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2013年11月12月の一枝通信

2013年11月12月の一枝通信

みなさま

明日からは、もう霜月。
秋の爽やかさを感じぬままに、時が流れたような気がします。
そして、もうじきに師走でしょうか。
その12月の、トークの会のお知らせです。

『福島の声を聞こう vol.8』は、飯舘村の酪農家の長谷川健一さんに来ていただきます。
原発事故後に長谷川さんはビデオカメラを買い、飯舘村の記録を撮り続けてきました。
今回は、その記録映画の上映と共に長谷川さんに話していただきます。
ぜひたくさんの方に、あの日からの飯舘村の記録映像を見ていただきたい、長谷川さんのお話を聞いていただきたいと思っています。
ご家族、お友達を誘っておいで下さい。
なお今回の会場は、セッションハウスの地下でいたします。
いつもの2階ではありませんので、ご注意下さい。
                  渡辺一枝トークの会
福島の声を聞こう! vol.8
長谷川健一さん講演&『飯舘村 わたしの記録』上映会
昨年3月から始めたトークの会、8回目は
飯舘村の酪農家、長谷川健一さんをお迎えします。

長谷川さんの講演と共に、
長谷川さんが撮り続けてきた原発事故後の飯舘村の映像を上映
いたします。多くの方に、「までいな暮し」が奪われた飯舘村の、
あの日から今日までを知って
いただきたいと思います。
ご来場をお待ちしています。  

映画『飯館村 わたしの記録』の中の長谷川さんご夫妻とお孫さん

長谷川健一さんプロフィール
1953年生まれ。福島県相馬郡の飯舘村の酪農家。飯舘村前田地区区長。
現在、伊達市の仮設住宅に住まいしながら、
大多数の住民が避難した今も「全村見守り隊」を組織して
飯舘村の見廻りを続けています。
事故後にビデオカメラを購入し、飼っていた牛が売られていく様子、
荒れ果てていく田畑、全村避難までの粛々とした時間、村の自宅
で家族が集まった“最後の晩餐”…「当事者の目線で後世に残したい」と、
記録を撮り続け、また全国各地での180回以上もの講演活動
で、みずからの体験を語り続けています。
長谷川さんが撮り続けてきた記録が、
『飯舘村 わたしの記録』として映画になりました。
著書に『原発に「ふるさと」を奪われて 福島県飯舘村・酪農家の叫び』(宝島社)『【証言】奪われた故郷̶あの日、飯舘村に何が起こっ
たのか』(オフィスエム)
『写真集 飯舘村』(七つ森書館)があります。

日時 2013 年12 月8 日(日)午後2 時(開場 午後1:30)
参加費 2,000 円(参加費の一部は被災地への寄付とさせていただきます)
場所 セッションハウス(東京都新宿区矢来町158)
申込受付 11 月18 日(月)午前10 時~
主催・お問い合わせ
セッションハウス企画室
☎ 03-3266-0461
mail@session-house.net

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2013.11.10

みなさま

昨日は永田町の星陵会館で「脱原発を目指す女たちの会」がありました。
私も発言の時間をいただいたので、
南相馬の仮設住宅に住むおばあちゃんたちの作った縫いぐるみの
”ぶさこちゃん”の話をして、人形を紹介しました。
持っていった5人の”ぶさこちゃん”は、
会の終了後にすぐにカンパと引き換えに引き取られていきました。

今朝の新幹線で発って南相馬に着き、
お昼を食べた後で元祖”ぶさこちゃん”
を作ってくれた小池第3仮設住宅へ行きました。
黒沢ヨシ子さん、渡部ハルヨさん、佐藤さんが待っていてくれました。
10月に黒沢さんから送られてきていた
”ぶさこちゃん”はすべて、買って(
カンパでお渡ししているので売り買いではないのですが)いただけたので、
集まったカンパ金を届けました。
黒沢さんは、「私は”ぶさこちゃん”に助けられてんの。夜眠れないときに、
”ぶさこちゃん”作ってると、時間が経つのを忘れるし、
そんで12時頃になると寝るんです。そうすっと6時頃に目が覚められるから、ね。
薬飲んでっから(睡眠薬)、長く寝られないし、
早い時間に寝ちゃうと3時や4時に目が覚めちゃうでしょ。
昼間は編み物したり、小高の自分家が在ったとこに行ったりもしてるけど
(自宅は津波で流されて土台しか残っていません)、
夜は”ぶさこちゃん”作りながら”ぶさこちゃん”に話しかけてるんです」と。

4月に私が縫いぐるみ講習会をしたときに、
渡部さんも佐藤さんも参加してくれましたが、
今では黒沢さんと渡部さんが作り続けてくださってます。
黒沢さんは言います。
「ハルヨさんも孫を亡くしてるでしょ。
私も二人亡くしてるから、
やっぱり家族を亡くした人でないとお互いに相手の気持ちはよくわからないんだよね。みんな気の毒だって言ってくれても、底んとこでは、
同じ体験したもの同士でないと判んないんだよね。
だから二人で一緒におしゃべりしながら作ったりもしてんのよ」

渡部さんは22歳のお孫さんを亡くされたのです。
消防につとめていたお孫さんは、
家から避難できずに居たお年寄りを助けに行って、
おぶって戻る途中で津波に流されたのでした。
浦尻に自宅が在った渡部さん、
佐藤さんは高台にある地区の公民館に避難していて
そこから海の方を見ていました。
津波が家を襲うさまも、またお孫さんが
お年寄りを背負って逃れる途中で波に呑み込まれるさまも、
為す術もないまま見ておられたのでした。
お二人とも「忘れることなんかできないな」と言います。
そして私も思います。忘れることなんかできっこない、と。
あしたは11日、「月命日」です。
黒沢さんも渡部さんも、浦尻の海に花を手向けることでしょう。
でも仮設で過ごす日々の中で、
”ぶさこちゃん”を作ることで少しでもお二人が心遊ばせることができたなら、
嬉しいことだと思いました。

黒沢さんたちにお別れを言って、
小池第3仮設住宅から小池長沼仮設住宅へ行きました。
ここは、先月縫いぐるみ講習会をしたところです。
ここからも講習会の後で既に2回、段ボールにいっぱい詰まった
”ぶさこちゃん”が送られてきました。
でもとても興味深いことですが、
こちらの皆さんの作る”ぶさこちゃん”は器量好しなのです。
器量よしというのも変なのですが、
バランスがとれていて比較的均一に作られているのです。
ですから私は小池長沼の方が作ったものは”べっぴんぶさこちゃん”小池第3の方が作ったものは”元祖ぶさこちゃん”と呼び分けています。
”べっぴんぶさこちゃん”もカンパでお分けしていますが、
こちらも送られてきたものがほとんど引き取られたので、
集まったカンパ金を届けたのでした。

”元祖ぶさこちゃん”も”べっぴんぶさこちゃん”も、まだまだ私に届きます。
「トークの会 福島の声を聞こう」で、また皆さんにご披露します。
どうぞ”ぶさこちゃん”の里親になっていただけたら、嬉しく思います。

次ぎに行ったのは、寺内第2仮設住宅です。
浜野さんをお訪ねしたのです。
教えてもらいたいことがあったのです。
浜野さんの自宅が在った萱浜あたりの郷土食、
「べんけい」の作り方を教えてもらいたかったのです。
これは芋がら(里芋の茎を干したもの、ズイキ)と大根と人参で作る保存食です。
作り方を口頭で教えてもらいましたが、
やっぱりこうしたものは実際に作ってもらうのが一番です。
そこで今度、六角の台所を借りて浜野さんに作ってもらうことにしました。

また浜野さんの実家は小高だと聞いたので「柿餅は作れますか?」と尋ねると、
その作り方もまた口頭で教えてくださったので、
これも作ってもらうことにしました。
「かきもち」と言うと、おかき(あられ)を思うかもしれませんが、
そうではなくて干し柿を搗き込んだお餅です。
私も話に聞いただけで、見たことも食べたこともありません。
材料や道具は私が手配して、
浜野さんに南相馬の郷土食をいくつか作ってもらおうと思います。
人も地域もバラバラになってしまった3・11後の南相馬の、
食の文化を残していけたらと思います。       

いちえ   

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 * 2013.11.11 [#i325aa5d]
みなさま

今回の南相馬は、信州発産直泥付き雑誌
『たぁくらたぁ』取材陣と一緒に来ています。
この春から取りかかっていたのですが、
2011年3月からこれまでの「六角支援隊」の
支援活動記録を残そうとしています。
その大筋ができたので、それを持って「六角支援隊」の
大留さんや鈴木さん、荒川さんに内容のチェックをしてもらうことも、
今回の目的の一つでした。
昨日に続き今朝もまた少し作業を続け、その後鹿島区の小林さんを訪ねました。

以前にもお伝えしましたが小林さんは鹿島区の篤農家で、
仮設住宅建設のために土地を無償で提供されたり、
また「六角支援隊」がビニールハウスや畑を作る時にも
土地を提供してくださり、今年の試験田についても大変ご協力いただいた方です。
小林さんに『たぁくらたぁ』31号ができた時にお送りしたところ
「これはいい雑誌ですね。
仲間や市会議員たちにも読ませたいから、10冊注文します」と言われて
お送りしてあったのです。

するとまた、数日前に電話をくださって
「一枝さん、あの雑誌は本当にしっかり取材して
新聞などで報道していないことも書いてありますね。
原発関係の記事はいつ頃から書いてあるのですか?」と問われ、
2011年春に発行した23号から毎号特集記事を組んでいることをお伝えすると、
バックナンバーを送って欲しいと注文されたのです。

ちょうど出かけてくる2日ほど前のことでしたから、
バックナンバーを持って編集長、
編集委員と共にお訪ねしますと答えたのでした。
私は小林さんの奥さんからも、
郷土食のことを伺いたくもあったからです。
『たぁくらたぁ』の記事の話や、
つい最近小林さんが行ってこられたベトナムのフォンドン大学で催された
「福島フェスタ」の話を伺ったり、郷土食の話を伺って、辞しました。

ホテル六角に戻り昼食後は「六角支援隊」の最年少メンバー、
のぞみちゃんへ『たぁくらたぁ』編集委員と私でのインタビューです。
3・11当時のぞみチャンは21歳。
私が初めて南相馬に来て六角で彼女に会ったのは、その年の8月でした。
そのとき私は、また私以前にのぞみちゃんに会っていた編集委員たちも、
ここにこんなに若い娘さんが居ていいものか、と驚いたのでした。
私がここに来て「六角支援隊」と共に活動する時はいつも、
そこにはのぞみちゃんも居ました。
とても素直な気持ちのいい娘さんで、
感心することが多かったです。
今日はたくさんのことを聞きましたが長文になるのでほんの一部だけ、
どうしてもお伝えしたいことだけを記します。

高校の同学年生は200名程だったそうですが、
ほとんどが他の地で暮らすようになって、
残っているのは他所に就職先が見つからなかったなどの少数の人だそうです。
東京、横浜など関東へ出た友人も多く、
他所に行った友人たちとは電話でよく話すそうですが、
みんな帰ってきたいけれど、原発がある限り戻れないと言うそうです。
のぞみちゃんに、のぞみちゃんは出たくないのかと尋ねると、
はっきりと出たくないと言います。

理由は「ばあちゃん(今年82歳)を置いていけない」と。
のぞみちゃんの家族は両親と姉、
おとうさんの母親であるばあちゃんとの5人家族です。
小さい時から”ばあちゃん子”で可愛がられもし、
また長じてからは母親も姉も勤めに出ていて、
家での留守番はばあちゃんとのぞみちゃんの役割だったと言います。
家族と離れて暮らしたくないと言うのです。
原発事故の影響には大きな不安を抱いてはいますが、
家族とのこの暮らしにまったく不満も不平もなく過ごしているのです。
六角支援隊のメンバーは60代以上の人たちばかり。
そこで20代ののぞみちゃんが一緒に活動していてどんな気持ちだったかを問うと、
「仮設の人たちが支援物資を喜んでくれるし、
お年寄りの役に立つことが嬉しかった」と言うのです。
のぞみちゃんには、ほとほと感心しましたが、
でも一方で、これを美談にしたくはないと思う私も居ました。

昼過ぎまで雨も降っていたのですが、
3時過ぎには晴れてとても冷え込んできました。
昨日お会いした黒沢さんや渡部さんの家が在った、
小高区の浦尻に行きました。
小高区の景色は、小林さんの家からの帰路に見てきた
鹿島区右田浜の景色とはまったく違っています。
小高区は原発から半径20キロ圏内で、
昨年4月16日に警戒区域解除になってから
日中だけ入ることができるようになった地域です。

鹿島区は半径30キロ圏外です。
津波による瓦礫撤去などは、
20キロ圏外は市の管轄としてやっています。
20キロ圏内は国です。
作業ができるようになるまでに鹿島区と小高区では1年の開きがあったとはいえ、
小高区はまだまだ瓦礫が片付いてはいません。
鹿島区ではすっかり片付いて、
それらをリサイクルしての堤防作りが進んでいます。
瓦礫は本当に細やかに仕分けされ、
例えば瓦、廃材、流木、コンクリート、鉄骨、
などなどに仕分けて、それらを物によって異なる大きさに砕いたりし、
土がついているものは洗って土を落します。
流木を芯にして砕いた瓦やコンクリート片を積み、
その上に塩をかぶった田畑の土を剥いでふるった黒い土をかぶせ、
草を生やし、木を植え、防潮の小山を築いているのです。
その仕分け方や、小山の作り方は、本当に見事だと思います。
瓦礫がゴミや邪魔になるものではなく、
リサイクルされて防潮林としての小山になっていくのです。
この様を、私は多くの人に見て欲しいと思います。

小高区に行った私たちは、津波が来るというので
浦尻地区の人たちが最初に避難した、浦尻公会堂へ行ってみました。
避難した人たちは小高い丘の上に建つ公会堂の2階から、
海の方を眺めていたのでした。
公会堂の丘の下、海に続く集落が浦尻です。
真っ黒い壁のような波が押し寄せ、自宅が流されていく様を、
渡部さんはお孫さんが流されるのも、そこで目撃したのでした。                                            
いちえ

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  * 2013.11.11 [#i325aa5d]

2013.11.13

みなさま
今日は朝食後に、ホテル六角を辞しました。
昨日は夕方まで冷たい雨が降っていましたが、
夜には月齢8日の月、そしてたくさんの星が輝木とても冷えみました。
朝出る時には夕べの予想通り青空が広がり、
北風が吹いて寒い一日になりそうでした。
『たぁくらたぁ』編集委員の方達の車に同乗して

寺内塚合仮設住宅へ寄ってから、飯舘村を通って田村市へ向かいました。
寺内塚合仮設住宅ここには集会所とは別に、
就職相談室という小さな別棟があります。
他の仮設にはこうしたものはなく、
なぜこの仮設にだけあるのかは判りません。
でもその就職相談室も、その用途で使われることは滅多にありません。
ここにはいつも決まったメンバーの、
7人のおばあちゃんたちが集うています。
部屋に入ると初めて来た人は
、誰もが「わぁ?!すごい!」と驚きます。
天井からは紙で作った色とりどりの大小の薬玉が、
いっぱい下がっています。
布製の小さなフクロウを数個ずつ小枝に並べたものが、
壁一面にびっしりと留っています。

部屋の真ん中のテーブルには針箱や布が広げられ、
おばあちゃんたちが楽しげにお喋りをしながら手を動かしているのです。
さながら手芸工房です。工房で生み出されるのは、
もっぱら天井にある紙製の薬玉と壁にある布製のフクロウです。
これらは訪ねてくれた人にお土産にあげたり、
また注文を受けて作ってもいるのです。
注文を受けて作ったものは、もちろん注文主が代金を払っています。

作り手はみんな小高区に家があったおばあちゃんたちで、
3・11以前からの茶飲み友達たちですから和気あいあい。
毎朝まるで出勤するみたいに仮設の自室からここへ来て、
お昼はそれぞれ自室に戻って食べ、午後もまたここに集うのです。
もちろん、用事があれば出勤しないのも自由で、
誰も咎めず、それどころか、病院に行くと聞けば
「大丈夫か?気を付けて行ってこ」と、
また娘や息子のところへ行くと聞けば「親孝行して貰ってこ」
などと声を掛けたりもするのです。今日行ってみたら、
山田のばあちゃんが左手で布を切っていたので
「あれ?今まで気がつかなかったけどぎっちょだったの?」と聞くと
「んだ。ぎっちょだよ」と。
ばあちゃんが使っていたのは普通の裁ちバサミだったので、
今度来る時に左手用の裁ちバサミを持って来てあげようと思いました。

大原の湯寺内塚合のばあちゃんたちに
「また来ます。風邪引かないでね」の挨拶をして帰路につきました。
川俣町へ向かう南相馬市の出外れの辺りには、
”ドライブイン大原の湯”という看板を掲げた家が在ったのです。
原発事故があって営業を止めたのか、
あるいはそれ以前から閉じていたのかはのかは判りませんが、
11年の夏に私が初めて通った時には、そこはただ建物と看板だけでした。

この辺りは原発から30キロ圏外ですが山間で、
その地形のために放射線量が高いところなのです。
だから、この辺りの人はほとんどどこかへ避難して、
家は在っても人の姿は在りませんでした。
でも大原の湯のすぐ上に、住んでいる人が居るらしい家が在りました。
私が2度目に南相馬を訪ねたのは’11年の9月で、
その時も今日と同じように『たぁくらたぁ』の人たちと一緒でした。
そして3人で、大原の湯のすぐ上にある家を訪ねたのでした。
谷一郎と彫り込んだ、木彫りの表札がかかっていました。

ご主人は留守でしたが奥さんの君子さんがいて、
突然の訪問だったのにいろいろ話してくれました。

30キロ圏外にある自宅なので、
支援物資も何も届かず何の補償もされていないということや、
林業に携わっていたご主人は仕事もできなくなってしまったことなど、
これからどうやって暮らしていくのか
不安がいっぱいの日々を語ってくれました。
それからも私は南相馬へ行く度に、谷さんの家の前を通る時は、
煙突から煙が出ていることや、戸口や窓が開いていること、
洗濯物が干してあったり、車が止まっていることなどを
バスの窓から確認しては、線量が高いその場所に
谷さん夫婦がいることを案じ、
また元気でいるらしいことに安堵してもいたのでした。
今日、2年ぶりに訪ねようとしたのですが、
”ドライブイン大原の湯”が、跡形もなく片付けられていて、
最初は谷さんの家の前を通り過ぎてしまったのでした。
気付いて戻ると、谷さんの家は人の気配がまったくありませんでした。

家の前にはイノシシがそこら中を掘り返した跡があり、
家の裏手では、太った大きなサルが
赤いお尻を見せて向こうへ走り去るところでした。
物置には、幾本ものチェーンソーの刃が、
どれも錆び付いたまま竿に掛かっていました。
仮設住宅に入ったのか、
それともどこか新天地を見つけて移ったのか、
あるいはご夫婦どちらかが具合が悪くなって入院でもしているのか…。
さまざまを思いました。更地になって砂利が敷いてあり、
もしかするとそれは除染のために
土地を剥いでから敷いた砂利かもしれませんが、
山深い景色の中でそこだけが妙に白々しく不自然な光景でした。

南相馬のこれから、福島のこれからを思いました。

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2013.12.1その1

みなさま

今夜も6時半から、官邸前では「秘密保護法案」反対集会が行われました。
集会が始まって間もなくのことです。
特別委員会(参議院 国家安全保障に関する特別委員会)を傍聴していた、
杉原さんからの報告がもたらされました。

報告は、委員長はじめ与党は可決を急いだが、
野党が拙速な審議を許さずに粘り、
今日の委員会での可決はされなかったとのことです。
そして官邸前での私たちの抗議の声ははっきりと、
委員会の行われている部屋に聞こえていたそうです。
また、議員たちへの請願行動をした人の報告では、
私たちの送っているFAXは「こんなに届いている」
と議員が胸ほどの高さを手で示して言っていたそうです。

官邸前で声を上げていること、FAXや電話で要請をしていることは、
確実に与党の横暴に枷をはめています。野党を励ましてもいます。態度がはっきりとしていない党に対しては、民意に添う方針に向かわせています。
私たちの思いを、FAX、電話で届けましょう!声を上げましょう!

だいぶ冷え込んだ今夜でしたが、官邸前、
国会前併せて1000人ほどになったでしょうか。
明日の「秘密保護法」に反対する抗議集会は、
官邸前ではなく参議院会館前で18:30~21:00の予定で行われます。
官邸前、国会前は、金曜日なので「原発反対」の抗議集会です。

参議院の特別委員会委員へ、明日もFAX、電話で要請を送ってください。
12月4日(水)は、13:00~14:50の予定で、衆議院第一義員会館多目的ホールで「全国の声を国会に!ストップ秘密保護法 緊急全国集会」がもたれます。
12:30から衆議院第一義員会館ロビーで、通行証が配布されます。
また、同じく12月4日には婦団連主催で、
秘密保護法に反対する女性たちの銀座パレードも予定されています。           

いちえ


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2013.12.1その2

みなさま

昨日は東京地方裁判所での、テント広場裁判の第4回口頭弁論の日でした。
テント広場経産省前にテント広場ができたのは、
2011年9月です。脱原発の声を掲げて経産省を人間の鎖で包囲し、
また若ものたちによるハンガーストライキが行われ、
福島の女たちによる座り込み、
そしてその行動に連帯して全国の女たちの座り込みなど、
このテント広場を核にして数々の抗議行動が行われてきました。

私が初めてテント広場に行ったのは、2011年経産省包囲の日でした。
始めは2張りだったテントが、3張りになりました。
その後も何度か訪ね、またキンカンデモの帰路にはいつも立ち寄る場所です。
そこは、脱原発・反原発に関する情報が集まるところであり、
思いを同じくする人たちが集う場所です。
原発事故で避難して来た人の、拠り所でもあります。
テント裁判ところが今年3月29日、
国はテント広場は土地を不法占拠しているとして、明け渡しを求めて、訴訟を起こしました。テントは特定の人が所有し使用しているのではなく、
多数の人たちが訪ね使用していますが、
訴状では2名の男性が訴えられているのです。
テント広場を支援する多くの人たちが、
「テントを所有し使用しているのは告訴状に名前の載っている2名だけではなく、
自分もテント広場の当事者である」として、
この裁判に当事者参加をしています。私もその一人で、陳述書を提出しています。
これまでの口頭弁論には参加できなかったのですが、
昨日は東京地裁に行きました。続々と人が集まってきて、
傍聴席を求める人はなんと2000名近くいたのでした。
テント広場にいつもいる方に「毎回こんなに多いのですか?」と伺うと
「いつもは300人くらいです」とのお返事でした。

傍聴席の抽選に外れた私は、同じく外れた他の人たちと共に
地裁前での抗議行動に参加しました。地裁前でのシュプレヒコールは、
口頭弁論が行われている103号法廷にきっと届いていたことでしょう。
報告集会参議院議員会館で、報告集会が持たれました。
弁護士さんからは今日の口頭弁論についてと
、弁護団で福島へ現地調査したこと、330通の陳述書を読んでの三点について、
報告されました。口頭弁論で弁護士側から意見陳述した内容、
項目だけでしたが報告されました。以下に記します。

福島の現状と、国が基準を緩めている件に関して

この裁判はスラップ裁判である*官僚(経産省職員)の暴言問題*

自民党は過去47年間、400坪の駐車場(国有地)を無料で使用してきているが、
テント広場は1坪にも満たない何も使用していない場所であり、
何の邪魔にもなってい ないこと監視カメラを設置したが、
その情報を開示せよ*テント広場を見に来るよう、
検証の申し立て報告会はその他、東電株主代表訴訟事務局長の木村結さん、
福島原発告訴団団長の武藤類子さん、
FoE Japan理事の満田夏花さんからの発言がありました。

政府与党は、何が何でも今国会中に「秘密保護法」を成立させようと躍起です!
こんな悪法、絶対に許してはなりません。声を上げましょう!
立ち上がりましょう!戦争できる国は、ごめんです!参議院での強行採決を、何としても阻止しましょう

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2013.12.1その3

みなさま

前便で「秘密保護法」反対の抗議行動、集会についてお知らせしました。
また11月28日の通信では、参議院特別委員会委員へFAX、
電話をとお願いをいたしました。特別委員会理事の佐藤正久議員について、
ジャーナリストの林克明さんから以下の情報を頂きました。
秘密保護法、絶対に通してはならないと、改めて憤りの思いを強くしています。

*******************************************************************************秘密保護法成立なら闇から闇  ヒゲ隊長・佐藤正久参院議員の
“選挙演説”33回に血税から謝礼 http://www.mynewsjapan.com/reports/1933 
特定秘密保護法案は、ある日突然、全ての人が罪に問われる可能性があり、
国会議員も例外ではない。同法案では、
国政調査権で得た情報を国会議員が有権者に伝えても懲役5年以下の刑に処せられ、
国権の最高機関たる国会の国政調査権を事実上無効にし、
行政の独裁を可能にする。その例として、
自衛隊のイラク派遣で有名になった佐藤正久参議院議員が
初出馬時に自衛隊施設約113か所で講話したうち33回は
税金から謝礼が支払われた事実を報告する。
筆者が防衛省に情報公開請求すると不開示決定で資料はゼロだったが、
国会が国政調査権を行使すると、
選挙直前の講話に謝金が支払われている事実が判明、
数百枚の証拠類が出たのだ。特定秘密保護法案が通ると、
国会における行政可視化機能まで奪われてしまう。
(証拠類は記事中と末尾でダウンロード可)*******************************************************************************
前便で書き落としましたが、衆議院(あるいは衆議院特別委員会だったか?
ここを聞き漏らしましたが)を傍聴していた方からの報告です。
野党議員が、福島の公聴会で7名全員が反対をしたことを発言した時に、
自民党の議員が言ったそうです。「福島を利用するな!」と。
 それを聞いて失笑が起こったそうです。「福島を利用するな!」
福島の人たちが、また私たちが言うのと真逆の意味で、同じ言葉が使われたのです。
「福島の名を借りて反対をするな」と言うのです。
これはもう、“暴言”と言ってもいいのではないでしょうか?

前便では抗議行動および集会のお知らせをしましたが、
引き続きFAX、電話での要請もしていきましょう。時間がない中で効果的な要請行動として、みんなの党への要請を集中的にしてはどうかと言う意見を読みました。
私もそれは効果的だと思います。

<みんなの党 参議院議員名簿>●反対の意思がかなり明確な議員⇒応援&支持のメッセージを川田 龍平(FAX)03-6551-0508 (TEL)03-6550-0508真山 勇一    (FAX)03-6551-0320  (TEL)03-6550-0320

●その他⇒党の方針に従うのではなく、自らの意思に基づいて行動するよう激励を。
井上 義行 (FAX) 03-5216-3711 (TEL)03-5216-3710江口 克彦 (FAX)03-6550-0054 (TEL)03-6550-1002行田 邦子 (FAX)03-6551-0614 (TEL)03-6550-0614 柴田 巧 (FAX)03-6551-0822 (TEL)03-6550-0822 寺田 典城 (FAX)03-6551-0920 (TEL)03-6550-0920中西 健治 (FAX)03-6551-1102 (TEL) 03-6550-1102 藤巻 幸夫 (FAX)03-6551-0408 (TEL)03-6550-0408 松田 公太 (FAX)03-6551-1215(TEL)03-6550-1215松沢 成文 (FAX)03-6551-0903  (TEL)03-6550-0903 水野 賢一 (FAX)043-463-0475 (TEL)043-463-2400薬師寺 道代 (FAX) 03-6551-1012 (TEL) 03-6550-1012山口 和之 (FAX)03-6551-1113 (TEL)03-6550-1113 山田 太朗 (FAX)03-6551-0708 (TEL)03-6550-0708渡辺 美知太郎 (FAX)028-678-9861 (TEL)028-678-5841和田 政宗 (FAX)022-263-3005 (TEL)022-263-3005小野 次郎  (FAX)03-6551-0620 (TEL)03-6550-0620

<衆議院で退席・反対した議員> 応援&支持&励ましのメッセージを江田 憲司 (FAX)045-989-3912 (TEL)045-989-3911林 宙紀 (FAX)03-3508-3434(TEL)03-3508-7134井出 康生 (FAX)03-3508-3299 (TEL)03-3508-7469」

a:1249 t:1 y:2

2013.12.4

みなさま?国会包囲昨4日は「秘密保護法」反対の国会包囲の日でした。
12時頃に地下鉄「国会議事堂前」で下りて表へ出ると
、もう既に衆議院第一議員会館前から参議院会館前の方まで
ずっと人の波が続いていました。

12時20分頃にはもう、参議院会館目から国会図書館、
憲政会館、官邸前まで人の列は1時には隣の人と肩が触れ合うほどぎっしりの、
人の輪になりました。国会を囲んで、互いに隣の人と手を繋いでの

”人間の鎖”です。社会科見学や修学旅行の生徒、
学生がバスで通り過ぎて行きました。
バスの中から手を振っている彼らに、私たちもプラカードを掲げて応えました。
6000人だったと、後で聞きました。
平日の昼間だったからでしょうが、参加者の殆どが60代以上に見受けました。

夕方の参議院会館前一度帰宅して用事を済ませて、
夕方また参議院会館へ行きました。
一昨夜のキャンドル抗議は参加者2000人以上だったそうですが(主催者が用意したライトは1500本だったそうですが、それが全部捌けて、その他自分でライトやキャンドルを用意して来た人も多数居たことから数を割り出したようです)、
今夜はあの時よりもずっと人は多かったです。

今夜の参加者も、3000人は下らなかったのではないでしょうか。
若い人の姿も多く、19歳の女子学生のスピーチもあり
「戦争をする国にしたくない」の声に大きな拍手が湧いていました。
前途中何度か速報が入り、最終的には今夜の特別委員会での可決はされず、
5日以降に持ち越されました。

速報による情報では、5日の福島さんの質問が終わったら
自民党は時間短縮を計って質問せずに、すぐに採決するのではないかと言っています。次々に入る速報で状況は掴みにくいですが、
5日特別委員会で可決して5日の本会議で可決に持ち込まれる可能性大です。
5日に可決できなければ6日に、それもできなければ会期延長して何としても今国会会期中で決めてしまう魂胆です。公聴会今日は埼玉で公聴会が開かれましたが、
「公聴会を開け!」の市民の声に押されて、
仕方なく前日に決定しての公聴会でした。
こんないかさまな公聴会では、納得できません。

フォトジャーナリストの山本宗輔さんは、
公聴会会場前での抗議行動を取材に行っていたそうですが、
警備の警官も多かったが、抗議する人たちも400人以上で座り込み、
抗議の声を上げていたと言います。今日の抗議行動スケジュール今日も朝から参議院会館前では座り込み、アピール抗議行動が続けられています。朝8時半、12時~13時、
18時半~19時半(「秘密保護法」廃案へ!実行委員会)
19時半~21時(『特定秘密保護法案』成立させない!絶対させない!永田町大集会)と主催団体は異なりますが、協力体制で抗議行動は続けられます。
可決が強行された場合は抗議時間を延長します。

どうぞ、出られる方はぜひ一緒に行動を!!
私もこれから出かけます。                            

いちえ

a:1249 t:1 y:2

2013.12.6

みなさま

闘いはこれからだ!!報道でご承知の通り、
昨日の参議院本会議でも強行採決されました。
一昨日の情報では6日の本会議開始は午後1時の見込みということだったので、
12時過ぎから参議院議員会館前に行っていました。

6時半からは日比谷野外音楽堂での大集会が開かれましたが、
私はそちらへは行かずにずっと参議院議員会館前に陣取っていました。
8時半頃から、断続的に日比谷野外音楽堂からのデモ隊が到着して来ました。
時間を追うごとにデモ隊の人波は増え、
シュプレヒコールの声はいっそう高まりました。
「自民党は恥を知れ!」「公明党は恥を知れ!」
「野党のみなさん、頑張れよ!」「秘密保護法案、廃案!」
「絶対廃案!」「強行採決、差し戻せ!」「採決無効だ、差し戻せ!」
「情報隠しは許さない!」「権利を守れ!」「戦争する国、絶対反対!」

9時半過ぎた時に、傍聴券が出ることを聞いて議員会館内に入り
議会内を中継しているテレビ場面を見ながら待ちました。
(結局傍聴席には入れませんでしたが)会館ロビーでは30人くらいが、
一心に画面を見つめていました。外からは、
シュプレヒコールの声が、大きく響いて来ていました。
画面では民主党から提出されていた中川雅治議員の問責決議案についての、
自民党の女性議員が意見陳述をしていました。
「性格の極めて温厚な中川雅治議員は…」などと、
反対意見を述べ立てました。議案は反対134票、賛成102票で否決され、
議長は次は特定秘密法案の案件に入ることを告げてから
「しばらくお待ち下さい」と言い、
休憩でもないようでしたが議事の進行は少し止まっていました。

中川議員の陳述、共産党の仁比議員の反対陳述の後、
投票によって採決されたのは11時頃だったでしょうか。
採決結果の詳報は、下記に海渡雄一弁護士からの情報を記しておきます。
結果は予想されていたとはいえ、その瞬間に議員会館ロビーの私たちは、
沈鬱な空気に包まれました。一瞬後に、高齢の男性が静かにいいました。
「みなさん!これからですよ。これからですよ!」その声に、
頷き決意新たに、三々五々席を立ったのでした。

「あなたはなぜ賛成なのですか?」でも、採決の瞬間にただ一人、
ただ一人だけ、拍手をした男性が居たのです。
席を立ちながら私は彼に聞きました。
「あなたは、なぜ賛成なのですか?」「守りたいものがあるからです」と彼は言いました。「私も守りたいものがありますが、だからこの法案には反対です」と私が言うと、
私の次の言葉を待たずに彼は再度「守りたいものがあるから賛成なのです」と言って出て行きました。

後ろ姿に向かって「もっと勉強してください!」と言うと「勉強したから賛成なのです」と、答えが返りました。話し合っても無駄なことなのかもしれませんが、
彼が守りたいものは何なのか、本当にこの法案で守れると思っているのか、
どんな勉強をしてそんな風に思うのか、もっと聞いてみたかったと思いました。

以下は海渡弁護士からの情報です。海渡です。今日の採決結果の詳報です。
今後の廃止運動の基礎資料です。

参議院議員 定数 242人投票総数 212賛成 自民党 110 反対欠席4   公明党 20 全員   合計  130反対 自民党 1 二之湯智   民主  58   みんなの党 3 川田龍平 寺田典城 真山勇一   共産党 11   社民党  3   新党改革 1 平野達男   生活の党 2   無所属  3 糸数慶子 興石東(副議長) 山本太郎   合計  82欠席および不投票   自民党  3 赤池誠章 有村治子(病気) 森まさこ(担当大臣)   維新の会 9 全員   みんなの党 15 上記3名を除く  新党改革 2 荒井広幸 浜田和幸   無所属  1 山崎正昭 (議長)*********************************************************************『チベット文学と映画製作の現在』東京外語大学アジア・アフリカ言語研究所が企画主催で、チベット人のペマ・ツェテン監督の映画上映
「ペマ・ツェテン映画祭」が開かれています。
監督が製作した『静かなるマニ石』『ティメー・クンデンを探して』『オールド・ドッグ』『草原』の4本を一挙に上映する企画です。

2年前に東京フィルメックス国際映画祭で『オールド・ドッグ』が上映され、
この映画は最優秀作品賞を受賞しました。
その時に私はこの映画を見ました。多くの人に見て欲しい!と、強く思いました。
また、チベット人監督によるチベット語の映画ができたことにも、

大きな感銘を受けました。その時から、
ペマ・ツェテン監督の他の作品もぜひ見たいと思い続けていたのです。
今日は『草原』を除く3本が渋谷の映画美学校で上映され、
その3本を見て来ました。監督は大学時代に小説家としてデビューし、
チベット語、漢語の両方で執筆して高い評価を受けていますが、

10年ほど前から映画製作を始め、故郷のアムド地方の人々の生活を描き出して、
映画作品でも多数の受賞をしています。
チベットの「今」を描き出しているこれらの映画を、
ぜひ多くの人に知って欲しいと思います。

映画祭は明日8日も渋谷の映画美学校で、
9月11日は東京外語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(東京・府中)で開かれます。

8日は要予約で、もう既に満席かもしれませんが、空席があれば入れると思います。
詳細は http://www.a.a.tufs.ac.jp/ja/event/exhibitions へ。)€
この・映画祭は、ペマ・ツェテン監督の小説集
『ティメー・クンデンを探して』刊行に併せて企画されたものです。
小説集も、お勧めいたします。勉誠出版発行で3000円と少々お高いですが、
映画祭参加者には、出版社が特別価格の2,500円にして下さるそうです。

☆私の中では、福島とチベットが重なって思えます。
私たちが「守りたいもの」は、何だろう?と考えます。
「秘密保護法案」は不当な強行採決で可決されましたが、
本当に闘いはこれからだ!と思います。
「守りたい」ものをしっかりと守り抜くために、
あきらめず、したたかに、しなやかに、闘っていこうと思います。          

いちえ

a:1249 t:1 y:2

2013.12.9その1

みなさま
今日はトークの会「福島の声を聞こうvol.8」でした。
ゲストスピーカーは、伊達市で避難生活を送る飯舘村の酪農家、長谷川健一さんです。
今回の会場はいつものセッションハウス2階のギャラリーではなく、
スクリーンのある地階のスタジオで行いました。
始めに長谷川さんが撮り続けてきた記録映像、
『飯舘村 わたしの記録』の映写をしました。
そのご休憩を挟んで、今度は動画ではなく
長谷川さんが撮り続けてきた写真を見ながらトークを聞きました。

『飯舘村 わたしの記録』原発事故後、長谷川さんはすぐに
「これは記録しておかなければ」と考えて、ビデオカメラを買って、
記録を撮り続けてこられたのです。国が情報を出さず、
誰もが飯舘村は安全と思い込んでいた(思い込まされていた)時期から、
この村で起きたことを記録に留めなければと思い立って、
映像として残してきた長谷川さんの姿勢に、先ず感銘を受けました。

2011年3月、地震による地割れや道路の陥没などの風景から始まり、
乳牛から絞った乳を捨てる日々、
酪農家たちが飼っていた牛を屠殺のために手放す日の様子、
田畑に雑草が生い茂っている様子、
「全村避難」の指示が出て仮設住宅に移り住むようになった日の記録、
それまで4世代が一緒に暮らしていた長谷川さんの家族も、
3カ所に分断されての避難生活になりました。
飯舘村の自宅で家族全員で摂った最後の晩餐の様子や、
ブルーベリー畑の決して摘み取られることのないたわわに実ったブルーベリー。
この村で生きてきた生活者の目で、記録は残されていました。

第1部の上映が終わり休憩を挟んで、
次は静止画を写しながらの長谷川さんのお話です。
第1部の映画は字幕はなく、所々に長谷川さんのナレーションが入っていましたが、
淡々と当時の飯舘村の様子を見せていました。
第2部では、『飯舘村 わたしの記録 その後』と称して、
長谷川さんは怒りをこめて熱く語りました。

『飯舘村 わたしの記録 その後』東京電力福島第一発電所3号機爆発、
続いて2号機が。放出された放射性物質が北西の風に乗って、
まるで飯舘村を襲うかのように降り注いだスピーディによる記録写真。
福島県内各地の人々の被曝状況の記録。
家屋の瓦屋根や外壁を濡れたティッシュで拭き取り、
畑や田圃は表土を5センチ剥ぎ取り汚染されていない土を盛り、
剥ぎ取った土は黒いフレコンバッグに詰めて、
その畑の上に積み上げてある、そんな「除染」の実態。

村役場に設置された線量計の示す、いかさまな数値。
草ぼうぼうの田圃や畑。イノシシに荒された畑や、
人の気配のない村の様子。住むことは出来なくなっても、
自分たちの地区は荒れたままにして置きたくないと草刈をする村の人。
102歳の老人が家族に「お前たちは避難しなければいけないだろう。
わしが居ては避難しにくかろう」と言って自死したこと。
画像を見せながらの長谷川さんの話は、よりリアルに伝わりました。

参加者の声幾つか質問も出て長谷川さんに答えていただきましたが、
こんな提案をありました。
「こうした現実をネットで発信していますか?」と質問されて、
インターネットをしていないという長谷川さんの答えを聞いての提案でした。
「これはたくさんの人に知って欲しい現実です。
ネット配信できるように、そのための資金集めにカンパを募って、
ぜひ多くの人に知らせるようにしてはどうでしょう」
本当に、そうできたらいいと思いました。

「ひっぽの元気味噌」「かあちゃんの力プロジェクト」の菓子とお餅、
ぶさこちゃん物販としてこれらを並べましたが、
お味噌もお餅やお菓子は完売。ぶさこちゃんも、
たくさんの人に引き取られて行きました。

長谷川さんの本や写真集、雑誌『たぁくらたぁ』も、お買い上げ頂きました。
「秘密保護法」は、廃案に!この法律が実行されるようになったら、
原発に関する情報はこれまで以上に隠されていくことになるでしょう。
今日の長谷川さんのお話からも明らかですが、
情報が隠されたために多くの人が被曝し、
しかもその被害の実態も隠されているのです。何としても、
廃案にさせないといけないと思います。          

いちえ

a:1249 t:1 y:2

2013.12.9その2

みなさま

連日で失礼します。幾つかのお知らせです。
『南京第虐殺76カ年 証言を聞く東京集会』
今年は南京第虐殺から76年、関東大震災から90年目にあたります。
中国の古都南京を蹂躙した南京大虐殺は、
「人類と文明に対する冒涜」と言われるすさまじいものでした。
南京住民に対する無差別の大虐殺、捕虜の大量虐殺、女性への強姦、
略奪と放火、阿鼻叫喚の地獄図が現出したと言われました。 

しかし、日本の歴史における大虐殺は、戦場でのことだけではありませんでした。
1923年9月の関東大震災時には6000人以上の朝鮮人、
700人以上の中国人、そして社会主義者たちが、警察、軍隊、
自警団などによって虐殺されました。 今、安倍政権のもとで、
かつての「侵略の歴史」が否定され、
「美しい日本」「誇りうる国家」がやたら押し出されています。

「秘密保護法」を強行採決し、憲法改悪・解釈改憲によって
軍事国家化への動きが押し出されています。
また、街頭でのヘイトスピーチのような排外主義が強められています。

二度とかつてのような虐殺の歴史を繰り返さないためにも、
南京大虐殺の幸存者からの証言を聞き、
関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任、民衆責任を考えることが必要ではないでしょうか。 

日時:12月14日(土)午後1時開場 1時半開始 
場所:カメリアプラザ5階(亀戸駅下車すぐ) 

幸存者証言:王津さん(82歳、女性、南京市)
講演:山田昭次さん(「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」共同代表)
参加費:1000円 連絡先:ノーモア南京の会 Fax 03?3889?9499       http://www.jco.apc.org/nmnankin/index-i.html

「再稼働反対・国会大包囲」年内トドメの大抗議!! 再稼働反対の民意を国会に突きつけよう!!日時:12月22日(日)13:00?17:00場所:日比谷野外音楽堂・国会議事堂周辺主催:首都圏反原発連合協力:さようなら原発1000万人アクション/原発をなくす全国連絡会/脱原発世界会議
経産省前テント広場/再稼働阻止全国ネットワークタイムテーブル:13:00~14:00(12:30開場)日比谷野外音楽堂集会15:00?15:30 国会大包囲  15:30~17:00 官邸前・国会前大抗議

a:1249 t:1 y:2

2013.12.22

みなさま

友人一行と郡山で合流して、田村市、川俣町、飯舘村を経由して
昼過ぎに南相馬に着きました。

途中の田村市で先月南相馬に来た時に、帰路で田村市を回りました。
その時のことは以前の「一枝通信」でお伝えしましたが、
除染で出た廃棄物の入った黒いフレコンバックが歩道に積み並べられていたのです。
まるで、家庭ゴミがゴミ収集日に出されているような様子で。
仮仮置き場さえ決まらずに、とりあえずそこに置いたという感じでした。
今日見ると、仮仮置き場が決まったのか
、路上にはまったく無くなっていました。
でも、仮仮置き場って、とっても変な言葉だと思います。
「仮」を二つ重ねて「仮」の「仮」ということならば、
初めの「仮」は「仮」ではなくなる筈ではないかと思うのです。
「焼却場」を「減容施設」と言い換えることと同じように、
これも「官僚作文用語」ではないかと思うのです。

南相馬に着いて友人たちの中には南相馬訪問が初めての人たちもいたため、
六角支援隊の大留さんに被災地案内をお願いしてありました。
予定では浪江町請戸、小高区、原町区の小沢、
萱浜などの20キロ圏内での津波の被災地、原町区海岸の瓦礫仕分け現場、
鹿島区右田浜の植林現場、仮設住宅を見ていただく予定でした。

けれども浪江町請戸は、予定から外さざるを得ませんでした。
10日ほど前に請戸で不審火から火事があったそうで、
そのために許可証がない者は一切入れないということになりました。
以前は許可証がなくても、焼香や取材という理由で、
車両ナンバーを控えられるだけで入れたのです。
”火事”と聞いて、いろいろを思いました。

3年も経とうというのに何も片付かず、先も見えない現状に、
業を煮やした住民がそれを嘆いてのことなのか、などなどと。
20キロ圏内は瓦礫撤去など市ではなく国の管轄でするようになっているのですが、
崩れた家なども未だにそのままで残っていますし、
除染などは手がつけられずにいます。
小沢や萱浜の津波で破壊された堤防の跡を示して、
大留さんが説明しました。「ほら、見てご覧。
これ作った頃の堤防の工法は家と違って、
コンクリートに鉄骨が全然入れてないんだよね。
これじゃぁ強い力でぶつけられたら、崩れてしまうよ」

右田浜ここのことも以前の「一枝通信」でお伝えしましたが、
瓦礫を芯にして土を盛って小山を作り、そこに植林をしてあります。
植樹祭は10月の初め頃でしたが、
一本も枯れずにどれもがしっかりと根付いているようでした。
これは幾種類かのそれぞれ樹高の異なる広葉樹を植えてあり、
樹間はさほど広くはないのですが、
樹高が異なるために互いに邪魔にはならないようにと考えられてのことです。
来年はもっと大きくなっているでしょうし、
各地から来て植樹したボランティアたちも
自分たちが植えた木の生育を楽しみに右田浜を訪ね、
また語り継いでいくことでしょう。こうしたこともまた、
「福島を忘れない」一つなのでしょう。

たくさんの出会い今日、郡山からご一緒した人たちはOさん以外の5人の方は、
私には初対面の方たちばかり。
みなさんとても魅力的な方達ばかりでした。
明日午前中は、私が仮設住宅をご案内することになっています。
”ぶさこちゃん”を作っている方達をご紹介しようと思っています。
また今夜は、六角には他のボランティアグループも集まったのでした。
Kさんたちは折節、プレゼントと手紙を仮設住宅のみなさんに配っています。
今回はクリスマスで、Kさんはサンタクロースの衣装でした。

もう一組は、2011年3月、
原発から30キロ圏内の物流が途絶えていた時期に
いち早く支援物資を運んで来ていた”みちのく応援隊”にいたYさんたちです。
そしてもう一組、『たぁくらたぁ』編集委員の方たちです。
大勢が集うたこの日、大留さんが言いました。
「原発事故はまだなんにも終わってないけど、
でも僕はこうやってみんなに会えたからね。それだけは有り難いと思ってる。
こんなことがなけりゃ会えなかった人たちだからね。
みんなもこうしてここでつながり合えたからね。
それだけはよかったと思ってる」
ホント、私もここに通って多くの方達と知り合え
心通わせ合うことが出来たことを、有り難く思っています。

いちえ

a:1249 t:1 y:2

2013.12.23その1

みなさま
仮設住宅訪問午前中は昨日から行動を共にしている友人たちをご案内して、
萱浜の上野敬幸さんのお宅と、小池長沼、小池第3、
寺内塚合の3カ所の仮設住宅を訪問しました。
小池長沼と、小池第3では”ぶさこちゃん”を作ってくださっているので
集まったカンパ金もお渡しして来ました。

臭くて30分も居られない」寺内塚合では
集会所の前でちょうど餅つきをしていて、
私たちも搗き立てのお餅をいただきました。
ここは小高区から避難している人たちが、ほとんどです。

集会所とは別にある談話室に毎日集まって、
手芸品を作ってるおばあちゃんたちが居るのです。
元々近所に居て仲が良かった人たちですから、
ここでも和気あいあいとおしゃべりをしながら手を動かしています。
折り紙のくす玉や、布製の小さなフクロウを作っています。

70代後半から80代の人たちですが、
津波の被害はまったく受けていない地域の人たちです。
仮設暮らしながら”和気あいあい”で笑いが絶えないのも、
こうしたことからなのでしょうか。
小高区は山側の一部の地域以外は、
昨年の4月16日から日中は自由に自宅に入ることが出来るようになった地域です。
私が「お正月は小高神社に初詣に行って、お家で過ごすのですか?」と尋ねると、
天野ハルさんが答えて言いました。
「サルやイノシシがそこいら中荒らしてるし
、家ん中はネズミがそこら中糞したりしたり荒らしてるし、
家さ帰っても、私ら30分も居らんないよ。
臭くて、気持ち悪くなっちまう。イノシシは家ん中さ入ってはこねえけど
、いろんな動物が荒らしてんだもんな。もう家には戻らんねぇ。
ネズミだけは、どうしようもねぇな」
こうした話は以前、小高区から飯坂に避難して暮らしている人からも聞いていました。
その人の家も地震や津波の被害はなく
家はそっくりもとのままであるのですが、
戻れるようになってもあの家には住めないというのです。
「たまに掃除などで戻っても、家中ネズミの糞だらけで、
放射能の被害より何よりも、あのネズミの数を見たら、
もうあの家には住めないと思う」と。

「孫との別れが辛かった!」小池長沼の志賀礼子さんは
原町区小沢の家は津波の被害を逃れて無事でしたが、
20キロ圏内なので住むことが出来ずに仮設に居ます。
以前は3世代で暮らしていて震災直後に避難所に行った時は家族一緒でしたが、
原発事故後はお嫁さんと孫はお嫁さんの実家に避難させました。

孫たちの健康を考えるとそれしか方法はなかったが、
別れは本当に辛かったと言います。
また、仮設住宅の入居は高齢者やハンディキャップのある人から
優先的に入っていったので、
志賀さんのように5、60代の人たちは後まわしでした。
志賀さんが仮設住宅に入ったのは、3ヶ月後の8月でした。
志賀さんは避難所にいた時から安眠剤を呑まないと眠れず、
「仮設住宅に入居できたら、ゆっくり眠れるようになるだろうな」と思っていたそうです。

けれども仮設住宅に入ったらかえって逆で、
避難所は広い空間に大勢の人たちが居たけれど、
仮設は狭くて、その狭い空間でご主人と顔を突き合わせていると
神経がいらだってくる、けれどもご主人が仕事で出かけて
自分一人になってしまうとボロボロ、ボロボロ涙がこぼれてきて、
入眠剤、安眠剤の量も増えてしまったと言います。
これでは駄目だと思っていた時に、
娘さんから孫たちの幼稚園や小学校の送り迎えをしてと頼まれ、
それをしているうちに少しずつ元気になって、
仮設の人たちとも話をするようになり
手芸クラブを作って集会所で集まるようになったと言います。

「こんな話は、みんなと居る時は絶対しないよ」
小池第3仮設住宅では黒沢さんが、
2011年3月11日の津波が襲ってきた時の
小高区井田川の自宅付近の写真を見せてくれました。
その写真を前にして黒沢さんと、
同じく小高区の浦尻に自宅があった渡部さんと木下さんの3人は
どこに自分たちの家が在ったか、
この写真はどの場所から撮ったものなのかなどを話してくれました。

そしてまた、つい先日にこの集会所で催した余興大会のことや、
ある人を呼ぶのに名前で呼ばずに「ガッコパッパ」と呼ぶことなどを、
コロコロと笑いながら話してくれました。
ガッコパッパというのは、
学校の近くの家に住んでいる奥さんのことを呼ぶ言い方だそうです。
でもそんな風に楽しげに笑いながら話す黒沢さんと渡部さんですが、
お二人は津波で家族を亡くされています。

黒沢さんはご主人んと娘さんを、渡部さんはお孫さんを。
そして渡部さんは消防団員だったお孫さんが、
お年寄りを避難させようとおぶって逃げる途中で波にさらわれるのを、
避難していた高台から目撃しても居るのです。
「家族を亡くしたことなんか、
みんなと居る時は絶対にしないよ。
ここでは私らの他には家族亡くしてる人は居ないからね。
みんなが楽しく集まってる時には、絶対にしないよ。
みんなが嫌な気持ちになるでしょ。
私ら二人で居る時もこんな話しはしないけど、
お互いに気持ちは判るからね。だから二人でいっつも、
ここでは楽しいこと話して笑ってんだ。
でも、一人になっと、寂しくて泣いちゃうんだよね」

私は数日前に黒沢さんから電話をもらいましたが、

電話口で黒沢さんは言いました。
「きょうはね、嬉しいことがあったんだ。夢でね、おとうさん
(ご主人のこと)が出てきたの。”あれ、おとうさん、そこに居たの?”
って言ったら、笑って手振ってたんだ。
私がそばに行こうとしたらすうっと居なくなっちゃったんだけど
、”また来てね”って言ったら、笑ってる顔が見えたんだ」
今日、黒沢さんとの別れ際に「黒沢さん、またいい夢を見てね。
おとうさんに夢で会ってね」と言っておいとましました。                                               
いちえ

a:1249 t:1 y:2

2013.12.23その2

みなさま

12月23日午後からは郡山から同行した友人たちとは別れて、
「たぁくらたぁ」編集委員たちと行動を共にしました。
南相馬ソーラー・アグリパーク以前には
介護老人施設のヨッシーランドがあった原町区下渋佐に、
大きなドーム型のビニールハウスが2棟できています。
そこでは水耕栽培で野菜を作っていると聞いて、行ってみました。
「泉ニューワールド 野菜工房 童夢」と表示した倉庫のような建物と
ドーム型のビニールハウス、事務棟がありました。

ドームの内部は無菌を保つために入口は二重ドアになっていて、
靴も履き替え、頭にはビニールのキャップを被り、
衣服には消毒液をスプレーで吹き付けて入るようになっています。
私たちは中には入らず外から見ただけでしたが、
ちょうど見学者らしい人が施設の人に案内されて入る所に
行き会わせたのでした。
サラダ用の野菜が栽培されていましたが、
二つのドームではそれぞれ別の作物を作っているとのことでした。
腰よりも少し高い位置に作物を育てるプランターのようなものが並んでいて、
それはベルトコンベアーに載っているそうです。

採れた野菜は、大手スーパーに卸されているということです。
「野菜工房 童夢」の名が表している通り、野菜栽培の工房なのです。
当然、水にも雑菌が入らないように、
そして化学肥料を加えての栽培であることは、推し量れます。
原発被災地での農業という意味では一つの選択肢なのかもしれませんし、
またこうした栽培方法なら自然条件に左右されずに、
年間を通じて安定した供給が出来ることも理解できますが、
なんだか割り切れない思いが残りました。

3・11後の福島県では、「測定して耕す」
ことを続けている農家は少なからずあります。
彼らは研究と工夫を重ねながら、安全な農作物を生産してきています。
もちろん、出荷にあたっては検査をしてから出していますが、
国の基準よりもさらに低い数値を自らに課してもいます。
これらに関しては私自身も福島の農業者から聞いていますし、
みなさんも福島の農家の方から話を聞いて欲しいと願いますが、
そうでなければ是非お読み頂きたい本もあります。

★『放射能に克つ農の営み ふくしまから希望の復興へ』
菅野正寿・長谷川浩 編著、コモンズ刊です。

アグリパークの敷地内では電気自動車の
バッテリーチャージもできるようになっていて、
試乗用の電気自動車も一台止まっていました。
栽培ドームも、また事務棟など他で使う電力も、
ここでは太陽光発電でまかなっているようです。
隣接した広い敷地には、ソーラーシステムのパネルが
敷地いっぱいに設置されていました。

自然エネルギーならいい?上記の施設を見ても思うのは、
原発を止めて太陽光発電や風力発電、その他の自然エネルギーに変えれば、
それで良いのかということです。
とても気掛かりなことも聞いたのです。
瀬戸内海に浮かぶ祝島の人たちは、原発建設に反対を続けてきています。
きたるべき町長選に向けて、その反対運動が割れてきているらしいというのです。
原発に変わるエネルギー源として、
風力など自然エネルギー施設を作ろうという派と、
原発もそれに変わるエネルギー施設もいらない、
このままの自然を残していこうという派に割れているらしいというのです。

この問題は祝島だけではなく、
脱原発をめざす私たちすべてが考えるべき問題なのではないかと思います。
太陽光や風力、潮流など再生可能な自然エネルギーを使っても、
そのための設備にはどんなことが必要で、
それらが未来に及ぼす影響はどうなのかを、
よくよく考えないといけないと思うのです。

3・11以降、自然エネルギーが大きく唱えられるようになりましたが、
一部にはそこにもまた利権が絡んでいると思えるような場合もあります。
3・11直後は節電が叫ばれて、
店や施設、駅など、かなり灯が暗くなっていましたが、
年末になるともう元の明るすぎるほどの明るさに戻っていました。
自動販売機も相変わらずそこら中に見られます。
原発を自然エネルギーに「変えよう」ではなく、
「変わろう」ではないのかと思うのです。
私たちが「変わろう」とすることが大事ではないかと思うのです。
経済成長を目指すばかりだった、
これまでの暮らしぶりを見直していくべきではないのかと思うのです。
科学や技術は驚くべき進歩を遂げていますが、
倫理観はそれに伴って向上しているとは思えません。

あらゆる分野で、しっかりと考えるべきだと思うのです。
小高区浮舟ふれあい広場小高の駅前通りを通った時に、
スピーカーから音楽が流れてきました。
見るとそこだけ中に電灯がついて明るく、人が居るようでした。
「小高区浮舟ふれあい館」と看板が出ていました。
小高区は去年の4月16日から日中は入れるようになっているので、
たまに人の姿を見ることはありますが、
それは家の掃除をしに来る住民やボランティアです。
だから小高は未だに人気の無い地域なのです。
そんな小高で音楽が流れ、電気がついていた場所だったので
不思議に思い訪ね、そこに居た職員らしい男性に、話を聞きました。
建てたばかりのような新しい建物ですが、
2010年に小高区の街作りの拠点の一つとして、
地元の商工会によって作られた施設だそうです。

彼は商工会の人なのかと思ったら、驚いたことになんと、
東京電力の社員だと言うのです。
「なぜ、東電の社員の方がここで働いているのですか?」と訊ねると、
施設が出来た時から、ここでは東電の広報活動もしていたのだそうです。
それで今年の4月にここが再開された時から、彼が出向して勤めているそうです。

彼は、被災前の施設についても実に淀みなく説明してくれました。
「ここが出来たのは震災の一年前ですが、
小高区は地盤が緩いので、土台をしっかりと補強して建てました。
殆どの家が崩れたり地震の被害を受けているのに、
ここは何一つ壊れることなく、無傷で残りました」と言い、
壁に掛かっている白版を指差しました。
「あれは2011年3月の行事予定が書き込まれていた白版です。
掛けてある場所も、書かれている内容も、あの時のまま残してあります」
見ると10日までの日付には×印がついていて、
それは既に終えた行事であることが判ります。
「小高の商店の人たちが安心して子育てが出来るように、
また買い物に来た人がここに子どもを預けて用足しが出来るように、
児童館としても機能していました」と彼が言う通り、
建物の奥は畳敷きの部屋で「まちなか児童館」の表示があり、
書棚には児童向けの図書がたくさん置かれていました。

立て板に水のように説明してくれる人に、
「原発事故で小高の人はここに住めなくなっているのですが、
そのことで苦情を言われませんか?」と聞くと、彼は答えました。
「小高の人は優しい人が多いですから、
4月から今までの9ヶ月間で、苦情を言われたのは一度だけです。
その方も住まいは埼玉なのですが実家は小高で、両親が埼玉に避難して、
それで文句を言いにこられたのです」千葉県出身で家族はそこに置いて
単身赴任できていると言う彼に、この地に赴任することに不安はなかったかと、
訊ねると「私はずぼらな性格なので、
不安感はなかったです」との答でした。

「ご家族は、どうだったのでしょう?」と聞くと
「5月の連休の時に一度家族を呼んで、現地の様子を見せました。
22歳になる娘は、津波で壊れた家の跡を見て胸を傷めたようでしたが、
幸いこの施設は無傷できれいですし、
私ががここで働くことに対して家族の不安はありませんでした」
さらに彼は言いました。
「本社の社員たちも何度かこちらにきて、
住民の方達の家のお掃除などをさせていただいています。
住民の方からは感謝されています」
「燃料棒も取り出せましたし汚染水の漏れも止まっていますから、
まだまだ課題はたくさんありますが、
これからもみなさんのご理解を頂いてやっていこうと思います」

この人をいじめても仕方がないので、
私たちも極々丁寧に詰問調ではなく質問しましたが、
それに対して非常に物腰柔らかに低姿勢で答えを返し、
“慇懃無礼”を地でいくような人でした。
前の日に、小高区から鹿島区の寺内塚合の仮設住で
避難生活を送っている人から聞いた「家はそのまんま残ってるけど、
帰っても30分も居られないよ」
の言葉が耳の奥で大きく響いていました。

長文になりましたが、ご容赦下さい。今回の南相馬行報告は、
もう一便、後ほどお送りいたします。        

いちえ

a:1249 t:1 y:2

2013.12.24

みなさま

24日午前中は、小高区から避難して、
原町区で仕事を再開した松本さん夫妻を訪ね、
市役所に寄って桜井市長に会いました。
それから伊達市の仮設住宅に長谷川健一さんを訪ね、
福島で椏久里に寄って帰路につきました。

松本オート松本進さんと優子さん夫婦は、
従業員は使わずに夫婦二人で、自動車修理と中古車販売の仕事をしています。
小高に居た時には優子さんの母親の正枝さん、
信用金庫に勤めていた娘と小高工業高校2年生だった息子との5人暮しでした。

被災直後は川俣町に避難し、3月15日に進さんの友人の勧めで千葉県に避難し、
借家暮しとなりました。
息子は、借家から通える範囲にあった春日部工業高校に編入して卒業し、
現在は千葉の工業大学に在学して大学の寮に入っています。
娘は大熊町の支店勤めでしたから失職かと案じていたのですが、
5月に勤め先から連絡があり原町支店勤務となったため、
原町区に戻りアパートを借りて一人暮らしを始めました。
正枝さんは8月に鹿島区の仮設住宅に入居しましたが
、優子さん夫婦は千葉で息子の高校卒業と大学に入学して
寮生活となるまでを見届けてから、
昨年4月に正枝さんのいる仮設住宅に入居しました。
そして7月に現在営業している原町区に場所を見つけて、仕事を再開したのです。

仕事を再開してからのことも聞かせてもらった後で、
前日に訪ねた小高区浮舟ふれあい館の東電社員の言った
「小高の人は優しいから苦情は一件だけだった」
「住民の自宅の掃除などをして感謝されている」を伝えると、
優子さんはしばし絶句して、それから言いました。
「大熊や双葉に行くと小さい町なのにすごく立派な役場や公共の施設があって、
原発って儲かるんだなと思った。
原発が出来てから小高も新しい店ができたり客が増えたりして、
少しはいいこともあったかもしれないけど…。
小高と浪江にも原発の話はあったんですよ。
でも、出来なくてよかったね。
原発事故の後で私たちは賠償金を貰ってここで仕事を再開できたけど、
そうしたら所得税がかかってるんですよ。
国税庁と東電はグルになってるんじゃないかって思う。
作物なんかが風評被害を言われるけれど、
前には福島や東北だけでなく関東からも中古車の購入がずいぶんあったのに、
今はどんなにきれいに整備しても福島と言うだけで、
以前のようには売れなくなってしまった」

南相馬市役所で市役所に寄って広報などを貰って帰るつもりでした。
そこでバッタリと市会議員の田中京子さんに会い、
京子さんが市長に連絡を入れてくれて、市長室を訪ねました。
桜井市長に会うのはいつもは大留さんの所だったので、
市長室を訪ねるのは初めてでした。
いつも忙しくしている市長ですが、
来年1月の市長選を控えてとりわけ忙しい時期でしょうに
たまたまこの時には予定が何も入っていなかったのだそうです。
前の日が相馬市の市長選挙の日でした。

それ以前の福島県の首長選挙では現職がすべて破れていたのですが、
相馬市では200票という僅差で辛うじて現職が当選しました。
来月行われる南相馬市市長選挙では、
「脱原発をめざす首長会議」の世話人である桜井さんには、
是非とも当選して欲しいと願っています。
今回も見てきた瓦礫の仕分けや防潮林建設など、
続けて取り組んで欲しいと思いますし、
南相馬への大学誘致計画も、実現して欲しいことです。
これは他の都道府県に現存する大学と提携して、
そこの学生が南相馬にきて研究活動することで
単位取得できるようにするという構想です。
例えば地域住民の健康や生活状況などを実態調査してきちんと記録し、
それに関しての考察をしていくなど、
机上では学べない活きた学問になるのではないでしょうか。
原発事故後も市役所を離れず夜もそこに泊まり込んで、
住民避難の指揮を執ってきた桜井市長です。

長谷川健一さん今月8日に催したトークの会
「福島の声を聞こう!vol.8」では、
長谷川さんにおいで頂き
『飯舘村 わたしの記録』上映とお話をしていただきました。
長谷川さんは原発事故後からずっと、
映像や放射線量など、記録をとり続けています。
飯舘村前田地区の区長として村民の暮しや今後に向けてに心砕いての活動と、
自身で集めた記録を基に国内外で講演活動を続けています。
全国各地に呼ばれて既に220回もの講演をしてきましたが、
「今年は、一枝さんとこでやったあれが最後の講演だった。
呼ばれることも、だんだん減ってるな」と言います。
けれども、飯舘村の状況、村民の健康状況など長谷川さんの記録は常に更新されて、
お話を聞く度に問題点を新たに示されます。
多くの人に、長谷川さんの話を聞いて欲しいと思います。
狭い仮設住宅に置かれた書架には、
原発関係の本がびっしりと並んでいました。
来年5月に、飯舘村の各地区区長たちとチェルノブイリに行く計画を立てています。
「観光なんかしないで良いんだ。現地が今どんなになってるのか、
人々の健康状況はどんなか、政府や行政はどんな対応なのか、
そんなことを実際に行って見てきたいんだ」
長谷川さん自身も体調は万全ではないようです。
放射能の影響か断定はできないものの、
かなりその影響は疑わしいものと思われます。
「これ、来年の年賀状」と言ってパソコン上に起こしてみせてくれたのは、
飯舘村の写真に文字が添えられたものでした。
青空の下に黒いフレコンバックが積み上げられてる写真に、
白抜きの文字で「これが現状です」と書かれていました。

今回も長文になりました。重ねてご容赦を。
次号で追記を、もう一文送らせていただきます。 

いちえ

2013.12.24追記

みなさま

今冬は寒さが厳しいと予報されていますが、
被災地は3度目の冬を迎えました。
現地では復興住宅の建設も始まっていますが、
仮設住宅での暮しはまだまだ続きます。

また、防災集団移転事業も進められてきていますが、
こちらもまだ先は長いです。
南相馬市広報に載っていた市民の意向調査で
「避難指示解除後の帰還意向」の項を見ると、下記のようになっています。
(旧警戒区域、旧計画的避難区域に住所のある人で避難先の世帯ごとにその代表者5.677人を対象に調査。有効回収は3.543通で62.4%)
★世帯の代表者解答             ★全世帯員回答
・現時点で戻ることを決めている:29.3%   ・現時点で戻ることを決めている:24.1%
・現時点でまだ判断がつかない: 44.0%   ・現時点でまだ判断がつかない: 40.7%
・現時点で戻らないと決めている:26.1%   ・現時点で戻らないと決めている:31.2%
・無回答:           0.6%    ・無回答:            4.0%

寺内の復興住宅建設の様子を写真貼付します。
別の写真はアグリパーク外形とドームハウスの内部です。
赤い自動車が電気自動車。

いちえ

復興住宅建設の様子

ドームハウス内部

アグリパーク

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