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2013年1月

2013年1月

草原の輝き

イスラムとの距離 人びとへの想い

1979年の2月のある日、
パリの街角で2人の男が銃撃されて死んだ。
イランのホメイニによるイスラム革命が起きたあと、
パリでは王政派の暗殺や処刑や未遂事件が何度もあった。
それはフランスが亡命者を
自由に受け入れていたためでもあるが、
イスラム革命以前のパーレビ王朝時代の民衆に対する虐殺、
拷問やりたい放題の圧政に対する報復という、
イランの強い意志が感じられる暗殺事件だった。

その日暗殺されたのは、首都テヘランのジャレー広場で
反政府デモ隊に機銃放射を浴びせて3千人を大虐殺した
戒厳司令官の将軍とその弟だった。

その日、たまたま友人との約束をキャンセルしなかったら、
岸惠子はその場にいあわせたはずだった。
イランからの亡命者はほかにも数多くいた。
その中には、政治とは関係なく亡命の道を選び、
「うしろめたい貌をして国を捨てた」人もいた。
だれが好きこのんで自分の国を捨てるだろう。
岸惠子は、その人々の思いから、イランに興味を抱き、
ジャレー広場に立ってみたいと思った。

そして彼女は
本当にホメイニのイスラム革命を進めるイランに行ったのだ。
ときはイラン・イラク戦争の真っ最中。
聖戦である。
そこには少年たちも参加する。
そしてぼう大な死者が
天国の墓地と呼ばれる共同墓地に葬られる。
墓に飾られた写真は2枚。
出陣前のつぶらな瞳の美しい顔写真と、
その顔や躯を砲弾で引き裂かれた
見るに耐えない殉教時の写真である。

 
息子を戦争で全員失った中年の男は、
墓碑の前で泣き崩れ、
息子たちと一緒に埋めてくれと泣き叫ぶ。
岸惠子はそれを見て、
知らぬうちに涙を流している。

 
彼女はのちにエッセイ風のルポルタージュ
『砂の界へ』の中で、それを書いた。
 
その本を新聞に紹介した人がいた。
その書評を読んで、
「私の紙面批評」というコラムに取り上げた大学教授がいた。
彼は「私はこの本を読んでいないので」と書きながら、
「十代で戦死した少年」はイランだけでなく、
太平洋戦争中の日本にもアメリカにもいたし、
ベトナム戦争でもいたのに、と反感を持ってしまう、と書いた。
「岸惠子氏の本を、私は買おうとは思わなかった」
とまで決め付けていた。

1986年のことである。
23年も前の愚かな「紙面批評」について、
いまさら問題にしても仕方ないし、
その大学教授はもうすでに鬼籍である。

ただその時代には、「女優風情が」イスラム革命真っ最中のイランなんぞに行って、
賢しらにルポを書くことは、
「社会的地位の高い人々」
たとえば男の大学教授などにとっては、
許せないことだったのだろう。

 私たちは、その「女優風情の」人が、
女性の教育を許さないなど過酷な差別をしく、
イスラム原理主義との距離や違いを意識しながら、
イランの人々の凛としたたたずまい、家族の温かさ、
そして痛みや民族の誇りを、
頭ではなく肌で体感しようとした姿に、
20数年遅れて学んでいるわけだ。

イランの子供達

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