ようこそ、フォーラム色川のホームページへ

2013.11.11

2013.11.11

みなさま

今回の南相馬は、信州発産直泥付き雑誌
『たぁくらたぁ』取材陣と一緒に来ています。
この春から取りかかっていたのですが、
2011年3月からこれまでの「六角支援隊」の
支援活動記録を残そうとしています。
その大筋ができたので、それを持って「六角支援隊」の
大留さんや鈴木さん、荒川さんに内容のチェックをしてもらうことも、
今回の目的の一つでした。
昨日に続き今朝もまた少し作業を続け、その後鹿島区の小林さんを訪ねました。

以前にもお伝えしましたが小林さんは鹿島区の篤農家で、
仮設住宅建設のために土地を無償で提供されたり、
また「六角支援隊」がビニールハウスや畑を作る時にも
土地を提供してくださり、今年の試験田についても大変ご協力いただいた方です。
小林さんに『たぁくらたぁ』31号ができた時にお送りしたところ
「これはいい雑誌ですね。
仲間や市会議員たちにも読ませたいから、10冊注文します」と言われて
お送りしてあったのです。

するとまた、数日前に電話をくださって
「一枝さん、あの雑誌は本当にしっかり取材して
新聞などで報道していないことも書いてありますね。
原発関係の記事はいつ頃から書いてあるのですか?」と問われ、
2011年春に発行した23号から毎号特集記事を組んでいることをお伝えすると、
バックナンバーを送って欲しいと注文されたのです。

ちょうど出かけてくる2日ほど前のことでしたから、
バックナンバーを持って編集長、
編集委員と共にお訪ねしますと答えたのでした。
私は小林さんの奥さんからも、
郷土食のことを伺いたくもあったからです。
『たぁくらたぁ』の記事の話や、
つい最近小林さんが行ってこられたベトナムのフォンドン大学で催された
「福島フェスタ」の話を伺ったり、郷土食の話を伺って、辞しました。

ホテル六角に戻り昼食後は「六角支援隊」の最年少メンバー、
のぞみちゃんへ『たぁくらたぁ』編集委員と私でのインタビューです。
3・11当時のぞみチャンは21歳。
私が初めて南相馬に来て六角で彼女に会ったのは、その年の8月でした。
そのとき私は、また私以前にのぞみちゃんに会っていた編集委員たちも、
ここにこんなに若い娘さんが居ていいものか、と驚いたのでした。
私がここに来て「六角支援隊」と共に活動する時はいつも、
そこにはのぞみちゃんも居ました。
とても素直な気持ちのいい娘さんで、
感心することが多かったです。
今日はたくさんのことを聞きましたが長文になるのでほんの一部だけ、
どうしてもお伝えしたいことだけを記します。

高校の同学年生は200名程だったそうですが、
ほとんどが他の地で暮らすようになって、
残っているのは他所に就職先が見つからなかったなどの少数の人だそうです。
東京、横浜など関東へ出た友人も多く、
他所に行った友人たちとは電話でよく話すそうですが、
みんな帰ってきたいけれど、原発がある限り戻れないと言うそうです。
のぞみちゃんに、のぞみちゃんは出たくないのかと尋ねると、
はっきりと出たくないと言います。

理由は「ばあちゃん(今年82歳)を置いていけない」と。
のぞみちゃんの家族は両親と姉、
おとうさんの母親であるばあちゃんとの5人家族です。
小さい時から”ばあちゃん子”で可愛がられもし、
また長じてからは母親も姉も勤めに出ていて、
家での留守番はばあちゃんとのぞみちゃんの役割だったと言います。
家族と離れて暮らしたくないと言うのです。
原発事故の影響には大きな不安を抱いてはいますが、
家族とのこの暮らしにまったく不満も不平もなく過ごしているのです。
六角支援隊のメンバーは60代以上の人たちばかり。
そこで20代ののぞみちゃんが一緒に活動していてどんな気持ちだったかを問うと、
「仮設の人たちが支援物資を喜んでくれるし、
お年寄りの役に立つことが嬉しかった」と言うのです。
のぞみちゃんには、ほとほと感心しましたが、
でも一方で、これを美談にしたくはないと思う私も居ました。

昼過ぎまで雨も降っていたのですが、
3時過ぎには晴れてとても冷え込んできました。
昨日お会いした黒沢さんや渡部さんの家が在った、
小高区の浦尻に行きました。
小高区の景色は、小林さんの家からの帰路に見てきた
鹿島区右田浜の景色とはまったく違っています。
小高区は原発から半径20キロ圏内で、
昨年4月16日に警戒区域解除になってから
日中だけ入ることができるようになった地域です。

鹿島区は半径30キロ圏外です。
津波による瓦礫撤去などは、
20キロ圏外は市の管轄としてやっています。
20キロ圏内は国です。
作業ができるようになるまでに鹿島区と小高区では1年の開きがあったとはいえ、
小高区はまだまだ瓦礫が片付いてはいません。
鹿島区ではすっかり片付いて、
それらをリサイクルしての堤防作りが進んでいます。
瓦礫は本当に細やかに仕分けされ、
例えば瓦、廃材、流木、コンクリート、鉄骨、
などなどに仕分けて、それらを物によって異なる大きさに砕いたりし、
土がついているものは洗って土を落します。
流木を芯にして砕いた瓦やコンクリート片を積み、
その上に塩をかぶった田畑の土を剥いでふるった黒い土をかぶせ、
草を生やし、木を植え、防潮の小山を築いているのです。
その仕分け方や、小山の作り方は、本当に見事だと思います。
瓦礫がゴミや邪魔になるものではなく、
リサイクルされて防潮林としての小山になっていくのです。
この様を、私は多くの人に見て欲しいと思います。

小高区に行った私たちは、津波が来るというので
浦尻地区の人たちが最初に避難した、浦尻公会堂へ行ってみました。
避難した人たちは小高い丘の上に建つ公会堂の2階から、
海の方を眺めていたのでした。
公会堂の丘の下、海に続く集落が浦尻です。
真っ黒い壁のような波が押し寄せ、自宅が流されていく様を、
渡部さんはお孫さんが流されるのも、そこで目撃したのでした。                                            
いちえ

画像の説明
画像の説明

a:959 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 4.85
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional