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2013年4月の一枝通信

2013年4月の一枝通信

2013.4.7

みなさま

南相馬に来ています。
昨夜の大荒れの天候に、今日は新幹線が時刻通りに運行されるか
心配しながら寝ましたが、朝起きると東京は晴れて風もなく、安心しました。
7:44発やまびこ205号で福島へ向かいましたが、
宇都宮を過ぎた頃から雨で那須塩原辺りではかなり風も吹いているようでした。

けれど新幹線は遅れもなく、
福島駅に到着。ホッとしました。
ただ在来線は白河と、どこかの駅(アナウンスを聞き漏らしました)
の間は不通になっているようでした。
福島駅から9:50のバスで原町駅前まで。
迎えに来てくれた六角支援隊の鈴木さんと荒川さん夫妻と共に、
4月1日に警戒区域解除になった浪江町に行きました。

昨年4月16日に警戒区域解除になった小高の畑地は、
去年の間に草は刈られていましたし、
倒壊した家々は解体され撤去されていました。
まだ所々に津波で運ばれた自動車が転がっていましたが、
畑地の瓦礫類は集められていたので、
今年1月に来た時よりは片付いているように見えました。
この間までは、小高区から浪江町に入るところには検問所があって警官が常駐し、
浪江町に立ち入る事はできませんでした。
波江の住民たちには滞在時間が限られて自宅への一時帰宅が許されましたが、
その許可証を提示しないと、検問所を通過する事はできませんでした。
今回浪江町に入ると、同じようにゲートがあるのですが、
そこに居るのは警官ではなく警備会社の社員でした。
「許可証をお持ちですか?」と問われ「無いです」と答えると、
「では車のナンバーを控えさせて頂きます」と、ナンバーを記録されました。
なんのためか判りませんが、そうでした。

畑地には、枯れ草が丈高く茂っていました。
雨脚がけっこう激しく降っていたので車に乗ったまま、
窓も開けずに線量計のスイッチを入れっぱなしで通りましたが、
0.18μシーベルト、0.26μシーベルト、その内にピーピー鳴り出し
0.3μシーベルトを超えました。
メインストリートに設置されたモニタリングポストは、
0.515μシーベルトを示し、そこは車内でも0.35μシーベルトありました。

倒壊したり傾いた家や商店が並び、道路は少し波打っていました。
地盤沈下してもいるようでした。
町役場に設置されたモニタリングポストでは、
0.138μシーベルトですが,
私が持っているものでの車内での測定値は0.24μシーベルト。

みんなで「変だよねぇ!」と顔を見合わせたのでした。
そこから少し先の西病院の辺りは0.74μシーベルトありました。
雨も降っているし,今日は他の用事もあるので
帰還困難区域に再編成された山の方へは行かずに、
さっき通ったゲートに戻り、請戸漁港の方へ向かいました。
途中の道路は二年前の被災時には、拡張工事の最中で、
今も工事の時のままに道具が置かれていました。
そして、その道路の両側に並ぶ家々は、
拡張工事のために後方に立ち退いて新築されたばかりの姿で、
主が不在のままの二年間が過ぎていたのでした。

海への道は空き地や畑地は、草茫茫。
雉が草の中を歩いていました。
人がいなくなって、雉や野生の動物たちは、
安心して姿を見せるようになっているのでしょうか。
請戸川の鮭の簗場があった辺りも、草茫茫。
放射線量は0.22μシーベルト。

ここには被災前に新しい橋がかかっていましたが、
この橋は地震でも津波でも壊れずに無事でしたが、
それより少し海よりにかかっていた古い橋は津波で流されて、
新しい橋をくぐり抜けて上流の方に残骸を晒していました。
請戸の海辺の家々はことごとく流されて土台しか残らず、
土台を見ればどの家々もとても広い屋敷だったようです。

荒川さんや鈴木さんによれば、
「船乗りの家は、みんな立派だった」と言います。
農家の家の広さ、立派さとはまた違った立派さだったのでしょうか。
被災前を知らない私は、その広さを思うばかりです。
そして何軒かの跡地には、花を供えた小さな祭壇が作られていました。
亡くなった方を弔うお花だったでしょう。
お彼岸も過ぎたばかりです。
船が、そこここに打ち上げられたままでありました。
漁港の堤防に立ってみると今日の海は波が高く荒れて、
怖いほどでした。
双葉町との境はゲートで塞がれ、入る事はできません。
その境の辺りでは外に出て計りましたが、0.15μシーベルトで、
町中よりも線量は下がっているのでした。

浪江町からの帰りに、小高の樹齢100年以上のしだれ桜を見て戻りました。
この桜は、昨年の4月16日小高区が警戒区域解除になった日に小高をまわっていて、
私が
見つけたのです。
道路から奥まって家の陰にあり、気をつけてみていなければ
素通りしてしまう場所です。
桜が咲くのを見つけて行ってみたら、お墓の中にある桜でした。

つい先日、鈴木さんが仮設住宅を訪ねた時にそこにいた小高区の大井さんに、
去年小高に東京から来た人(私の事)を連れて行った時に、
その人が立派な桜を見つけたと話すと、
なんとその大井さんが大事に手入れしている桜だったそうなのです。
桜の木の前に建つのが、大井さんの家だったのです。

大井さんは、息子たちに反対されて、
もうその家には戻らないと決めているらしいです。
小学生のいる息子は放射線量の高い小高にはもう住みたくないし、
両親を住まわせたくもないから、
家には絶対に手をつけるなと言っているそうです。
そして、安心して住めるところに、
これまでのように3世代で住もうと言っているそうです。
それで大井さんは家には戻らないと決めて、
家の手入れは一切しないけれど、桜の手入れには通っているそうです。
そして「東京から来た人」が自分が手入れして来た桜を見つけたことを聞いて、
とても喜んでいたという事でした。
そこに繫がって生きて来た土地、時間、
それらの一切が大井さんにとっては、
その桜に象徴されているのでしょうか。

その桜は、本当に見事な桜でした。
幹周りは大人が4人ではとても手が回らないほど太く、
色あでやかなしだれ桜でした。
鈴木さんが大井さんに聞いた話では、
その桜を植えた人の墓もまた、そこに在るそうです。
明治の始め頃、亡くなった人だそうです。

明日は、小池第三仮設住宅で縫いぐるみ作り講習会です。
みなさんからお送り頂いたたくさんの毛糸、
布、綿、籠などはありがたく使わせて頂きます。
ありがとうございました。         
いちえ

a:1836 t:1 y:0

2013.4.8その1

みなさま

小池第3仮設住宅での、縫いぐるみ作り講習会を済ませました。
朝9時からと伝えていたのですが、みなさんもっと前から集まっていて、
楽しみにして下さっていたそうです。
布はモンベルから戴いた大量のフリースの布を、
予めカットして1枚で一つ作れるようにしておきました。
綿はみなさんから支援して頂いた綿が、総量で18㎏はあったでしょうか。
目にするボタンや、顔に使うフェルトなども用意しておきました。

見本を見せて説明すると、やはり「型紙はないのですか?」の声があがりましたが、
「型紙はありません。大丈夫。型紙が無い方が、うまく作れるのです」
見本の人形は、手の長〜いおサルさん、クマさん、ウサギさん。
好きな色の布を選んで、何を作るか決めます。
どれもまったく作り方は同じで、耳としっぽの形、
手の長さ、顔の表情を変えるだけ。
みんなお喋りしながら、とっても楽しそう。わいわいがやがや。

大方の人がボディが出来上がった頃がちょうど十二時で、
まだまだみんな続けていたそうでしたが、いったん休憩にしました。
それぞれ自分の家に戻ってお昼を食べて来て、
午後また続きを仕上げましょうと言うと、「午後は何時からですか?」と。

1時からにしたのですが、ほとんどのみなさんがそれより早く戻ってきました。
もう「続きを作りたくて」「早く仕上げたくて」という感じです。
手の早い人はどんどん先に進んでいくし、
手の遅い人もいて、私はあっちへ行ったりこっちへ行ったりでしたが、
手の早い人には遅い人に教えてあげてと頼んで、進めました。

みんなが完成したのが3時少し前でした。
ああ、写真をお見せしたいのに!!
以前に写真を取り込んで貼付するやり方を教えてもらったのに、
そして今回はそうするつもりで張り切っていたのに、
写真は撮ったのに添付ができません。
また改めて学び直し、後日写真をお送りします。

出来上がった後のエピソードをお伝えしたいのです。
私が「今日生まれたあなたの子どもに、名前をつけて下さいね。
サル、とかクマ、ウサギなんて呼ばないで、
名前をつけてあげて下さい」と言うとすぐに
「マユミにします」と言ったのは大野さんのおばあちゃんでした。
「マユミちゃん、いい名前ね」と私が言うと
「娘の名前。娘は死んだから…」と。
娘さんを津波で亡くしていたのでした。

大野さんは続けます。
「私はね、娘が6ヶ月の時に人形一つ買ってやって、
それしか人形はやらなかったの。毎日大事に遊んで、
真っ黒になってしまっても大事にしてて。
だから今度はこの人形をあげるんだ」と。
大野さんが作ったのはウサギさん。

ターコイズブルーのフリースのボディ、
耳は外側は同色ですが内側は黄緑色。
片方の耳は立って、もう片方は垂れています。
真っ赤なクリクリとした目に、黒くて丸い鼻。
かわいらしいウサギさんでした。

白いフェルトに「マユミ」と書かれた名札を胸に付けていました。
4月8日、今日は小学校の入学式。
大野さんのマユミちゃんは小学校の一年生みたいでした
もう80歳過ぎた大野さんのおばあちゃんですから、
亡くなった娘さんもそれなりの年だったでしょう。
でも、子どもだった頃の娘さんは今も、
大野さんの心に生きているのでしょう。

みなさんもっと作りたいと、布や綿、ボタンなどを、
二つ分も三つ分も、持って帰られました。
同じ布で同じに作っても、作り手によって本当に雰囲気が異なるのです。
みなさんはそれも楽しかったようでした。

互いに比べ合って「かわいいね」「かわいいね」と
言い合っていました。
目をつけるのに便利な長い針(15㎝ほどもある針)も
3本集会所において来ましたから、みなさんきっとまた、
集会所に集まってお喋りしながら、
今度は今日とは違う縫いぐるみを作られる事でしょう。

今日のための支援品やカンパのご協力を、本当にありがとうございました。

いちえ

a:1836 t:1 y:0

2013.4.8その2

みなさま

縫いぐるみ作りの、休憩時間の話です。
お昼を自宅に戻って食べた人もいたのですが、
数人は会場に残ってお弁当やパンを食べた人もいました。
野菜やお弁当、お惣菜、パンなどを軽トラックに積んで、
新地から毎週売りにくる若い夫婦がいるのです。
ちょうど今日が彼らが来た日で、
しかも彼らは、集会場のすぐ前に駐車するのです。
有機栽培の野菜や、天然酵母パンや、
品も代金も良心的でその夫婦がまた、
とっても感じがいい二人なのです。
私も何度か彼らにここで会っているのですが。
それで、ちょうどタイミングがよく彼らが来たので、
自宅に戻らずそこで買ったお弁当やパンを
お昼にした人も居たのでした。

お昼を食べながらのみんなのお喋りを聞いていながら、
こんな事を思っていました。
新しい年が明けた時に私は、
「3年目を迎える今年は、問題が深刻化して自死する人も増えるのではないか?」
「関連死といわれるような人も増えるのではないか」と案じました。
今日のような催しに出てこない人が、一層案じられます。

震災の年は誰もが、「食べるものをどうするか」
「着るものをどうするか」「明日をどうやって過ごせるのか」
そんなことが身に迫っていて毎日を必死で過ごしていたのです。

去年は、「いつまで仮設にいるのだろう」
「自宅に戻れるのだろうか」
「元のように家族揃って暮らせるようになるのだろうか」が、
いつもいつも心を苛ませていました。

今は、「元の暮しに戻りたい!でも、もう元の暮しには戻れないだろう。
だけど、元の暮しに戻りたい!」
と揺れ動き、そして少しずつ状況が変わって来ている人たちもいます。
息子たち家族と暮らす家を新たに建てて、
仮設を出てそこに移った人も出て来ています。

そうした様子を見ると、仮設に残っている人は動揺もします。
放射能を考えると子どもたち家族は、
避難先で新たに暮らし始めてここには戻らず、
すると老夫婦だけの暮ししかないということになります。
けれどもまた、津波で流された場所ではなく町場に、
家族がみんなで一緒に暮らせるようにと息子夫婦が家を建てても、
そこに移ったら近所に知ってる人が誰もいなくなるから淋しい。
仮設で一緒に居た人たちと、
離れたくないから仮設にいられる限りここに居たい。
(以前住んでいた同じ地域の人たちが仮設にいると、
被災前のコミュニティがここでも繫がっているのです。
そういう人もいます。
でも、いずれは出なければなりません。

時間が経つと共に抱える問題は多様化もしているし、
深刻化もしています。
これからの支援を、どうしていくのかが大きな問題になって来ています。

誰かが、つぶやくように言っていた言葉が、耳から離れません。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろう。一生懸命やってきたのに…」

いちえ

a:1836 t:1 y:0

2013.4.9

みなさま

昨日は朝のうちに萱浜の上野敬幸さんの家に行きました。
上野さんの事は以前の通信でお伝えしましたし
『たぁくらたぁ』28号にも書きましたが、
両親と長女の永吏可(えりか)ちゃんと
長男の倖太郎(こうたろう)くんの4人が津波で流され
、お父さんと息子さんは、まだ見つかっていません。
震災の年の9月に次女の倖吏生(さりい)ちゃんが生まれました。
この日に行ったのは、前の日に私が作った手の長いおサルさんを、
倖吏生ちゃんに届けたかったからです。
倖吏生ちゃんは、そのおサルさんをおぶったり
抱いたり気に入ってくれたようでした。
前に会った時よりもずいぶん言葉が出て、
健やかに成長していました。

上野さんのお宅を失礼して、寺内塚合の仮設住宅に行きました。
ここは戸数が少ない仮設で、住んで居るのはほとんど小高区の人たちです。
集会所ではなく相談室という名目での、別棟があります。
その相談室に毎日、何人かのおばあちゃんたちが集まって手芸をしているのです。

メンバーはいつも決まった人たちで、
まるで「出勤」するみたいに朝ご飯が済むとここに来て手を動かしているのです。
おばあちゃんたちが作っているのは、紙で折った薬玉
(作り方が異なる何種かがあって、これがどれも実に素敵なのです)
や布で作る小さなフクロウです。

フクロウは何羽かが一本の枝に並んで止まっていたり、
大小混ぜた何羽かが籠の中に入っていたり、
またストラップで下げられるようになった1羽だったりです。
籠の中のフクロウたちには、
「家族は一つに暮らしたい」の願いが込められています。
以前ボランティアで来てくれた教会関係者のなかに
アメリカ大使館関係の人がいて、
折り紙の薬玉はアメリカ大使館からの注文で作ったりしています。
クリスマス、イースター、さまざまな行事があるたびに、
折り紙の色も指定しての注文が来るそうです。
おばあちゃんたちは作ったものを売って、
材料を買う資金にしています。
フクロウも、注文がいろいろなところからの注文があるようです。
今回私は、みなさんから寄せられた籠や、
支援金で購入したストラップ、毛糸などを届けてきました。

おばあちゃんたちに小高のしだれ桜を見てきた話をすると、
みなさん自分の地区の桜ですからご存知で、口々に言いました。
「いやぁ、あの桜は見事だよねぇ。見に行きたいなぁ!
オレ(おばあちゃんたちは自分の事をこう言います)の家はあのすぐ近くなんだ」
「原発事故がなきゃ家に居られたからな。毎日だって見れたのによぉ」
「んだなぁ。あんな見事な桜っちゃ、まんず滅多にないもんなぁ」
ここに毎日”出勤”している仲良しのおばあちゃんたちはみんな、
小高の山場の方に家があった人たちだったのです。
それで、いつも同じ人たちが集まっているわけが判りました。
家があっても帰れない人たちでした。

小高区でも海側の人たちは津波で家を流されてましたし、
町場は地盤が緩かったのでしょう、殆どの家屋は倒壊したり傾いたりです。
原発から20キロ圏内の小高区は全戸避難ですが、
家があった場所によって被害の様相が違います。
ここに集まるおばあちゃんたちは、
以前からよく知っているから今もこうして仲良くしているのでしょうが、
被害状況の違いが、人の仲を少し疎遠にもしているのかもしれません。
小高区の人が多いこの仮設ですが、他の人がここに加わる事はないようです。

塚合の仮設から、次に前日に縫いぐるみ講習会をした
小池第3仮設に行きました。
ここには忘れ物を取りにいったのです。
外から集会所を見ると、カーテン越しに中に何人かがいるのが見えました。
そっと窓の外から覗いてみると、なんと、
昨日のおばあちゃんたちが何人かいて、縫いぐるみを作っていたのです。
昨日来られなかった人もいて、昨日来た人たちが新しい人たちに教えながら、
また今日も作っていたのです。
「マユミ」ちゃんというウサギさんを作ったおばあちゃんは、
クマさんを作っていました。
みなさんが、こうして教え合って作っているのを見て、
とっても嬉しかったです!

昼食後、六角支援隊の大留さん、
小林さんと田植えについての相談をしてから帰宅しました。
5月5日、小池長沼仮設住宅脇の5反1畝の田圃で田植えをします。
南相馬市は今年も作付けをしない方針ですが、
試験田として六角支援隊で取り組むのです。
前段階の準備や作業は、既に小林さんが進めています。         
来月、この様子はまた「一枝通信」でお伝えします。             

いちえ

a:1836 t:1 y:0

2013.4.17

みなさま

今日は『中国「残留」孤児配偶者問題』に関する院内集会に参加しました。
中国「残留」孤児に対しては国家賠償訴訟を経て政治的解決が図られ、
2008年4月から新支援制度が施行されました。
この件に関しては署名等で、みなさまからもたくさんのご協力を戴きました。
私も何度も裁判傍聴に参加し、新支援法が成立した時には本当に嬉しかったです。
2週間ほど前に、この裁判の弁護団の一人であった方から封書が届きました。
こう書かれていました。

「……孤児も高齢にさしかかり、
孤児が他界して配偶者が一人日本社会に取り残される自体も発生してきております.
この場合、支援策の適用があるとはいえ、
孤児本人に支給されていた国民年金がまったくなくなるため、
生活水準が大幅に落ち込むケースが少なくありません。……」

新支援法によって、孤児たちには生活保護と同額の支援給付金の他、
国民年金の満額6万6千円が支給されるようになりました。
けれども「孤児」が亡くなると、支援給付金のみになります。
うかつにも私は、新支援法が成立した事で、
残留孤児問題は一応の解決を得たと思い込んでいました。

この封書を読むまで、配偶者の問題に思いが至っていませんでした。
生活保護と支援給付金の違いは預金が持てる事ですが、
預金を持てる人は少ないでしょうし、持ててもわずかでしょう。
そもそも「孤児」たちは残留したのではありません。
「遺棄」されたのです。
かつて私は、“満洲”に何度も通い、
各地で残留邦人に会ってきました。
また、帰国した「残留孤児」にも会って、
話を聞いてきました。
祖国に”捨てられた”彼らを救ったのは、
中国の養父母たちでした。
成人した彼らと生活を共にしたのは,彼らの配偶者たちでした。
侵略国だった日本人と結婚した配偶者は、中国では酷い差別を受け、
孤児の帰国と共に日本に来てからは、
今度は言葉や文化の壁による差別を受け、大変な苦労を重ねて来ています。

集会では、全国から集まった「孤児」が発言しましたが、
鹿児島から来たウリヅカさん
(漢字が判らないのでカタカナ表記します)の言葉は、
深く胸に響きました。
「国策について話します。戦中戦後の国策は植民地政策だった。
戦後平和民主主義国家になったが、民主主義なら平等
・公平な政策を採るべきだが、
外国人に対しても同国人に対しても公平さに欠ける政策を採っている。
同じ家族に対して差別的な政策を採っている。
中国では同じ家族に対しての差別にあったことはない。
民主主義国家に、正義と公平を求めたい。
残留孤児の配偶者に対しての支援を求めたい」

山形から来た佐藤さんの言葉もまた、痛く胸に響きました。
「中国に居た時には『日本人』と差別され、
帰国したら『中国人』と呼ばれて差別を受けた。
言葉の壁で苦労をしてきたが2008年の新支援法の成立で、
生活は少し改善してきた事に、
山形在住の70名の孤児を代表して感謝します。

けれども孤児たちの高齢化、病気、死亡等で配偶者の心労は絶えない。
かれらは中国では日本人の配偶者として差別され、
日本人である孤児と苦楽を共にしてきた存在だ。
自分が死んだら配偶者の生活はどうなるのか、
孤児たちにとって配偶者支援への思いは切実だ。
私たちは養父母が育ててくれた恩は、忘れない。

日本にもあると思うが、
中国のことわざに『水を飲む時には、
井戸を掘った人を忘れるな』という言葉がある。
私はこの言葉を忘れない」

他にも何人かが発言をし、また何人かの国会議員も激励と、
配偶者支援法の成立のために努力する事を誓っていきました。

配偶者の生活支援を求める請願書名を集めています。
用紙を添付しますので、プリンターがある方は
どうぞ印字して署名をお願いいたします。
またプリンターがない方は署名用紙をお送りします。
署名にご協力下さい。

今日は300名近くの「残留孤児」が集まりました。
彼らの姿を見た時、私の頭の中にはサァーッと、
“満洲”でのさまざまな体験がよぎりました。
土壁の家のオンドルの上で、
日本語のまったく話せない"日本人”と
手を取り合って泣いた事。
写真を撮らせてと言ってカメラを向けたら、
それで骨も写るのかと訊ねられた事。
彼はレントゲンを撮られた事はあったのですが、
カメラを見たのは初めてだったのです。

もう既に戦後も40年も経っていたのに。
それほど大陸の田舎で、彼は育ってきたのでした。
“満洲”に通い、残留孤児に会う度に私は、
「私が彼らだった」と思ったのでした。
「彼らだったかもしれない」ではなく、
まさに「彼らだった」と思ったのでした。
今日また久しぶりに彼らにあって
私は私を見たように思いました。

みなさま、どうぞ署名にご協力をお願いいたします。

★下記のダウンロードボタンをクリックして署名用紙を印刷してください。
皆様、どうぞご協力をよろしくお願いします。

           

いちえ

a:1836 t:1 y:0

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