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2013年11月

2013年11月

満蒙開拓平和記念館を訪ねて

わたしたちの少し上の世代には、満州の体験者が多い。
私の姉兄もそうだった。戦争の終わる前に父の転勤で内地
(日本のことをそう言うのも大陸帰りのくせだ)に帰ったから、
満州体験はただ楽しい思い出で、わたしもよく聞かされた。
 

日本から27万人の人びとが開拓民として満州に渡り、
敗戦の前にソ満国境をを越えてきたソ連軍の攻撃や、
匪賊(といってもほとんどが元々そこに住んでいた中国人たちだが)
に追われて、満州から逃げ帰ってくる途中で、あちこちで集団自決など
悲惨な最期を遂げたという歴史を知ったのは、ずっとあとになってからだった。
 
何万人も犠牲になった満州残留の人びとは、生き残っても帰れなくて、
そのまま地元民と結婚して残留婦人となったり、
現地の人にもらわれて残留孤児となった人も多い。

そのことは、『大地の子』や
日本に帰ってきた残留孤児たちの肉親探しで知った。
ただ、そんな悲惨な体験が、年に1度の敗戦記念日周辺や、
たまにテレビドラマで出てくるだけというのはおかしい。
どうして、満州の悲惨な歴史をふりかえる記念館がないのか不思議だった。
 
今年4月、長野県伊那の阿智村に「満蒙開拓平和記念館」が建てられた。
どうして長野県の阿智村なのか、なぜ今頃まで満州開拓の記念館がなかったのか。
ともかくわたしたちはバスツアーを組んで阿智村に行くことにした。
車をもたない限り、「満蒙開拓平和記念館」に行くには、
中央高速のバスで約4時間、さらにタクシーに乗って現地に行くしかないからだ。
満蒙平和記念館の展示物、とくに生き残った方の証言集は、
話に聞いていたことを越えて衝撃だった。
 
満州は「民なき土地に土地なき民を」送り込んだわけではない。
国策としての満州国の維持のため、
土地をもてない貧しい農村の次男三男を中心に、
開拓民として送り込んだ。「満州の荒野を耕して開墾を」
と思って満州に着いた人びとは、そこにはもう農地も家もあることに驚いた。
そこにはつい今まで、中国の農民が生きて暮らしていたところだった。

それを関東軍がほとんど二束三文で買いたたいて手に入れた農地だった。
それでも、日本から来た人びとは初めて手にした広大な農地で
毎日汗をかき働き農産物をつくりだした。

それがソ連軍の侵攻と敗戦で一気に逃亡する民となり、
匪賊に追われ胸がつぶれるような悲惨な逃避行を続けることになる。 
わたしたちの行った日は、ちょうど満州の生き残りのお年寄りによる
「語り部」の話を聞く日だった。
 
匪賊から逃げる日々の過酷な生活、
ソ連兵の相手にさせられた若い女性たちのこと、
彼女たちは日本に帰ってからは「汚い女」と差別を受けた。
自分の体でほかの人たちを救ったのに。
いくつもいくつも、書ききれない悲惨と、
それを生みだした悪意を聞くこと、見ることができる。
こういう記念館が何故70年もたってからできたのか。
なぜ長野の伊那なのか、満州の地で、
開拓民たちは、どんな体験をしたのか。
帰国してからはどんな仕打ちをうけたのか。
そして何より、残留した人びとの運命は…。それは次回に書くことにする。

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