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2013年8月以降の一枝通信

2013年8月以降の一枝通信

みなさま
安倍政権は集団的自衛権の行使容認や、
憲法改悪等に向けて露骨に動き出しました。
こうした動きと呼応するかのように、
右傾化した人たちによる歴史の捏造や、
歪曲された史観が言われています。

私たちのくにの近現代史の中で、
忘れてはいけないことの一つが、
90年前の朝鮮人”虐殺”です。

西欧を仰ぎ見るばかりに、
近隣のアジアの国々の文化や歴史を蔑視し、
人々を差別してきた日本の歴史を振り返ることは、
決して自虐史観などではなく、
平和を構築していくために不可欠なことだと考えます。
今も日本人の中に根深く残る差別感、それが鶴橋や新大久保での
ヘイトスピーチにがっているのではないでしょうか。

【9・1集会】への参加をお誘いします。
チラシを添付いたします。いちえ

★詳細については下のボタンをクリックしてご確認ください。

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2013年8月20日その1
みなさま

17日(土)は国分寺のカフェスローで、
「こどもみらい測定所」主催のトークの会でした。

主催者から出された講演テーマは、
「福島の声を聞き、変化を生み出してゆくために」。

会場のカフェスローは、かつて住んでいたところからもほど近く、
これまでも何度か訪ねたことのあるカフェです。
環境保全やスローライフ、フェアトレードなどを提唱する、
”ナマケモノ倶楽部”のお店です。

最初に私が、福島に通って見聞したこと、
感じたり考えたことなどをお話ししました。

休憩を挟んでその後は、参加者お一人お一人から、
3・11後の暮しや福島について考えていること、
質問や感想などを話していただきました。

いわき市にご友人がいらっしゃる方は、
元々そこに住んでいた人たちと、
原発事故によって避難してきた人たちとの間にある
軋轢を話して下さいました。

いわき市に避難している人たちは多いのですが、
そうした原発被災者には補償金が出ていますが
いわき市に元から住んでいる住民にはそれは下りていません。
スーパーなどへ買い物に行っても、
人が増えているので以前のように
スムーズに買い物を済ませられないなど、
俄に人口が増えたことから来るストレスや、
金銭面での不公平感を感じること、
また不動産の値が上がって暮らしにくくなっているなどを
話して下さいました。

1歳2ヶ月のお嬢ちゃんを連れて参加された若いお母さんからは、
質問を受けました。

お母さんが話された時には、お嬢ちゃんはその腕の中で眠っていました。
お母さんは、放射能の不安を抱えながらの子育てではあっても、
それでも安全な東京で暮らしているけれど、
福島のお母さんたちはどれほど大きな不安を抱えているだろうかと
思いやってのことだったのでしょう。

涙で声がつまりながら、
小さなこどもがいる福島のお母さんたちは
どんな気持ちでいるのでしょうという質問されました。

私はその質問には答えられませんでした。
仮設住宅で生まれた赤ちゃんにも会いましたし、
若い人や子どもたちは多くが離れて避難生活を送っているとは言え、
小さなこどもを持つ人たちに会ってもいます。

親御さんたちは誰しも、大きな不安を抱えていますし
不安だからそれを見ないようにして過ごしてもいます。

でもそれを言えば、
問うたお母さんはきっとまた一層辛くなることでしょう。
いま腕の中で眠っているお嬢ちゃんが、
さっきまでは小さなあんよで会場内を歩き回って、
天真爛漫な笑顔と仕種で、私たちみんなに幸せな心地を運んでくれたことへ、
ありがとうの言葉を答えにしました。

他にもお伝えしたい参加者の方達の言葉は、たくさんありました。

この日の様子はUstreamで流されるそうです。               

いちえ

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2013.8.20その2

みなさま
19日から31日までお茶の水クリスチャン・センターで、
小林恵さんの写真展
『フクシマ』が開催されています。

そのオープニング記念で、
「あたりまえのものが失われた世界を生きる」として
小林さんと対談をいたしました。

小林さんは2011年3月11日の被災後、
岩手、宮城の被災地に入りその帰路
に福島の被災地を通りました。
そしてその後毎月、カメラと線量計を持って福島に通っています。
小林さんの写真は昨年銀座のギャラリーでも拝見していましたが、その時に、こ
れは多くの人に見て欲しい写真だと思いました。

モノクロで風景や動物を撮った写真はどれも、静かで美しくさえあります。
どの写真にも添えられたキャプションは、
説明ではなく、撮影された場所と日にち、
そして計測された放射線量。

どんな言葉よりも強く、現地を伝える写真だと思います。
写真展は31日(土)までですが日曜日と木曜日は休館です。

『フクシマ』小林恵写真展

会場:いのちのことば社 t ギャラリー
お茶の水クリスチャン・センター5階千代田区神田駿河台2−1
Tel 03−5341−6911,6912
お茶の水駅下車お茶の水橋改札口を出て2、3分のところです。
開催時間:11:00 18:00
休館日:日曜日、木曜日

昨年銀座のギャラリーで展示された写真に加えて、
山形の月山で今年行われた保
養キャンプでの子どもたちの姿がカラー写真で展示されています。
モノクロの福島から失われたものが、
カラーで写されているこの姿と声なのだと思います。
たくさんの方に、ぜひ見ていただきたい写真展です。
私は、対談を終えて夕方の新幹線に乗り、
最終バスで南相馬に来ています。
また、現地からご報告いたします。いちえ

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2013.8.20南相馬1

みなさま
今回の南相馬訪問は、小高区の川原田神社の仮社殿設置の様子を見学したくての
ことでした。
●小高区川原田地区
小高区川原田は20キロ圏内に位置する小高区の集落の一つで、もともと戸数3
7戸、150人が暮らしていました。
2011年3月11日の津波で流失した家屋15、6軒、流失せずに残った家屋も
すべて津波の被害を受けており、損壊しています。
亡くなった方は8人。
無事だった方達は鹿島区の仮設住宅などで、避難生活を送っておいでです。
昨年4月から日中の帰宅は出来るようになりましたが、除染も進まないことや瓦
礫の一時集積保管場所が決まらなかったことから片付けは遅れに遅れています。
ようやく今年6月28日から、瓦礫の片付けが始められたところです。
川原田神社も津波で流失していました。
川原田地区と川原田神社復興のために、熊本県人吉市の青井阿蘇神社(国宝)、
北海道神社庁札幌支部、新潟県神道青年会、新潟県神道青年会、福島県神道青年
会が支援しての社殿設置です。
その社殿は、熊本県人吉市の球磨工業高校の生徒たちが制作したものです。
球磨工業高校は、全国で唯一の宮大工養成のための伝統建築学科を持つ高校で
す。
高校生が作った神社が小高の被災地に設置されることを、私は鹿島区の篤農家の
小林さんから聞いていました。
その様子をぜひ見たい!、と思って来たのです。
小林さんから送られて来た資料に、“神社の旅”の行程表が在りました。
8月18日(日)トラックで人吉を出発し、新門司港で乗船。
19日(月)大阪南港着、陸路で南相馬市着、とありました。
人吉からは社殿はトラックで、神社関係者、高校の先生と生徒などはバスを仕立
てて来たのです。
朝7時半、川原田神社で一行の到着を待っていると、関係者らしい方が一人みえ
ました。
鹿島区の「伊勢大御神(いせおおみかみ)」の宮司さんでした。
宮司さんへの電話で、一行は先ず小高神社でもう一つ別の社殿を仮設置した後で
川原田の方へ来ると言うので、宮司さんと一緒に小高神社へ行きました。
駐車場には人吉ナンバーの大きなトラックの荷台に、形の違う社殿が二つ載って
いました。
そしてあたりには大勢の人。
熊本から新潟から、北海道から、東京からは國學院大学の先生や学生さんも。
仮設置する社殿をクレーン車で別のトラックに積み、小高神社の敷地奥にクレー
ン車で吊り降ろして仮設置しました。
また駐車場に戻り川原田神社に設置する社殿をさっきと同様にクレーン車で別の
トラックに積み替えて、川原田神社に向かいました。
その頃には、雨もだいぶ激しくなっていました。
川原田神社には、この地区の人たちも何人か集まって来ていました。

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2013.8.20南相馬2

小高区の川原田神社に球磨工業高校の生徒たちが作った社殿が設置され、
遷座の式典も終えたのは11時頃のことでした。

関係者のみなさんは片付けなどに残られていましたが、
私は六角支援隊の荒川さんとその場を引き揚げました。
荒川さんの家でお昼を頂き、午後は鹿島区の小池第3仮設住宅、
小池長沼仮設住宅を訪ねました。

小池第3仮設住宅には、
いつも縫いぐるみの”ぶさこちゃん”を作って送って下さる
黒沢さんが住んでいます。

黒沢さんは以前に私がここで縫いぐるみ講習会を開いたとき、
「出来上がった人形には名前をつけてあげて下さい」と言うと、
「まゆみ」と書いた名札をウサギの縫いぐるみに付けていました。

そして「娘の名前なの。亡くなったんだ」と、ぽつりと言いました。
黒沢さんのご主人と娘さんは、津波で亡くなったと、人伝に聞いていました。
けれども黒沢さんはそれ以上のことは話しませんでしたし、六角支援隊の荒川さんや鈴木さん、小池第3集会所の管理人さんたちも、それ以上のことはご存知ありませんでした。

小池第3に行くたびに、黒沢さんは新しく作り上げた”ぶさこちゃん”を、
「また作ったの」と渡してくださるのでした。

「夜ね、眠れないときに作るんだ。
作りながらいろんなこと人形に話してんだよ。
針持って手を動かしてると、辛いこと忘れるものね」とも言っていました。

この日、小池第3仮設住宅に行って黒沢さんに会いました。

黒沢さんはこの日は、"ぶさこちゃん”ではなく
小さな人形のストラップをたくさん渡してくださいました。
黒沢さんオリジナルの作品で、端布で作られた人形です。

黒沢さんはこれまでも、トイレットペーパーの芯を利用して、
こけしのような人形を作ったり、
縫いぐるみの野菜を吊るし雛のようにつなげてみたり、
何か工夫のある手芸品をいろいろ作っていました。

わたしも廃物利用で何か作り出すのが好きですから、
そんなことから話が進みました。
そしてこの日、黒沢さんは1939年に生まれてから今日までの、
長い一代記を話して下さいました。

「子供の頃は靴なんかなかったから、学校行くのにわらじだったよ。
8里も歩いていくから一足じゃだめなんだよ。
行きに履いてたのは学校につく頃は駄目になったり
鼻緒が切れたりしちゃってるから、
はくときには、親がもう一足持たせてくれんのよ。
替えのわらじを鞄の脇に結わえ付けてね、そんで学校行くのよ。
靴だの服だの買ってなんかもらえなかったわよ、うちは貧乏だったからね。
貧乏で子だくさんだったから、中学出たら奉公に出されたの。
奉公先でも学校行くときに着てたセーラー服着てたら、
そこで服買ってくれて、うれしかったわぁ。

あの頃は食べるものなんかも、ご飯のおかずって言ったら漬け物くらいでしょう。
あの頃のこと思えば、なんだって我慢できる。
”おしん”なんてテレビでやったけど、
私なんかもほんと”おしん”みたいだったよ」

そんな子供時代、結婚してからの日々のこと、

そしてあの3月11日のこと、その後今日までのことを話してくださいました。

ご主人のご遺体が見つかったのは一ヶ月後の4月11日、
娘さんは、DNAで7月にご遺体が判明したそうです。
「お葬式もしたしな、見つかんねぇ人は気の毒だ。
あの棺はすごかったなぁ。もう棺はいっぱいで木で作れねぇで、
ベニヤなんだから。
焼き場も次から次からで、すごかったなぁ。
焼き場にも大勢で来ないでくれって言われてな、
二人だけって言われたんだ。

したら家は息子が二人行くから、私は行けねぇなって言ったら、
じゃぁ3人行っていい、
私も行っていいって言われて行ったんだ。

家さ居たなら井田川(黒沢さんの住んでいた行政区)
だから60軒ほどの家があって、
そこのみんなが来てくれて葬式したけどな、仕方ないな」
六角支援隊の荒川さんも、また仮設住宅の集会所を管理しながら
住民の皆さんのお世話をしている星見さんも、
もちろん私も初めて聞くことばかりの黒沢さんの一代記でした。

帰り道、荒川さんがぽつりと言いました。
「黒沢さん、ようやく話せるようになったんだね。今まで話せなかったんだね」と。

この日、黒沢さんからはたくさんを聞かせていただきましたが、
そのほんの一部をお伝えしました。       

いちえ

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2013.8.20南相馬 追伸

みなさま
☆お知らせ①
17日(土)のカフェスローでのトークの模様は
以下のURLで当日配信されました。

http://www.ustream.tv/recorded/37408951
http://www.ustream.tv/recorded/37414039

☆お知らせ②
六角支援隊隊長の大留隆雄さんが、
NHKラジオ深夜便に出演します。
放送日は9月10日(火)午前4時05分、
ラジオ深夜便「明日へのことば」です。
どうぞお聞き下さい。

いちえ
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2013.9.3 8.31トークの会と9.1集会のご報告

みなさま

●報告①
トークの会「福島の声を聞こう vol.7」を終えました。
とても暑い日でしたが、セッションハウスの会場いっぱいに
たくさんの方が参加して下さいました。
おいで下さったみなさま、ありがとうございました。

南相馬市原町区萱浜の、上野敬幸さんに話していただきました。
上野さんのことはトークの会のご案内チラシで少しご紹介をしましたが、
原書房で出版された『ファインダー越しの3.11』
(安田菜津紀、佐藤慧、渋谷敦志/共著)、
角川書店『3・11行方不明 その後を生きる家族たち』(石村博子著)
に書かれていますし、また私も『たぁくらたぁ』28号に書いています。

萱浜の集落60数戸はすべて津波で流され、
70数名が亡くなっています。
上野さんのご両親と二人のこどもさんも津波に呑まれ、
お母さんと娘さんはご遺体で見つかり、
お父さんと息子さんは行方不明のままです。

地元消防団の班長だった上野さんは、
震災当日から家族や地域の人たちの捜索を始め、
原発事故後も避難せずに捜索活動を続けています。
消防団の仲間たちも避難先から戻ると、
仲間たちも一緒に捜索活動と共に津波で流されて
礎石だけになった集落の家々の瓦礫の片付けも始めました。

やがてボランティアも活動の支援に加わるようになり、
上野さんは「福興浜団」という組織を立ち上げて、
いまも捜索、海岸清掃、草取りの活動を続けています。
当初は活動範囲は南相馬市の原発から20キロ圏外でしたが、
区域再編成後は小高区、浪江町、富岡町、
楢葉町と、活動の範囲を広げています。

また、津波で子どもを亡くされた家族に
クリスマスのプレゼントを届けたり、
地域の小学校の子どもたちをディズニーランドに連れて行くことや、
鎮魂の思いを込めて花火大会などを催し、
子どもたちの笑顔が地域に戻るようにとの活動も続けています。
あの日以来のことを話してくれた後で、上野さんは言いました。

「震災前には生きていることが当たり前だと思っていたが、
本当は希有なことだったのだと気がついた。
それまで自分は親に対して
『ありがとう』という言葉を言ったことがなかった。
何かしてくれても、親なんだから当たり前だと思っていた。
(あの日が取り戻せるなら)『ありがとう』と言いたい。
子どもたちを抱きしめて、『ありがとう』『ごめんね』を言いたい。
どうか、みなさんも今あることが当たり前だと思わないで、
『ありがとう』『ごめんね』という言葉を、ちゃんと伝えて下さい。
いま出来ることをしっかりやって、後悔のないように生きて欲しい」

上野さんの言葉は、私たちの胸に深く響きました。
また会場には渋谷敦志さん撮影の写真パネルも展示されていて、
上野さんのお話はより一層リアリティを持って、私たちに届きました。

●報告②
昨日9月1日には、第39回「9・1集会」が開かれました。

関東大震災・朝鮮人虐殺から90年、
在日韓国朝鮮人の人権獲得闘争39周年という日です。
1923年9月1日に起きた関東大震災の中、
数千人もの人々が「朝鮮人」というだけで、虐殺されました。
当時日本は大韓帝国を「併合」と称して植民地化し、
「土地調査」の名目で土地を取り上げ、生活のすべてを奪いました。

そのために多くの朝鮮人は生きるために日本に働きに来ざるを得なくなり、
その中で関東大震災と虐殺に遭遇したのでした。
故 崔昌華(チォェチァンホァ)牧師は1975年9月1日に、
北九州市に在日韓国人・朝鮮人の参政権を含む諸権利を要求した
公開質問状を提出した時から、
「在日韓国人・朝鮮人の人権獲得闘争全国連絡会」
の主催で始められた「9・1集会」です。
会の代表であった牧師が亡くなられてからは、
「9・1実行委員会」が主催して続けられている集会です。

この日は始めに、崔昌華牧師講演の映像記録が流され、
次に辛淑玉(シンスゴ)さんの講演
『在日としての課題 ー私の場合−』がありました。
辛さんの話を聞くのは初めてではありませんでしたが、
昨日の辛さんには、これまでのどの時よりも大きく心揺さぶられました。
まだ記憶に新しい、在日の有名人に関する幾つかの出来事を話した後で、
辛さんは参加者に問いかけます。

例えば、亡くなったつかこうへいさんの「
つかこうへい」というペンネームは、
「いつか公平」から付けたというエピソードを語った後で、
彼の遺書を読み上げました。
読み上げられたそれを、私は正確にすべてを覚えていませんが、
墓も要らない、戒名も要らない、
骨は対馬海峡にさん骨して欲しいというような内容でした。
辛さんは、「この中に、私の先輩の在日たちの誰もが
同じように言う言葉があります。
それは、どの言葉でしょう?」と、問います。

会場の一番後ろの席に居た若い男性が、
「海に散骨して欲しいという言葉」と答えると、
「そうです。在日の先輩3人に聞けば3人ともが、
自分が死んだら骨は対馬海峡に流してと言います。
その心はなんだと思いますか?」と、言葉を続けます。
「日本と半島の架け橋になるように」ということもありますが、
死んでも行き場がないからなのです。
日本に居ても、韓国に帰っても、自分の行き場がないのです。

そして、3・11の後で、孫正義さんが100億円の義援金をカンパし、
ユニクロの柳井正さん、楽天の三木谷浩史さんが、
どちらも10億円の義援金をカンパしたことを話し、

「孫さんに対して、在日の人たちはどういったと思いますか?」
と問いかけます。
「すごいな」という声や
「日本人のために使うより在日のために使え」
という声もなかにはありましたが
「保険だな」という声が多かったと言います。

孫さんは日本国籍も取っていますが、自身が、
また在日の同胞たちが、日本で生きていくために払われた保険だというのです。
これらの問いかけとその答は、「在日」という立場が、
それまで私が考えていたよりもはるかに、
はるかにこの国では生きにくいのだと知らしめたのでした。

こうした話から入って、3・11の直後から被災地に取材に入って
見聞したことを話してくれましたが、
辛さんの口から語られる言葉はどの一つも、
日本人が見落としていた事実、
辛さんだから見落とさず聞き漏らさずに取材できた事実を語り、
私は最後まで圧倒されながら聞いていました。 

終わりに辛さんはご自分の家族のことを話し、
さまざまに差別をされて生きてきた在日の立場から
”ヘイトスピーチ”の在特会に対して
「しっかりと向き合って、おとしまえを付ける」と言い
「のりこえネット」を立ち上げることを宣言されました。
9月25日に記者会見をするそうです。

辛淑玉さんの講演を聞くことで、
私は自分が気付かなかったことを多く学びました。
この日、この集会に参加できて良かったと思いました。

辛さんののりこえネットではありませんが、
9月23日には「差別・排外主義に反対する連絡会」
によるデモが予定されているそうです。
ヘイトスピーチに対して、
反対の声を大きく挙げていこうとのデモです。

☆お知らせ①
9月8日(日)13:00〜16:00、
小平中央公民館で開催される「2013母親大会in小平」で、
私は『今もあなたに福島の声が届いていますか』の演題で話します。

講演時間は13:10〜14:30です。
お近くの方、お時間がありましたらご参加下さい。

☆お知らせ②
六角支援隊の大留隆雄さんが、ラジオ深夜便に出演します。
9月10日、AM4:05からの「明日へのことば」の時間です。
大留めさんの話、ぜひぜひ、お聞き下さい。
少々早い時刻ですが、「早起きは三文の徳」です!

長文でごめんなさい。

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みなさま

☆報告①

7日(土)、八王子のアミダステーションで催された
八王子・生活者ネットワーク<平和人権部会>主催の
「福島報告会 part 2」に参加しました。
小さな集まりでしたが、とても有意義な会で、
私は学ぶことが多い会でしたした。

この会は主催の団体(八王子・生活者ネットワーク<平和人権部会>)
が折々のテーマで定期的に開いている、
「飲んで語ろう!ウィークエンドフォーラム」という会で、
昨夜は「原発事故から2年 福島の農業はいま」のテーマで、
田中拓哉さんと宮元万梨子さんが報告されました。
報告者のお二人は、南相馬の試験田の田植えに参加して下さり、
土壌や畔に生えている植物などの線量測定をして下さった方達です。
田中さんも宮元さんも「地域とつながる豆まめプロジェクト」
という団体で活動しています。

また田中さんは
「子どもたちの未来と自然エネルギーを考える八王子市民講座」
という団体にいて、八王子市民放射能測定室(ハカルワカル広場)
と連携しながら、被災地との交流や自然エネルギーの普及に活動されています。

宮元さんは「福島子ども支援・八王子」での活動と共に、
地場産の野菜販売を通して、
地元の農業者と消費者である市民とを結ぶ活動をしています。

昨年お二人は、福島県二本松の有機農家の
菅野正寿(すげのせいじ)さんを訪ねましたが、
その体験と南相馬試験田の田植えと
線量測定をふまえての報告でした。
お二人が訪ねた二本松の有機農家、菅野正寿さんたちは、
原発事故後も「それでも種を蒔く」ことを表明して、
種を蒔き、収穫したものはもちろん測定してきました。

すると、測定された農産物の多くが通常の測定器では
不検出(およそ10ベクレル/㎏以下)だったそうです。
多くが予想したのは、田畑は放射能に汚染されたから、
農作物の危険性は高くなるということでしたが、
その予想は当たらなかったのです。
放射能が深刻な値で検出されたのは、
事故後の二ヶ月間だけで六月以降は
殆ど検出されなかったというのです。

この二本松の農家を中心にさまざまな研究が進められ、
その成果としていくつかのことが判ってきました。
放射性セシウムの作物への移行は、
土壌の放射能濃度ばかりに因るのではなく、
土壌のコンディションに因っても
左右されるのではないかということです。

交換性カリウムなどの栄養塩、ゼオライトなどの鉱物、
籾殻などの有機物、またPHやアンモニア窒素の含有率など、
様々な要因で作物への移行が
抑えられるのではないかということです。

ということは、南相馬試験田の土壌からは
放射線核種は検出されていますが、
そのことのみで、ここで収穫された稲が米として口に入る時にも
放射性核種が検出されるかどうかは、未定だということなのです。

仮に収穫後の稲に放射能が移行していた場合には、
どんな対策を講じれば
移行率を下げていくことができるかなどについても、
お二人は今後も研究者を交えて関わって下さると言います。

試験田の測定にはこのお二人の他に、
国分寺のこどもみらい測定所の石丸偉丈さんと、
アドラ・ジャパンの小出一博さんも関わって下さり、
このお二人も今後も関わって下さいます。

田中さんも宮元さんも消費者に安全な食べ物をという思いからの
日々の活動ですが、同じ思いで生産活動をしてきた農業者も
支えたいとも考えています。

都市に住み野菜も肉も魚も買うだけの消費者である私たちは、
いま目の前にある食品の産地がどこかということや、
化学物質や放射能に汚染されていないかなどということは考えますが、
生産者の姿を思い浮かべることは滅多にありません。

宮元さんは、菅野正寿さんの畑で
農業体験をした時のことを話して下さいました。
「畑の雑草を刈り取ったりすれば、
その草は放射能が降り注いだ草だから、その作業中に被曝します。
だからといってその草を放っておけば、
畑や周囲を汚染していきますから草刈りはしなければなりません。
農家は自分が被曝しながら、
安全な作物を届けようとしていることに気がつき愕然としました」

また田中さんは
「福島産の作物を測定をして不検出の場合に、
それを宣伝することが原発事故は収束した、
もう安全だと言いたい側に利するようにもなってしまう」と、
葛藤を話されました。

お二人の話の中で強く印象に残ったのは、
「安心」で「安全」な食べ物のために有機栽培のものをという
消費者側の観点でのみ考えるのではなく、
生産者の側からすれば有機農法は循環型の農法である点が、
大きな意味を持っていたということです。

稲の刈り入れが済めば、藁は家畜の飼料になったり、
堆肥になったりというように、一軒の農家でも暮しは循環していたし、
地域でもそうであったことでしょう。
このことは私自身も南相馬の酪農家や農業者から、聞いていました。

この日のお二人の報告を聞いて、
そうした循環型の生活、地域の再生がなければ、
真の「復興」にはならないのではないかと思いました。
生産者と消費者を結ぶ市民測定室の活動の重要性を、
私は改めて認識できた有意義な会でした。

会場で販売されていた本を買って帰りました。

『放射能に克つ農の営み ふくしまから希望の復興へ』 
菅野正寿・長谷川浩 編著

『原発事故と農の復興 避難すれば、それですむのか?!
小出裕章・明峯哲夫・中島紀一・菅野正寿/企画:有機農業技術会議 
どちらも出版はコモンズです。

後者の本は、原発事故後「それでも種を蒔く」
と表明し作物を育て続けてきた菅野さんたち農業者と、
「本来なら安全のために、福島には人は住んで欲しくない」
という小出裕章さんとの公開討論会で、とても興味深い本です。

どちらもまだ読み出していませんが、これから読むのが楽しみです。

☆報告②

8日(日)「2013 母親大会 in 小平」に招かれて、
13年前まで住んでいた小平市に行き、福島の話をしてきました。

大熊啓(オオクマアキラ)さんのみにライヴもあって、
歌われた中で♪教訓♪という歌が、とても印象に残りました。

徴兵されようとしたら、逃げなさい。
死んで神さまと言われるよりも、
生きて馬鹿者と言われなさいというような内容の歌詞で、
もう一度しっかり聴きたいと思いました。

13年前までの36年間住んだ小平ですが、
そこに越したのは東京オリンピックの年でした。
東京はまた、2020年の開催地に決まりましたが信じられません。
この日、大久保では在特会のヘイトスピーチデモがあり、
それを阻止しようと多くの市民が座り込み、
またダイ・インでヘイトスピーチデモを阻んだのでした。

福島第一原発からは放射能が垂れ流されている日本で、
差別主義者たちによるヘイトスピーチデモが行われるような東京で、
オリンピック開催が決まるなんて!

汚れたお金が動いたのでしょうか?
それとも委員たちの目はみんな節穴?

いちえ

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2013.10.5,6

みなさま

土、日と南相馬へ行ってきました。
小池長沼仮設住宅での、縫いぐるみ講習会です。
今回は友人のHさんが、アシスタント役として同行してくれました。
5日の朝の新幹線で福島へ、そして福島からバスで南相馬には昼少し前につきました。
Hさんとはこれまで岩手県や宮城県の被災地で
一緒にボランティアをしたこともありましたが、
南相馬は彼女には初めての場所でした。

それなので5日は、六角支援隊の大留さんに浪江町や南相馬市小高区、
仮設住宅のある鹿島区を案内してもらいました。
あいにくの雨模様でしたが、瓦礫も片付いていず、
人の住まない小高区や浪江町の様子に「岩手や宮城とはまったく違いますね。
復興なんてまったく先が見えないですね」と、Hさんの感想です。
それでも小高区は昨年4月、浪江町は今年の4月から日中は入れるようになったので、
当初よりは片付いてきてはいるのです。
とは言え、瓦礫が散らばっているのではなく、
そこここに片寄せて集められているというだけのことなのですが。

請戸漁港跡に立って、荒れた海を眺め、
また漁師さんたちの家のあった跡
(そこはただ、何戸分もの土台だけが草に埋もれています)
を見てHさんが溜息まじりに言いました。
「本当に福島は海あり、山あり、川ありのいい所だったんですね」
それを聞いて大留さんは「そうだよ。地震と津波だけなら、
なんとか生活を立て直していけただろうけど、
放射能にふるさとを奪われちゃったんだよ。
春になっても山菜も採りに行けない、秋に茸も採れない。
川でも海でも魚が捕れない。とったってどれも食べられないんだからね。
ふるさとを奪われたって言うのは手足をもがれたようなもんなんだよ」と言います。

2年半経っても被災した時のままの浪江町や小高区を見てから、
原町区の海岸辺から東北電力の火力発電所を通って、
鹿島区の方へ向かいました。
Hさんに海岸辺を見て欲しかったのは、
南相馬市の瓦礫の仕分け方と仕分けた瓦礫を
どんな風に活用しているのかを見て欲しかったからです。
瓦、コンクリート片、鉄骨など金属類、
木は柱や丸太などの大きな木材と小さな木片、
泥のついた瓦礫から集めた土、塩ビ類などと徹底して仕分け、
細かく砕いたコンクリート片や瓦を土台に土を盛って小さな丘を作っています。
やがてそこに草が生え木を植えて防潮の小山にしていくのです。

大留さんは言います。
「産業廃棄物処理場建設に反対してきた市長だから、
これだけのことができるんだよ。
瓦礫を他所に持って行って燃やすなんてことをしないで、
瓦礫のリサイクルなんだよ。資源として活用できるものは、徹底して使う。
使えないのは塩ビ類だけなんだよ」
本当に、この様子は多くの人に見て欲しい光景です。

鹿島区の仮設住宅や畑、ビニールハウス、田んぼを一巡して、
ビジネスホテル六角へ戻りました。
夕食に試験田で収穫したお米、
福島のブランド米「天のつぶ」を炊いたご飯を頂きました。
玄米からは16ベクレル検出されたそうですが
(政府の出している100ベクレルからははるかに低い値ですが)、
精米して炊いた白飯からは検出せずだったということで、
本当に嬉しいことでした。
とてもおいしいご飯でした。

長文になりますから、縫いぐるみ講習の様子は次の便でお伝えします。

いちえ 

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みなさま

6日、朝食前の散歩中でのことです。
6号線から曲がって、常磐線いわきおおた駅への道を行きました。
作付けされないままの田んぼが、広がっていました。
小さな祠があり、その下にこんこんと水が湧き出ている小さな池がありました。
その先に、杖をついて散歩しているおばあさんがいました。
おばあさんに池の水のことを訊ねると、
「田の神さまを奉っている池で、前は鯉が何匹もいたんだけどねぇ」
と答えが返りました。

そして「この辺の人ですか?」と逆に訊ねられ、
「東京からきました」と答えると、
おばあさんは震災当時のことを話してくれました。
おばあさんの家は太田川の向こう側で、
その辺りは原発から20キロ圏外です。
津波が川を逆流して上ってきたときに家のすぐ前まで水がきたけれど、
被害は免れたのだそうです。
そして、その後の避難生活、
また自宅に戻ってからの今までを話して下さいました。
被災者が10人いれば10の体験談があるのですから、
もっともっと多くの方達から話を聴きたいと思っています。

六角の戻って朝食後、支援隊の荒川さんが迎えに来てくれて、
荒川さんの車で小池長沼仮設住宅へ行きました。
モンベルさんから、大きなロールでフリースの生地が届いていました。
柄の入った布、赤や茶色、黄緑や他にも何色か無地の布が寄付されていました。
荒川さん、Hさんと3人で、今日はグレーの柄入りと赤、
黄緑の3枚だけを60センチ四方くらいにカットして用意しました。
綿やボタン、フェルトなどの材料も並べて、
仮設住宅のみなさんが集まるのを待ちました。

9時半からと言っていたのですが、
9時頃から三々五々集まってこられました。
作り方を図解した紙を配り、見本にと作っていった人形5体をお見せしました。
手の長いおさるさん、ウサギ、クマ、タヌキ、ブタ。
これらはどれも、型紙なしで、同じ作り方で作れるのです。
ただ耳の形と付ける位置、鼻など顔の作り、
しっぽを少し変えるだけでいろいろ作れるのです。
パンダだって、コアラだって
お腹にポケットを作ったらカンガルーだって出来るのです。
先ずは、みなさんに布を選んでもらいました。

そして私が、「こんなふうに、ボディになる部分の布を切ります」
と言って説明をするとみなさん、さっそく作り始めました。
ボディは足と胴、顔を一体に作ります。
始めからクマを作ろうと思ってやり始めた人も居ますが、
何人かは何を作るか考えも決めずにやり始める人もいました。
でも、この縫いぐるみはそれでもできてしまうから、
そこがまた面白いと思います。
ボディが出来ても、果たしてそれでかわいい縫いぐるみが出来るのかどうか、
作っているご本人も不安なようです。
でも、その段階で何を作るか決めなければ先へ進めません。
クマにするか、サルにするか、ウサギにするか…。
サルだけは手が他の動物とは違って長いのですが、
他は足の長さ太さと同じくらいの手を作って付けます。

ボディに手が付くと、みんな「あれ?かわいいじゃない」
と感じられてきたようです。
手の遅い人も早い人も、あまり裁縫が上手でない人も上手な人も、
みんなまったく出来具合が違うのですが、
ほんとうにここまででどれもがかわいくなってくるのです。
そして耳が付き、しっぽが付き、ボタンで目をつけて
糸で鼻や口を縫い付けて出来上がると、
みんな「わぁ、かわいい!」と自分の作った人形に声をあげるのでした。

12時過ぎまでに殆どの方が仕上げたのですが、
何人かは完成間近まで出来ましたが少し後が残っていました。
私たちも帰りのバスの時間があったので、1時過ぎには失礼をしました。
夕方、荒川さんに電話をすると、
午後からもまたみなさんが集まってまた作っていましたと教えてくれました。
一つ作ってみたら、今度は別の動物も作ってみたくなったのでしょうか。
荒川さんの電話を聞いて、嬉しいことでした。
創作意欲がわいたなら、本当に嬉しいことです。
この縫いぐるみのことは次号の『たぁくらたぁ』に書きました。
お読み頂けますよう、願っています。             

いちえ 

ぬいぐるみ

一枝さんと皆さん

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2013.10.7追伸

みなさま

小池第3仮設住宅のKさんから電話がありました。
Kさんは昨日の縫いぐるみ講習会の現地講師をお願いしようとしていた人ですが、
あいにく別の用事があって、昨日の会には加われなかったのです。
小池第3仮設住宅は4月に講習会をした所ですが、
20数人の参加者がいました。
その中でKさんは、一番先にウサギの人形を完成させた人です。

その講習会では、みんなが作り終えた時に私は
「今日みなさんが生んだ子どもたちには、名前をつけて下さいね」言いました。
するとKさんは出来上がったうさぎの胸に、
「まゆみ」と書いた名札を縫い付けたのでした。
津波で亡くなった娘さんの名前でした。
小池第3仮設住宅からは、その後何度か、
縫いぐるみがいっぱい詰まった段ボール箱が私の所に届きました。
みなさんが作ったものが溜まると、
集会所のお世話役が六角支援隊に託し、そこから送られてくるのです。
中でも黒沢さんは、たくさんを作ってくれましたし、
また他の仮設住宅で作りたい人がいる時には、
黒沢さんが行って教えてあげてもいたのです。
そんな事があったので、現地講師をお願いしたかったのでした。

黒沢さんからの電話に、私は昨日の様子を伝えました。
黒沢さんは言いました。
「私は百姓だったから、人形って作ったことなかったけど教えてもらって作ったら、
かわいいのが出来て、それから楽しくって、
なんだか生き甲斐みたいになりましたよ。
夜も一人でしょ。(ご主人も津波で亡くされたのです)
だからね、針持って、作ってる人形に話しかけながら縫ってるんですよ。
そうすっと、かわいいのが出来るから、また嬉しくってね」

昨日の小池長沼のみなさんも黒沢さんのように、
きっとこれまで針を持つのは繕い物や子どもの服など
実用品を作る時だけだったのではないでしょうか。
“役にも立たない”人形作りのために針を持つなどということは、
おそらくなかったのではないでしょうか。

また以前の講習会の時には私はそこまで気が回らなかったのですが、
昨日は気付きました。
昨日、Oさんの持ってきた裁縫箱はまだ新しく、
ハサミもよく切れるものでした。
津波でお家が流されたのかしらと思って訊ねると、やはりそうでした。
でも家族はみなさん無事だったそうです。
家ごと一切、一本の針さえも余さずに
そっくりみんな波にさらわれてしまっても、
ご家族がみな無事だったらなによりだと思いました。

使い馴染んだ裁縫道具を持って来た方でも、
そのハサミは布を切るには切れ味が悪く、
専用の裁ちバサミではないようでした。
ハサミは布以外のもの、
例えば紙を切るのに使っていると
そのハサミで布を切ろうとしてもうまくは切れなくなるのです。
そんなことから、被災前のみなさんの暮しを思いました。
布を切る専用の裁ちバサミなど必要としない、
あるいはちょくちょく針仕事をするような生活環境ではなかったのだろうなと、
想像しました。
たった数時間の縫いぐるみ講習会でしたが、
今回もまたさまざまを考えたことでした。                                    
いちえ

a:1318 t:1 y:0

2013.10.18

みなさま

この春に、みなさまに署名のご協力をお願いした
『中国残留邦人支援法』に関しての、ご報告です。
自民、公明両党は昨日、永住帰国した中国残留邦人らが死亡後にも、
配偶者に月額約44.000円の「配偶者支援金」
を支給することを盛り込んだ中国残留邦人支援法改正案を、
月内にも議員立法で提出する方針を確認したそうです。
野党にも呼びかけて、今国会での成立を目指します。
残留邦人の永住帰国以前から婚姻関係にあり、
帰国後に残留邦人と死別した「特定配偶者」が対象となります。
改正後の支給対象者は、約430人に上る見込みだそうです。

今回議員立法で提出する方針を確認した裏には、
尖閣諸島を巡る日中対立の緩和に役立てる狙いもあると見られていますが、
そうした政治的な思惑を抜きにしてもこの支援法の成立を望みます。          
4月にお送りした「一枝通信」を、併せて再送いたします。

いちえ


みなさま

今日は『中国「残留」孤児配偶者問題』に関する院内集会に参加しました。
中国「残留」孤児に対しては国家賠償訴訟を経て政治的解決が図られ、
2008年4月から新支援制度が施行されました。
この件に関しては署名等で、
みなさまからもたくさんのご協力を戴きました。
私も何度も裁判傍聴に参加し、
新支援法が成立した時には本当に嬉しかったです。
2週間ほど前に、この裁判の弁護団の一人であった方から封書が届きました。
こう書かれていました。

「……孤児も高齢にさしかかり、
孤児が他界して配偶者が一人日本社会に取り残される自体も発生してきております.
この場合、支援策の適用があるとはいえ、
孤児本人に支給されていた国民年金がまったくなくなるため、
生活水準が大幅に落ち込むケースが少なくありません。……」

新支援法によって、孤児たちには生活保護と同額の支援給付金の他、
国民年金の満額6万6千円が支給されるようになりました。
けれども「孤児」が亡くなると、支援給付金のみになります。
うかつにも私は、新支援法が成立した事で、
残留孤児問題は一応の解決を得たと思い込んでいました。
この封書を読むまで、配偶者の問題に思いが至っていませんでした。

生活保護と支援給付金の違いは預金が持てる事ですが、
預金を持てる人は少ないでしょうし、持ててもわずかでしょう。
そもそも「孤児」たちは残留したのではありません。
「遺棄」されたのです。
かつて私は、“満洲”に何度も通い、
各地で残留邦人に会ってきました。
また、帰国した「残留孤児」にも会って、話を聞いてきました。
祖国に”捨てられた”彼らを救ったのは、
中国の養父母たちでした。
成人した彼らと生活を共にしたのは,
彼らの配偶者たちでした。
侵略国だった日本人と結婚した配偶者は、
中国では酷い差別を受け、孤児の帰国と共に日本に来てからは、
今度は言葉や文化の壁による差別を受け、大変な苦労を重ねて来ています。

集会では、全国から集まった「孤児」が発言しましたが、
鹿児島から来たウリヅカさん(漢字が判らないのでカタカナ表記します)の言葉は、
深く胸に響きました。
「国策について話します。戦中戦後の国策は植民地政策だった。
戦後平和民主主義国家になったが、
民主主義なら平等・公平な政策を採るべきだが、
外国人に対しても同国人に対しても公平さに欠ける政策を採っている。
同じ家族に対して差別的な政策を採っている。
中国では同じ家族に対しての差別にあったことはない。
民主主義国家に、正義と公平を求めたい。
残留孤児の配偶者に対しての支援を求めたい」

山形から来た佐藤さんの言葉もまた、痛く胸に響きました。
「中国に居た時には『日本人』と差別され、
帰国したら『中国人』と呼ばれて差別を受けた。
言葉の壁で苦労をしてきたが2008年の新支援法の成立で、
生活は少し改善してきた事に、
山形在住の70名の孤児を代表して感謝します。
けれども孤児たちの高齢化、病気、死亡等で配偶者の心労は絶えない。

かれらは中国では日本人の配偶者として差別され、
日本人である孤児と苦楽を共にしてきた存在だ。
自分が死んだら配偶者の生活はどうなるのか、
孤児たちにとって配偶者支援への思いは切実だ。
私たちは養父母が育ててくれた恩は、忘れない。
日本にもあると思うが、
中国のことわざに『水を飲む時には、井戸を掘った人を忘れるな』
という言葉がある。私はこの言葉を忘れない」

他にも何人かが発言をし、また何人かの国会議員も激励と、
配偶者支援法の成立のために努力する事を誓っていきました。

配偶者の生活支援を求める請願書名を集めています。
用紙を添付しますので、
プリンターがある方はどうぞ印字して署名をお願いいたします。
またプリンターがない方は署名用紙をお送りします。
署名にご協力下さい。

今日は300名近くの「残留孤児」が集まりました。
彼らの姿を見た時、私の頭の中にはサァーッと、
“満洲”でのさまざまな体験がよぎりました。

土壁の家のオンドルの上で、
日本語のまったく話せない"日本人”と手を取り合って泣いた事。
写真を撮らせてと言ってカメラを向けたら、
それで骨も写るのかと訊ねられた事。
彼はレントゲンを撮られた事はあったのですが、
カメラを見たのは初めてだったのです。
もう既に戦後も40年も経っていたのに。
それほど大陸の田舎で、彼は育ってきたのでした。

“満洲”に通い、残留孤児に会う度に私は、
「私が彼らだった」と思ったのでした。
「彼らだったかもしれない」ではなく、
まさに「彼らだった」と思ったのでした。
今日また久しぶりに彼らにあって、
私は私を見たように思いました。

みなさま、どうぞ署名にご協力をお願いいたします。 

いちえ

a:1318 t:1 y:0

2013.10.24

みなさま

直近のお知らせになってしまいましたが、
今週土曜日の催しのお知らせです。
関東大震災の時にデマによって、多くの朝鮮人が虐殺されたことは私も知っていました。
けれどもその時に、また数百人もの中国人が虐殺されたことを、
私は知らずにいました。
「西田勝・平和研究室」からの集会の知らせが届いたのですが、
それに添付されてきた「軍縮問題資料」の抜粋からその事実を知りました。

西田さんは「戦争への起点としての関東大震災」の中で、
そのことを述べています。
日本が戦争への道を突き進んでいたこの時期に、
官憲の手で殺された一労働者の殉難を記念する催しが開かれます。
平沢計七殉難90周年記念の夕べです。

私はこの知らせを受け取るまで、平沢計七についてもまったく無知でした。
1889年に生まれた平沢計七は小学校卒業後、
近代的な鍛冶工としての技術を身につけた労働者として働き、
労働組合運動を進めていきます。

また消費生活協同組合、労働会館、労働金庫なども立ち上げていきます。
労働者として、中国人や朝鮮人労働者との連帯の実現に向けても力を傾けます。
国が戦争への道をひた走っている時代に、こんな人がいたのです。
多才な人でもあって、労働者の生活を描いた小説や戯曲を書き、
さらに「労働劇」を上演し舞台と観客との一致を実現して、
当時の演劇人を感動させたと言われています。
現代日本の社会運動、文学や演劇の一つの先駆者でもありました。
平沢計七が殺されて90年を記念しての、催しです。

平沢計七殉難90周年記念の午後 をひらきます。
秋の昼下がり、ぜひ、お出かけください。

と き 10月26日(土) 13時30分~17時
ところ 江東区東大島文化センター AVホール(℡ 03-3681-6331)

都営新宿線 東大島駅 大島口(新宿方面出口)下車 徒歩5分 
地図は添付を御参照ください。

●話す人
鴨 桃代(菜の花ユニオン創始者)「生きることは たたかうこと」
鳥井一平(全統一労働組合)「外国人労働者と連帯する」
西田 勝(文芸評論家) 「平沢計七と中国人虐殺の意味」

ビデオ上映 「関東大震災の中国人虐殺」 (30分)
資料代 500円 
問合せ 西田勝・平和研究室 ℡ 047-381-4595

http://homepage3.nifty.com/nishida-peace/index.html

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