんも馬上で口上を述べました。

挨拶は一人一人違います。台本があるのではなく役柄に合わせて、
自分で考えての口上です。
そしてこの副軍師率いる隊は出発しました。
こんなふうにして相馬中村神社、相馬太田神社、
相馬小高神社の各妙見神社から出発して集結した騎馬武者は総勢404騎、
徒の者504名は雲雀が原の斎場まで進みました。

騎馬武者の中には、鎧の胸に自分よりも
年若い武者の写真を飾り付けていた方がいました。
近寄ってお聞きすることはできませんでしたが、
もしかすると津波で亡くされた息子さんの遺影ではなかったかしらと思いました。

斎場に続く沿道は見物人がいっぱい。私もそのひとりです。
係の人がマイクで、歩道から路上に出ると危険だからでないように。
行列の前を横切らないように。
高いところから見下ろす見物はしないようになどの注意を繰り返しています。
また野馬追の歴史などを説明もしています。
そうしたアナウンスを聞きながら騎馬武者たちが
やってくるのを待っていました。
沿道の向こう側にもこちら側にも黄色い地に黒い文字で
「神は永遠です」とか「神を信じなさい」とか「悔い改めよ」
などと書いてマイクでもそのようなことを言う集団が居るのです。
年末などに街角によく居るキリスト教(ホントにそうなのでしょうか?)です。
何とも場違いな光景ですが、聞けば毎年のことだそうです。
変な宗教団体だと思います。

騎馬武者たちがすべて斎場に集結し、いよいよ甲冑競馬です。
一周1050mのトラックを、騎馬武者は数騎ずつ疾走して速さを競うのです。
軍師が旗を振り下ろすと、スタート地点に並んだ騎馬たちは一斉に駆け出します。
それはそれは、”血湧き肉踊る”光景でした。
兜を脱いで白鉢巻きを締めた若武者たちが、
先祖伝来の旗指物をなびかせて人馬一体となって疾走するのです。

目の前を馬たちが疾駆していくと、地響きがするのでした。
数騎ずつ、10レース終えて休憩の後では、神旗争奪戦です。
山頂の本陣から法螺貝が鳴り響くと、騎馬武者たちは
雲雀が原一面に広がりました。
軍師の合図で空高く打ち上げられた花火が炸裂し、
二本の神旗がゆっくりと舞い降りてくるのを目指して数百騎の騎馬武者が駆け出し、鞭を振りかざして、旗を奪い合うのです。さながら戦場です。
旗を奪い取り手にした武者は、山上の本陣に駆け上がり、
総大将から褒美を授かり戻るのです。

真夏暑い日差しをもろに浴びて観戦していながら、
つい最近行ってきたばかりのチベットを思いました。
6月中旬から3週間、チベットに行ってきました。
政府による監視、締め付けが一層きつくなっていたチベットでした。

ラサでは、辻々に交番ができていてそこには武警が常駐していました。
たった800mばかりの環状路、
バルコルには7カ所の交番と10カ所の警備所が設置され、
バルコルに至る8本の小道の入口にはどこも、
空港のセキュリティ検査と同様の機械が置かれ、
通るには身分証明書の提示が必要なのでした。
チベットにも競馬の祭りはあるのですが、
競馬だけでなくさまざまな祭事が政府によって禁じられたり、
あるいは見せかけの観光用の祭事にされたりしているのです。
野馬追を観戦しながら、どうかこの祭事がこれからもつつがなく
執り行われていきますようにと祈りました。
チベットを思いつつ祈りました。

今日も長文になってしまいました。
最後までおつきあい、ありがとうございました。

いちえ

a:2046 t:1 y:0

2012.7.31相馬野馬追3日目

みなさま

30日は相馬野馬追最終日で、
野馬懸(のまがけ)の神事が行われました。
本来はこの神事、野馬懸が野馬追の始まりでした。
千数百年昔、相馬家の始祖の平小次郎将門が御厨の官職にあった頃、
野馬を敵兵に見立てて追い、捕える軍事訓練として始まったといいます。

捕らえた馬を神前に奉じ、妙見神社の祭礼としたのが始まりです。
この野馬懸は旧警戒区域内の小高神社で行われますが、
昨年の小規模で行われた野馬追では
小高区が警戒区域で立ち入り禁止になっていたため、
別の場所で行われたそうです。
今年4月16日に小高区は警戒区域解除になり、
境内や参道の除染、地震で倒れた鳥居の復旧をして、
二年ぶりに本来の場所で行われたのです。

まず始めに、宮司が境内や関係者を清める儀式を執り行いました。
それが済むと騎馬武者が、境内に設けられた竹矢来の中に裸馬を追い込み、
その中の一頭に印が付けられます。
すると白装束に白鉢巻きの御小人(おこびと)と呼ばれる者たちが、
素手でその一頭を捕え神前に奉納するのです。

御小人というのは、殿様のすぐ側に仕えている武士たちのことだったそうです。
さしずめボディガードでしょうか。
昔は野馬も多くいたのでしょうか、
往事は昨日の斎場、雲雀が原から海に出て海岸を走り、
小高神社まで裸馬を追いこんだといわれます。

これは直線距離にして6㎞ほどですが、
往事の道筋を辿れば12㎞ほどでしょうか。
途中で小高川にかかる野馬橋で休んでから、
小高神社へ向かったそうです。
馬はそこで水を飲み、騎馬武者たちも一息ついたことでしょう。

昨年3月11日の津波で野馬橋は流されて半分なくなり、
辺りは地盤が沈下して田圃だったところは塩をかぶって白く乾涸びていますが、
4月16日の警戒区域解除の日に行った時には、海水が広がっていました。

現在の野馬懸は雲雀が原からではなく、
神社のすぐ裏手の下の方から境内に追い込みます。
距離は100mばかり。でもこれは震災前から、
既にそうなっていたようです。
昨日は放たれた野馬(と言ってもそう見立てた調教馬ですが)は3頭、
追い込む騎馬武者は数騎、御小人も8人でそれを聞いた時には
あっけないような気がしましたが、
実際に始まってみると裸馬を素手で捕える様子は迫力に満ちていました。
前日までの騎馬武者の行列や甲冑競馬のように色とりどりの祭事ではなく、
白装束というのも、いかにも神事であると思わせました。

神前に奉納する馬を捕らえると、
この時のために綯われた縄で作った頭絡や手綱をかけて神前に引いていきます。
その後、同じようにして、他の2頭も捕えられました。
その2頭は奉納が済んでからの「おせり」で、競り市にかけられるのです。
この神事の関係者がぐるりと輪になっているところへ、
1頭ずつ引いて来られ「サラブレット、雄、馬齢8歳」などと読み上げると
取り囲んだ人たちから声が掛かり、一番高い値段を言った人に買われます。

昨日のこの「おせり」が本当の競り市であったのか、
あるいは祭りのための演出であったのかは判りませんが、
元は実際にこのようにして競りが行われていたようです。
この「おせり」がいつ頃から行われていたのか、
今回は確かめることはできませんでしたが、
いつかまたこの祭事の歴史なども詳しく聞いてみたいと思っています。

こうして競り落とした馬は、農耕馬として大事にされたそうです。
お行列や甲冑競馬の野馬追の祭事に出ていた馬は殆どがサラブレットでしたが、
何頭かは在来種の体も足も太いがっしりとした体躯の道産子系の馬たちがいました。
馬や牛と共にあった、東北地方の暮しを思いました。
仮設のお年寄りや、現地ボランティアの六角支援隊の方の話でも、
子供の頃に冬になると藁で馬のわらじを作ったことなどを聞きました。
それを聞いた時には深くは気付きませんでしたが、
相馬野馬追の祭事を通して見学すると、
この地方のかつての暮しをもっともっと知りたくなりました。

相馬野馬追の祭事がすべて終わって、南相馬から昨日戻りました。
今回は仮設住宅を訪問することはできませんでしたが、
ビニールハウス、畑の様子を見て、思うことがありました。
昨年中に皆さまにもたくさんの支援物資をお願いして、
その後ビニールハウスへのご協力もお願いしました。

仮設住宅や借り上げ住宅で暮らす被災者たちの、
日常生活は物質的には何かが足りなくて困るという状況は逸してきています。
けれども多くの方達が、睡眠薬や精神安定剤がないと日々を送れない状態です。

被災された人たちにとって、
いま何が一番必要なことだろうかと考えます。
何が一番欲しいのだろうか、と。
少し思うところがあるので、
秋になったらグループを組んで行こうと思います。
日程などの計画ができ次第お知らせします。                      

今日もまた、長文になりました。
最後までおつきあいを、ありがとうございました。

いちえ

a:2046 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 4.85
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional