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2013年7月の一枝通信

2013年7月の一枝通信

2013.7.8その1

みなさま

☆フォーラム色川主催の講演会が7月6日、武蔵野公会堂でもたれました。

「チベットのこともチェチェンのことも福島のことも、わたしたちは何を知っているだろう
メディアが伝えない真実を語る」

上記のタイトルで、ジャーナリストの林克明さんと私が話しました。

この講演の依頼があったのは3月か4月のことだったと思いますが、
その時は私は、タイトルにあげられたチベット、チェチェン、福島の
3つの地に共通しているのは、そこで起きたこと、
当事者にとっての真実がきちんと伝えられていないということだと思っていました。

もちろん、だから講演会タイトルの後半の言葉があるわけですが。

そしてまた、チベットとチェチェンに共通しているのは、
大国に蹂躙される少数民族という点だとも思っていましたが、
またこれは観点を変えれば福島にも当てはまると思っていました。

林さんのお話を聞いて私は、上に記したような私の捉え方は
とても浅いものだったと気付かされました。

林 克明さんのお話から

●チェチェン共和国のあらまし

チェチェンは黒海とカスピ海に挟まれ、
カフカス山脈の北麓にある岩手県ほどの面積を持つ小国で、
北部は農業と原油生産の盛んな平野部で、南部はカフカス山脈につながる山地。

戦時には北部は外的に制圧されやすく、
南部は地理的特性から抵抗勢力の拠点となる。

独自の言語、文化を持ち、西隣のイングーシ共和国のイングーシ人と殆ど同じ言葉を話す。

ロシアやコーカサスの他の民族と違い、
チェチェンには貴族や奴隷といった階級的な社会構造はなく、
氏族の長老たちによって治められ、「平等」の基盤を持っていた。

●チェチェン戦争とは

チェチェンを含む北コーカサス地方は、
イワン雷帝が即位して以来400年にもわたってロシアの侵略と支配を受け続けてきた。

それに対して帝政ロシア時代、ソビエト時代を通じて、
コーカサスの諸民族の中で、
植民地化に最も強く抵抗してきたのがチェチェンだった。

第二次大戦中には民族全体が強制的に移住させられ数十万人が命を落とした。

ソ連が崩壊した1991年にチェチェンはロシアからの独立を宣言し、
その後は事実上の独立状態にあったが、
1994年から再びロシアからの軍事侵攻を受けた。

チェチェンは自国を独立国家と規定しているのでロシアの攻撃は、
外国領土への侵略だが、ロシアはチェチェンをロシア連邦の一地方と看做し、
チェチェンの抵抗を「テロ」と呼ぶ。

1991年の独立宣言以後、ロシアとの間で紛争は続いていたが、
1994年12月、エリツィン大統領は
「ロシア連邦の一部であるチェチェン共和国での憲法秩序を回復させ、
すべての非合法武装勢力の武装解除を行わなければならない」と演説して
チェチェンへの武力介入を命じたことから第一次チェチェン戦争が始まった。

すぐにゲリラ部隊を中心としてチェチェン軍の抵抗が始まったが、
1996年4月、チェチェンのドゥダーエフ大統領が爆殺された。

そして、ロシア国内の厭戦気分の高まりもあり、
和平交渉が行われ停戦が成立した。

1年8ヶ月にわたる戦争でチェチェンの国土とインフラは大きな打撃を受け、
首都グローズヌイは壊滅的に破壊され瓦礫の町となった。

1999年に始まった第二次チェチェン戦争は、
第一次戦争出事実上の敗北を喫した大国ロシアの”復讐”戦争とも言える。

第二次戦争は更に苛烈となり期間も長く、
第一次戦争と同様にチェチェン各地で掃討作戦が続けられ、
これによりブラジーミル・プーチンは
ロシアの権力者として盤石の態勢を築きました。

2009年に独立派のマスハードフ大統領がロシア軍に殺され、
ロシアは「対テロ作戦」の終了を宣言、
現在はロシアの傀儡であるカジーロフ政権が共和国内の権力を握っている。

●林さんは1995年からモスクワに住み、その年の3月、
モスクワからチェチェンを目指したロシア人兵士の母親たちと
チェチェン女性たちによるモスクワから
グローズヌイまでの平和行進に参加しました。

当時のチェチェンではロシア軍による大規模な虐殺が起き、
あたりは瓦礫の山、交通機関も電車も水道も全面的にストップしていました。

人々は逃げ惑い、不明の家族や親戚・友人たちを捜して大混乱の状態でした。

ロシア軍は住民たちを拉致し、強制収容所に送り込んだりもしていました。
そのような状況下のチェチェンにロシアの母親たちは押し寄せ、
行方不明の息子を探したそうです。

ロシア当局は、兵士の家族に何の情報も与えていなかったからです。

チェチェンの人々は、大挙して押し寄せたロシア兵の母親たちに食糧や宿を提供し、
車を提供するなど協力を惜しまず、精神的にも支えていたそうです。

いま、目前で自分たちの町や村を破壊し、
家族や友人を殺し拷問しているロシア兵の、
母親たちを助けていたそうです。

その姿に林さんは魂を揺さぶられ、
チェチェンには人類にとって大切な「何か」があるに違いないと確信し、
以来何度もチェチェンを訪ねています。

●ウェズデンゲル

何度も訪ねる中で、林さんはようやく、その「何か」を見つけます。

それがチェチェンの人々に語り継がれてきた「ウェズデンゲル」です。

ウェズデンゲルは、チェチェンにイスラム教が普及する前から存在していた、
いわばチェチェン精神の源です。

民族の精神を伝える根幹であるにもかかわらず、
独自の文字がないために口伝えで受け継がれた来たものです。

高潔、忍耐、寛容、勇敢、慈悲、仲裁、自由などの概念を
具体的なエピソードで口述してきたもので、
コーランや聖書のような聖典ではありません。
ウェズデンゲルで最も大切なことは、自由〈マルショー〉です。

それは、「自分の意思で自分に課した道徳に即して自分を保つこと」なのです。

チェチェン社会は身分制度がない平等な社会で、
ロシア化されるまでは金銭や権力よりも、精神性が重んじられてきました。

有力者が豊かになっても衣服や食べ物は質素で、
一定以上の財産を得たら他者に分け与えていました。
それをしなければ村から追放され、社会的に抹殺されたのです。

自由(私欲追求の自由)を厳しく制限することによって、
自由と平等を確保し、各村は自治を行っていました。

大きな問題が起きる場合は、
長老(選出された人物)で構成された全国会議が議論し、
決定していました。

全国会議と集落の、連絡と調整をはかる役職も存在していました。

義務についても言及され、人間が引き受ける義務とは、
自分自身→家族→氏族→村→民族→国に対してです。

あくまでも自分自身が出発点で、最後に国があります。
決して逆になることはありません。
これが、ロシア帝国に併合される前のチェチェンでした。
チェチェン魂の抹殺に抗して、チェチェン戦争は起きたのです。
彼らにとって最大の美徳は、「自由」です。

●林さんは言います。

3・11後大変な状況になっているにもかかわらず
政府は原発事故の「収束」を言い、更に原発輸出まで言い出している。

明治維新以降日本は近代化の歴史を歩んできたが、
日本を今より良くするためには、
以前から脈々と続いてきたものがとても大切ではないか。

日本には、主権在民、基本的人権の尊重、
非戦を柱にしたすぐれた憲法がある。
その憲法の理念を中心に国を導こうとすることは正しいが、
それだけでは無理があるのではないだろうか。

仏教、儒教や、それらが伝来する以前からの古神道、
また文化、慣習、生活様式などもとても重要で、
それらの、長い間受け継がれてきた独自のものがないと
軍国主義やファシズムに対向できないのではないだろうか。

伝統を重んじれば、それを悪用する右翼や権力者が現れるが、
伝統を無視しては画上の餅でしかないだろうし
限界や無理があるのではないだろうか。

●林さんの言葉は、私の中で明文化できずにいた思いを言い当ててくれたように思えました。

私は3・11後福島に通っていますが、
原発事故の被災者の感情と政府の対応との、
あまりにも大きな乖離は、補償問題や情報の隠蔽問題などなど、
新聞紙上や市民運動の中などで問題にされていることばかりではないと思えていたのです。

例えば津波で流された家族を探せないまま、
原発事故後に避難せざるを得なかった人たちの思いは、
憲法でうたう基本的人権の解釈だけでは説明が出来ないのではないでしょうか。

チェチェンのことを知る上でも、また林さんの視点を伺えた上でも、
私にとっては大きな収穫のあった講演会でした。

私は久しぶりにチベットのことを話しましたが、
参加者の方達にチベットの今をお伝えできたことも嬉しいことでした。 

●林さんのご著書を紹介いたします。

『カフカスの小さな国 チェチェン独立運動始末』小学館

『チェチェン 屈せざる人々』岩波書店

『チェチェンで何が起こっているのか』(共著)高文研

『チェチェン民族学序説』(特別寄稿)高文研

『文筆生活の現場』(共著)中公新書ラクレ

『安ければそれでいいのか』(共著)コモンズ

長文になりました。どうぞご容赦を。               

いちえ

2013.7.8その2

みなさま

昨日7日は、「ごぼう支援協議会」主催の
『被ばく労働者の要求とは何か』に、
参加してきました。

前日6日には「除染事業と除染労働の実態を問う7・6集会」が持たれ
(主催:被ばく労働を考えるネットワーク)、
東京新聞に当日の記事が載りましたから、読まれた方もおいでかと思います。

昨日の会は、それに続いての会でした。

仮名を”ごぼう”さんと呼ぶ元福島第一原発収束作業員の方が、
直接の雇用関係のある下請け会社と、
業務指示を出していた元請け会社に対して
労働条件に関して争議を起こしていることを知ったのは、この冬のことでした。

そして“ごぼう”さん支援のための、ささやかな協力をしてきました。

「ごぼう支援協議会」からは、その都度ニュースが送られてきていましたが、
先日送られてきたニュースに「ごぼう争議案件 解決」の報告があり、
その報告会がこの日『被ばく労働者の要求とは何か 収束というウソをつくな! 
使い捨てをやめろ! 無駄な被ばくをさせるな!』として開かれたのです。

ごぼうさんの案件は解決されましたが、
この「解決」で収束作業や除染作業を含む「被ばく労働問題」が
解決したわけではありません。

けれども一作業員の取り組みから始まった労働問題の解決は、
わずかではあっても次への確実な一歩であるでしょう。

原発労働は重層的な下請け構造にささえられていることは、
知られるようになりましたが、政府が「収束」を宣言したことによって、
現在も、また将来にもわたって、
作業員の労働・健康問題に深刻な影響を与えています。

しかしまだそれらは明確に言語化されずにいます。

ごぼう案件から見えてきた3つのスローガン
『収束というウソをつくな!使い捨てはやめろ!無駄な被ばくをさせるな!」
の言葉を軸に、被ばく労働者の社会への要求を明文化していこうとのことから
開かれたこの日の会でした。

会は、まず最初にごぼうさんから争議案件が解決した報告があり、
続いてすぐにゲストが紹介されました。

柏崎刈羽原発元作業員の弓場清孝さん、
ジャーナリストで原発作業員として働いた経験のある桐島瞬さん、
イチエフ作業員、除染作業員の北島教行さん、
ごぼうさん(元福島第一原発収束作業員)の4人です。

樋口健二さんの本や、昨年出版された布施祐仁さんの
『ルポ イチエフ 福島第一原発レベル7の現場』などによって、
被ばく労働者のことを少しは知った気になっていた私です。

でも、文章で読むのと当事者の話すのを聞くのとでは、
大きく理解の深度が違いました。

◎ゲストの4人の被ばく労働者による発言から

●被ばく労働は、構造的にもまた実際の現場でも、
個々人が完全に分断されている。

●全面フルマスクと防護服、手袋、長靴を装備しての作業で、
マスクを付けると自分の声はくぐもって他の人にはっきりとは聞こえなくなり、
また耳も覆われているので、他の人の声も非常に聞きづらく、
作業中に会話は成り立たない。

●マスクを付けると心臓の鼓動は非常に早くなり、
アドレナリンが上がり、例えれば戦場に行くような気分となる。
感情や肉体を大きく消費する労働だ。

●フルフェイスマスクを装着していると夏などはもの凄く汗をかき、
15分もするとマスクの下部に滴り落ちてたまった汗が5センチほどにもなって、
口まで上がってくるので、そのままだと溺れてしまうような状態だ。
だからマスクの下を少し開けて、たまった汗をこぼすが、
その間に内部被ばくを受けてしまうことになる。

●メガネをかけていると、メガネのつるの耳にかかる部分から
線量の高い空気が入りこむため、
常にそこから内部被ばくをしている状態になる。
正社員にはそれを防ぐためのパッドが支給されているが、
下請け作業員には支給されない。

●原子炉等規制法に基づく区域区分は、下記のようにされています。

①管理区域(線量:1.3 mSv/3月。

空気中の濃度:核種毎に定める濃度限度の1/10

物の表面汚染密度:α線を放出する場合:0.4Bq/cm2

α線を放出しない場合:4Bq/cm2

②保全区域 管理区域以外で管理を必要とされる場所

③周辺監視区域 管理区域周辺で、1mSv/年を超えない

●管理区域は、「管理しているから安全だ」とされ、
保全、周辺監視の両区域は、管理区域ではないから危険はなく安全だとされている。
大きな矛盾!

●小さな事故は隠されるから、それが大きな事故につながっていく。

●怪我をしたり体調を崩しても、それが表に出ると
「明日からは、もう来なくていい」と言われて仕事を失うし、
また自分が所属する下請けに仕事が回ってこなくなることもあり、
そうすると仲間に迷惑をかけることになるから、
怪我や病気は自分から隠してしまう。

●収束していないにもかかわらず、民主党の野田首相は収束を宣言し、
原発を推進してきた自民党の安倍首相は、
再稼働ばかりか輸出までしようとしている。
民主党も自民党も絶対に許せないが、
選挙権を持たない人々が原発労働を支えてきた実態がある。

●原発に関わる仕事につく時には「安全教育」がされて試験があり、
そのテストに合格しないと仕事につけないが、
その実態は、解答が記されていたり教えられて設問に答えるというものだ。

●安全教育をしっかりしたら、作業員は1割も残らないだろう。
理由は、下請け労働者の殆どは文字が読めない、
数式や記号がたくさん出てくるが、それらを理解できない。
そうした人たちが使われている。

●放射線に関する教育は、行われてはいない。

●原発関係で働くにはいろいろな資格が必要なのだが、
自分は何の資格もなかったが、会社が有資格の証明書を作ってくれた。

●同じ下請け会社の労働者にもまた序列があって、
自分は4次下請け会社で危険手当を含めて9000円の日当だった。
更に安い日当の人もいて,彼らは会社から「ドル箱」と呼ばれていた。
会社がピンハネできる金額が多いからだ。

●自分の日当は一律支給の危険手当が10000円と
福島県の最低賃金である580円×8時間で14640円だった。
だが、通勤時間も勤務時間と考えると一日13時間労働と言える。

午前4時間の間に現場にいる実質時間は、
最初の2時間に15分で、あとの2時間にも15分。
午後も同様だが、単純に労働時間と賃金を見ると
「いい職場」と思われるが、
実態はいのちを削り取られる労働だ。

●いわき相場というのがあり、
危険手当を含めて13000円の固定給で、
福島県内からの労働者にはそのまま支払われるが県外からの場合は、
そこから寮費、食費を引かれて低い賃金になる。
そうした県外からの労働者は「外人部隊」と呼ばれる。

まだまだたくさんのことを聞きましたが、
どれもが「ここまで酷いのか」と思うようなことばかりでした。

「廃炉」は政治的な言葉としての「廃炉」と
実際のそれとの間には大きな隔たりがあります。
そこが更地となって、まったく安全な地になった時を真の廃炉とするなら
、何十万年もの時間がかかるでしょう。

前日に開かれた「除染事業と除染労働の実態を問う7・6集会」では、
除染特別地域の国直轄除染事業の中で明らかになってきたこととして、
労働者はピンハネと劣悪な労働条件で使い捨てられ、
除染で潤うのはゼネコンと業界ばかりということでした。

それらが、この日にもまた、明らかにされました。

真っ先にすべきは、すべての原発の停止作業です。

廃炉に向けての収束作業、除染作業は、
それらの事業はゼネコン任せにせず、
国が責任を持つべきでしょうし、それに関わる労働者は公務員、
準公務員とすべきであろうと、
ゲストや主催者、また参加者からの意見でした。

私は毎週金曜日に、仲間たちと共に「キンカンデモ」に参加して、

国会正門前で「再稼働反対」「廃炉」のシュプレヒコールに唱和していますが、
「ハイロ」「ハイロ」と叫びながら、
釈然としないモヤモヤが胸にありました。

廃炉作業は誰がするのか、労働者の労働条件を考えての
「ハイロ」の声なのかというのが、モヤモヤの正体だったのですが、
この日の集会に参加して、
「被ばく労働を考えるネットワーク」に加わろうと思いました。

また、長文になりました。重ねてご容赦を。 

いちえ

2013.7.14その1

みなさま

昨日から南相馬に来ています。

5月に試験田の田植えにボランティアで参加して下さった、
八王子や国分寺の方たちもまた昨夜南相馬入りをしました。

彼らは市民放射線測定室や、有機農法生産者と消費者を繋ぐ活動や、
二本松や郡山、川俣町の子どもたちの
保養プログラムにも取り組んできた人たちです。

試験田の田植えに参加するにあたっては、
「南相馬 田んぼ測定!プロジェクト」を組んで、
やって来てくれたのでした。

そして今日午前中は、彼らと一緒に試験田のお世話をして下さった
鹿島区の農家の小林さんのお宅を訪ねました。

小林さんは、試験田に水を引いたり、ゼオライトやカリ肥料を蒔き、
代掻きなど田植えの準備をすべてして下さった方です。

「南相馬 田んぼ測定!プロジェクト」のみなさんから、
試験田の線量測定結果を伝えるために訪問したのでした。

彼らのプロジェクトは、安全なお米が出来るまでの放射線測定や、
交換性カリや土壌鉱物の濃度についても科学的に測定し、
放射能低減対策のアドバイスにも取り組んでいこうと考えての活動です。

5月5日の田植え時に、取水口、田んぼや畔の際の土、畦道の土と
そこに生えていたスギナとヨメナ等を採取して
持ち帰り測定してくれたのでした。

測定値からは今すぐ稲作の可否が言えるものではなく、
収穫後の結果を見て考えましょうということでした。

取水口や田んぼの中、畔際よりも畦道の土の方が線量は高く、
それは田植えの前段階で側溝に水を流したり田んぼには
ゼオライトやカリを蒔いて代掻きをししたりして、
表土を鋤き返したりしていますが、
畦道はそこを歩いて踏み固めていただけなので、
そうした結果が出るのでしょうということです。

また、畦道に生えていたスギナやヨメナから検出された数値は、
この畦道よりも土中の数値がずっと低い地域で採取した
スギナやヨメナも同程度の数値のこともあるので、
上に記した「収穫後の結果を見て」というのは、
そうしたことからも言えるのでした。

また彼らの説明を聞いて、私にも頷けることが多々ありました。

現在はどんな食品も一律に1㎏で100ベクレルを基準値にしていますが、
例えば毎日食べる米と一年に数度しか食べない食品との基準値を
変える必要があるのではないか、
また、それと共に消費者も毎日の食生活を考える時に各食品の基準値を知って、
摂取する食品と量で、自分で自分の安全管理をしていくこと、
これはちょうどカロリー計算をするように考えれば出来るのではないか
との提言には、深く納得しました。

土壌の性質によっても
放射能低減対策は工夫の余地がまだまだあることなど、
農に疎い私も、役人が机上でいろいろ決めていることから起きている矛盾を、
彼らの説明から気付きました。

小林さんも、深く頷いていらっしゃいました。

「南相馬 田んぼ測定!プロジェクト」では、
今後も南相馬の農業者に関わっていって下さるとのことですから、
六角支援隊が試験田に取り組んだことは、
大きな意味があったと思いました。

また、今日は私の年若い友人のボランティアグループ「百足団」が、
畑の草取りをしたのですが、彼らは生活の糧になる仕事の他に、
バンド活動をしている仲間たちです。

彼らもまた、何度も南相馬に来てビニールハウス建設や畑、
また田植えの時にも支援活動をしています。

今回はその「百足団」のメンバーに看護師さんの女性がいて、
彼女は草取りではなく、六角支援隊の荒川さんの案内で
仮設住宅で一人住まいのお年寄りたちを訪ねて、
血圧を測ってあげたり健康に関してのアドバイスをしてあげていたのでした。
小林さんのお宅を辞してから、私も彼女と行動を共にしました。

この連休中は、さまざまなボランティアグループが南相馬にやってきます。
明日は松戸からの「歌のおばさん」たち、
明後日は伊那から「あったかねこ(袖無しの綿入れチャンチャンコ)の会」と、
長野の鬼無里からの理容師&美容師さんによるヘアーサロンです。     

みなさん、何らかの形で私も繋がりを持った人たちで、
六角支援隊の輪は大きく広がっています。                        

明日からのことは、またご報告します。 

いちえ

2013.7.14その2

みなさま

南相馬に来た時はいつも、早朝に周辺を散歩します。
昨日の朝はいつも行く海辺の方ではなく、裏山の道を行きました。
その道は、産業廃棄物処理場建設予定地の裏を行く道です。

六角支援隊の大留さんと市長の桜井勝延さんは、
この「産廃処理場から命と環境を守る会」の会長と事務局長ですし、
六角支援隊のみなさんはこの会の仲間たちでもあったのです。

そうした経緯があったので原発事故後に、
今「六角支援隊」と呼ばれている「原発事故から命と環境を守る会」が
現地ボランティアとしての活動を始めることができたのです。

前日の雨も止んで、気持ちのいい朝でした。
舗装路ではありましたが車も人も通らず、
道の脇には草が茂り放題でした。

3・11後に避難したままなのか途中の数軒の民家にも人の気配はなく、
あの日からここは人が通わなくなった道のようでした。

民家の庭も雑草で荒れ放題でしたが、
梅の木にはすっかり熟して黄色くなった実がたくさんなっていました。

ドクダミ、オカトラノオ、ヒヨドリソウ、サラシナショウマ、
ノイバラ、アザミ、ウツボグサなどなど、
野の花たちが咲く道は、途中で道の片側が崩れて
「片側通行」の表示が立てられていました。
これもまた、あの日の地震で崩れ時のままのようでした。

なお行くとようやく道は下りになり、
下ったその先にはオレンジ色のカンゾウの花が一面に咲く原がありました。

その向こうに太平洋が、朝の陽を返していたのです。
ここにに来る度に何人かの方達の口から聞いた言葉が、
頭の中でグルグルとまわります。

「海があって、山があって、川があって、本当にいいところなんだよ」と。
そして彼らの口からはきっとまた、次の言葉が出てくるのでした。

「原発さえなければ…」と。

そんな彼らの言葉を反芻するように思いながら歩いていたのですが、
何か刺激的な匂いがして
きたのです。

どこからの何の匂いなのかは判りませんでしたが、
空気中が臭っていました。
時間を見て道を引き返し、また木立の中の道を戻りました。

後で会ったこの近くに実家があるAさんに朝の散歩のことを話すと、
Aさんは言いました。
近くの化学工場で先日事故があって、
それがまだ漏れ出しているための匂いなのだそうです。

死傷者もなく住民に避難指示も出されなかったそうですが、
避難を考えた人たちもいたようでした。

「だからあの道は、しばらく歩かない方がいいよ」とも言いました。

化学工場が建設されたのは、
もう数十年も前のことだそうです。
Aさんのお父さんは漁師だったそうですが、
工場からの水が海に流れ込むようになってから
船泊まりも砂で浅くもなり、
また川の水も臭うようになったので
船は引き揚げて漁に出るのは止めたそうです。

Aさんのお父さんたちが化学工場建設反対をしたのかどうかは聞き漏らしましたが、
同じ道を私たちは歩いているのだと思えました。                   

いちえ

2013.7.15その1

みなさま

今日は「東葛はるかぜ合唱団」の方たちが、
午前中は小池長沼仮設住宅を、
午後が小池第3仮設住宅を訪問して、
仮設住宅のみなさんと共に歌う会を催しました。
私も六角支援隊のお手伝いとして、そこに参加しました。

合唱団のみなさんは歌詞をプリントした物を用意されてきていて、
参加者のリクエストに応えてみんなで一緒に歌う会でした。

合唱団にはアコーディオン奏者もいて、その伴奏で歌ったのです。
♪ミカンの花咲く丘♪♪四季の歌♪♪高原列車は行く♪等等、
懐かしのメロディーが次々に歌われました。

みなさん楽しげに歌っていましたが、
参加者は両会場併せても男性は3人だけで、圧倒的に女性ばかり。
おばあちゃんたちは、しばし青春時代に戻ったようでした。

高齢の男性たちが参加できる催しは、
「飲み会」のようなものだといいのでしょうが、
仮設住宅の集会所では、アルコールは御法度です。

自室で飲むぶんにはそんな規則はないのですが、
集会所ではそれが出来ません。
何か良い工夫はないものかと、思います。
小池第3仮設では、
またたくさんの縫いぐるみが私を待っていてくれました。

作ってくれた黒沢さんは、
「作っている時の気持ちは一つ一つ違って、
夜は部屋でひとりで居るから、
作ってるのが楽しいんだ。気持ちが紛れるんだ」と言っています。

小高区にあった自宅は津波で流され、
ご主人と娘さんを亡くされて、
ひとりぼっちになった黒沢さんです。                                
いちえ

2013.7.15その2

みなさま

朝の仮設住宅に、参議院選挙立候補者の宣伝カーが来ていました。
元双葉町長の井戸川克隆さんでした。
運動員の他に聞いている人は数人でした。

他の候補者の宣伝カーが来た時との比較が出来ないのですが、
これは、選挙に対する関心の薄さからだけではないのではないかと
私には思われます。

南相馬の人たちの、原発立地の町の元町長に対する思いは複雑です。
それはそれとして、来る21日の参議院選挙、本当に悩ましいです。
これからの日本がどうなるかという大事な大事な選挙ですが、
候補者、あるいは党の姿勢だけを考えては、
一票を投じられない思いです。

思わぬ方へ票が集まることがないようにするためには、
自分の思っている候補者に入れるのが
必ずしも良い結果を生むとは限らないのではないかと思えるからです。

投票日まであと5日。
悩み抜くことになりそうです。

午後の歌の会の前に、小池第3仮設住宅のSさんを訪ねました。
Sさんに会うのは、本当に久しぶりでした。
Sさんは集会所での催しには、まず顔を出さない人なので、
それでお訪ねしたのです。

2ヶ月ほど前に、Sさんから苺やぶどう、
スイカを模したアクリル毛糸で編んだタワシが、
たくさん送られてきたので、その御礼を届けたかったのです。

久しぶりの挨拶のあとで、Sさんは話し始めました。
以前にも聞いたことのあった話でしたが、それはこうです。
原発事故の後で、息子さんがいる東京に避難していた時のことです。
風邪を引いたSさんは、息子の家の近くのお医者さんに行きました。
お医者さんはSさんよりも高齢の先生だったそうですが、
看護師の奥さんと二人で診療に当てって居る医院でした。

初めての患者さんであるSさんに、先生はいろいろ訊ねました。
そしてSさんが南相馬の小高区からの避難者であることを知ると、
「私たち東京に住んでる者のために福島の方達には、
大変なご苦労をかけさせてしまい、本当に申し訳ない」と言って、
深く頭を下げられたそうです。

Sさんは、仮設住宅に移ってから先生に御礼の手紙を書いたそうです。

「字は下手ですし、文章もよくないですが心を込めて書きました」
というSさんからの手紙に先生は返事と共に
ペットボトル入りの水を送って下さったそうです。

そしてその後も、季節の変わり目にはいつも、
水やお茶、お菓子を送って下さるそうです。
足腰が弱っていて、手押し車がないと外を歩けないSさんは言います。
「車押してると珍しいんだべね。
東京に居たときは、いろんな人に声かけられた。

みんなに親切だったよ。
よく声かけてくれて仲良くなった人からは、
手紙も来るし、返事も書くの。
文章も駄目だけど、気持ちだけはこめてんだ。

子供の時から辛いこといっぺいあったけど、
そんなこと思いだし思いだしして、書いてたんだ。

ほれ、ここがこんなでしょ?
(Sさんは言いながら前髪をあげて脇額を見せてくれました。
やけどの跡がありました)

ちっちぇえ時、家に囲炉裏があったべ?
ずりずり這って、頭突っ込んじまったんだな。
おっきくなってかかさんが書いた手紙を、仏壇で見つけたのよ。
『後生大事に育ててきた子です。

どうか、この子をお守り下さい。
誠心誠意お祈り申し上げます』っち書いてあった。

そのことが私の頭にはずっと残ってる。

そんなことも書いて、書いて、これくらいになってたんだ。
と言ってSさんは右手の親指と人差し指で、厚みを示して見せてくれました)

「みんな、流されちまった。みんな」
Sさんは、自分史を書き出していたのでしょう。

津波で何もかも流されたSさんですが、
なによりも綴ってきた自分の歴史が流されてしまったことは、
どんなに淋しく悔しいことでしょう。

Sさんが再び自分史を書き始めてくれることを、祈ります。

いちえ

2013.7.15その3

みなさま

まだ会ったことはないのですが、飯坂に避難しているCさんのことを。

Cさんから初めてお手紙を頂いたのは、昨年の春のことでした。
児童書の出版社が出しているPR誌に書いたエッセーを読んだCさんから、
出版社を経由してその手紙が届いたのでした。
Cさんの実家は南相馬市で、結婚して小高区に住んでいました。

二人の娘さんと、息子さんが一人います。
Cさんもご主人も小高区にある学校で、先生をしていました。
3・11後、Cさんは子どもたちと飯坂に避難し
特別学級の先生の職を得て働いています。
ご主人は南相馬の学校に移ったので、
南相馬にアパートを借りてそこから通勤しています。
子どもたちは避難先の学校に転校したのですが、
小学生の次女が小高の学校に戻りたいと言って、
毎朝酷くごねて暴れるのだそうです。

Cさんからの始めの頃のお手紙は、
そんなことが淡々と綴られていました。

返事を書き、また手紙を頂きと重ねて来たのです。

Cさんの実家は農家で、お父さんは毎朝早く
米作りも野菜作りも出来なくなった畑に行っては、
草取りをしていると書かれていた手紙は、
何通目のことだったでしょう。

そこには、「農家は土と離れては暮らせないのです」と書かれていました。

六角支援隊で試験田をすることをお知らせしてから、
ふつりと手紙が届かなくなりました。
案じていたら、昨日電話を頂きました。

長い無沙汰を詫びるCさんの言葉に、胸が痛くなりました。

3度目の3・11を迎える頃から、字を書いたり、
本を読むことができなくなっていたと言うのです。

読書が好き、手紙や文を書くのが好きで、
読んだり書いたりが自分を支えてきたと思っていたのに、
手紙を書こうとすると字が乱れて文が続かなくなっていたと言うのです。

避難生活で家族は分断、
環境に適応できずに苦しむ次女への対応も大変なことでしょうが、
Cさん自身だって、いや家族の誰もがこんな理不尽な変化に戸惑っているのです。

そんな戸惑いになんとか折り合いをつけながら
毎日をどうにか過ごしていても、
あの日を周年する時期には、
そうと意識してはいなくても増大する不安が、
体の症状や行動に現れてしまうこともあるのではないかと思いました。

電話口のCさんは言いました。
この連休中に小高の家の掃除に、通っているのだそうです。
戸締まりはしっかりして出たので大型野生動物の侵入は免れているけれど、
鼠の害が酷いそうです。

「風呂にはタップリ水をはったまま避難したけれど、
2年数ヶ月の間に水はすっかり抜けてしまって、
その排水溝から侵入したらしいです。

風呂場にその痕跡が一番大きいですから。
家の中じゅう、鼠が荒し回って酷いことになってます。
明日は大型ゴミを回収してくれる日なので、
冷蔵庫や大きな物を外に出したところです。
だけどこんな状態では、放射能より鼠のために、
もうこの家には住めないんじゃないかと思ってます」

小高区は去年の4月の警戒区域解除で区域再編成されて、
帰還困難区域以外は昼間は自由に帰れるようになりました。

厨房用品を作っているタニコーは、
小高の工場での操業を再開しましたし、
掃除等で帰宅する人も居て、
昼間は人の気配のある小高です。

夜は、鼠が駆けまわっているのでしょうか。

小高に行くと、冷蔵庫や大きな家具類、
衣類や食品等の生活ゴミを詰めた
フレコンバッグが幾つも庭先や
道路際に積まれているのが目につきます。

フレコンバッグに詰めた生活ゴミは、
ようやく先月から市内のゴミ処理場に
順に運び込まれるようになりました。

冷蔵庫など家電類も仮置き場が決まり、
各家庭から運び出されることになりました。
目に見えるゴミは片付けられていきますが、
匂いも色もないゴミが残ります。
Cさん一家が、小高に戻れる日は来るのだろうか?
Cさんの娘さんがまた懐かしい級友たちと、
共に学べる日が戻ってくるのだろうか?
Cさんからの電話を切って、それを思いました。        

いちえ

2013.7.16

みなさま

今朝は9時から小池第3仮設住宅と、寺内塚合仮設住宅の2カ所で、
ヘアーサロンを開設しました。
小池第3には理容師さんが一人。
寺内塚合には理容師さんと美容師さんが一人ずつ。

長野県から来て下さった藤沢守さん、
美代子さんご夫婦と娘さんの茜さんのファミリーです。
今日は同時に別のグループによるチャンチャンコ作り講習会もあって、
六角支援隊の鈴木さんと荒川さんと私の3人で手分けしての活動でした。

チャンチャンコ作りの会場は、
小池第3仮設住宅と小池長沼仮設住宅にしたので、
小池第3では同時に二つの催しが重なったのでした。

私は寺内塚合のヘアーサロンを担当しました。

9時からヘアーサロン開設と告知してあったのですが、
やっぱり9時前から待っている人が居ました。
この仮設住宅は小高区の人たちが多いのですが、高齢者ばかりです。

集会所の床にブルーシートを敷いて、椅子を2脚並べ、
それぞれの椅子の前には姿見を立て、
ブルーシートの端にはスリッパを並べました。

”お客さん”の座る椅子のもっと後方にも、
それぞれ椅子を用意して、ヘアードライアーや
消毒用のウェットティッシュの箱、
タオル、それから肩に掛けて上半身を覆う
大きなケープなどを用意しました。

美容師の美代子さんも、理容師の茜さんも、
腰に仕事用の七つ道具の入ったバッグを付けて、
スタンバイしています。
ブルーシートが敷かれていない部分に並べた椅子が、”待合室”です。
一番乗りの男性は美代子さんが担当、
二番目に来た男性は茜さんの椅子に座って。

美代子さんは気さくに話しかけながら、
年若い茜さんは年長者が相手なので丁寧に言葉を選びながら、
リズミカルに手を動かしてカットしていきます。

カットの済んだおじいちゃんもおばあちゃんも、
さっぱりして気持ち良さそうです。
「ありがとうございました」とお礼を言って椅子を立つ”お客さん”を、
美代子さんも茜さんもまた「ありがとうございました」と、
言ってお送りするのでした。

82歳のTさんは、「頭洗ってないから…」と遠慮するのを誘って、
仮設の集会所にお連れしたのです。

Tさんの髪は、肩までかかっていました。
椅子に座ってからもまだ「髪洗ってないんだ」と
恥ずかしそうに言うTさんに茜さんは、
「大丈夫ですよ。髪が長いと、頭洗うのも大変ですよね」と
Tさんの気持ちをほぐすように応えます。

「短くしていいですか?」と聞く茜さんにTさんは、
「うんと短くして。2年以上伸ばしっぱなしだった」と言います。
ということは、3・11以来初めてのヘアーカットです。

Tさんもまた他の被災者と同じように、
3月11日に避難所に避難し、
それから避難所を転々とした後で仮設住宅に入りました。

仮設住宅に入居後、髪を切るにはどこに行けばいいのかが判らずに、
伸びるままになっていたのだそうです。

小高区に住んでいた時のTさんは、
鹿島区に来ることもありませんでしたから、
どこに床屋さん、美容院があるのかが判らなかったと言います。

茜さんは「仮設のお風呂は狭いから、頭洗うのも大変でしょう?
短くしたらシャワーでも簡単に洗えますからね」と、
Tさんの話を聞きながら応対していました。

Tさんの髪は丁寧にカットされていき、
セシールカット(古いですか?)のようになって、
ちょっとボーイッシュで素敵です。
こころなしか、表情も明るくなったように見えました。

隣の椅子で美代子さんにカットして貰っていたSさんも、
“待合室”に座っていたMさんも、
すっかり変身したTさんの姿に「あれぇ!似合うよぉ!」
と歓声を上げていました。

Mさんのカットが済むまでTさんもSさんも待っていて、
その後も3人は外のベンチでお喋りをしていました。

小高に居た時は、どこで髪を切ったりパーマをかけたりしていたかなどで、
話が弾んでいたようでした。

髪を短くすると、頭が軽くなります。
きっと、今日カットしたみなさんは、
気持ちも軽くなったことと思います。
藤沢ファミリーは、また11月にも
ヘアーサロンを開いてくれることになっています。

今日の“お客さん”たちの中には
「お盆前に、カットしてもらって良かった。きれいな頭で墓参りに行ける」
と言った人や、
「野馬追が近いからな。さっぱりしておかなくちゃ」
という人も居ました。
仮設住宅に暮らしていても、そうした行事が生きているここでの暮しです。

いちえ

2013.7.24①

みなさま

参議院選は予測された通りに、自民党が過半数を占める結果となりました。
けれども一方で、東京選挙区では吉良よし子さん、山本太郎さんが当選したこと
は、希望を捨てずに歩む勇気を奮い起こさせてくれるものでもありました。
すべての原発停止と再稼働反対、TPP参加反対、憲法改悪反対の声を、なお一層
強くあげ続けていきます。
さて、小林恵(こばやしけい)さんの写真展のお知らせです。
☆『フクシマ』小林恵写真展
会期:8月19日(月) 8月31日(土)11:00 18:00 日・木曜日は休館
19日の開場時間は13:00
場所:いのちのことば社 tギャラリー東京都千代田区神田駿河台2−1
お茶の水クリスチャンセンター5階
Tel 03−5341−6911

http://wlpm.or.jp/tgallery
JR中央線、総武線「お茶の水」駅より徒歩2 3分
東京メトロ丸ノ内線・千代田線「新御茶ノ水」駅より徒歩3分
野党勢力の一本化がならず、原発再稼働と共に輸出を進めようとする自民党が圧
勝しました。けれども未だに事故は収束しておらず、先の見通しも不明なままで
す。
福島とその周辺に住む多くの人々が、避難を余儀なくされ、見えない放射能に不
安を覚えています。
3・11以後の福島の自然や、外で遊べない子どもたちの保養キャンプの様子をカメ
ラに収めてきた小林恵さんの写真展です。
昨年銀座のギャラリーで開催された写真展で、私も小林さんの捉えた『フクシ
マ』を拝見しました。
静かなモノクロームの写真には、そこに”あった筈の暮し”や“居た筈の人たち”も
が写し出されているようでした。
小林さんの写真からは、消えてしまった”人や暮し”の悲しみと苦しみ、憤りが伝
わってくるようでした。
多くの方に見て頂きたい写真です。
写真展開催記念として、初日の19日には小林さんと私のトークと対談がありま
す。
☆トーク&対談
小林恵(フォトグラファー)×渡辺一枝
『あたりまえのものが失われた世界を生きる』
日時:8月19日(月)14時30分(開場14時)*写真展開場は13:00です。
会場:いのちのことば社 t ギャラリー(お茶の水クリスチャン・センター5階)
定員:70名(事前予約制)*入場無料
参加希望の方は事前に下記までお申し込み下さい。
お申し込み用ダイアル03−5341−6920(いのちのことば社) いちえ

2013.7.24②

みなさま
第7回目となるトークの会、「福島の声を聞こう」のお知らせです。
8月最後の土曜日、みなさまのご参加をお待ちしています。
日時:8月31日(土)午後2時(開場午後1時半)
会場:セッションハウス・ガーデン
参加費:1500円
主催・お問い合わせ:セッションハウス企画室03−3266−0461

mail:mail@session-house.net
http://www.session-house.net
チラシを添付いたします。いちえ

★詳細については、下記のダウンロードボタンから確認して下さい。
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