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2014年1月の一枝通信

2014年1月の一枝通信

2014.1.11

みなさま

夕べ参加した学習会に関して、お伝えします。

2003年に中国のチチハルで起きた、遺棄毒ガス事件を覚えておいででしょうか?
日中戦争のさなかに旧日本軍が中国へ持ち込み、
敗戦後に遺棄した毒ガスが入ったドラム缶によって、
作業員や子どもたちが被害に遭い、一人が亡くなった事件です。

またその後2004年にも吉林省敦化でも、遺棄毒ガス事故が起きています。
被害者たちは日本政府の責任を追及し、
被害者救済の政策を採ることを求めて東京地裁に提訴しました。

これらについては、海南友子さんのドキュメンタリー映画『苦い涙の大地から』を、
ご覧になった方もおいでかと思います。
裁判支援のために「化学兵器被害の解決を目指す共同行動」が組織され、私もそこに加わっています。

裁判支援と併せてこれまで何度か化学兵器に関しての学習会も開かれてきましたが、
昨夜はジャーナリストで毒ガス化学兵器に関しては第一人者の、
北宏一朗さんの講演がありました。
演題は「日本軍の毒ガス戦を支えた軍需企業」で、
第一次世界大戦時から今日までのことが話されました。
その中で話されたことの一つを、お伝えします。

第一次世界大戦から100年目第一次世界大戦は2014年に始まりましたが、
日本が毒ガス兵器の研究を始めたのも、第一次世界大戦のさなかのことでした。
「化学戦研究史」に記された小柳津(おやいづ)政雄陸軍中将の手記に因れば
「わが海軍は最初から陸軍と共同して化学兵器の研究を行い、
海軍艦政本部部員海軍中佐本田喜一郎と久村砲兵大佐との間の諒解に基づき、
陸、海軍省間に協定が行われ、終戦に至るまで技術上の共同は勿論、
海軍に於ける陸戦研究当事者と陸軍習志野学校との間にも共同が行われていたことを附記しておく」とあるように、当初から陸海両軍共同での毒ガス化学兵器研究は行われていたのでした。

三井三池染料工場の爆発日本軍の毒ガス戦を支えた軍需企業は、
三井系、住友系、三菱系、古河系、日曹コンツェルン、
保土ヶ谷曹達などありますが、三井三池染料(現・三井東圧)に因って引き起こされたのが、大牟田の「爆発赤痢事件」です。

1937年9月25日夜から、突如として福岡県大牟田市に「赤痢」が発生し、
死者712名、罹患者25,000人以上を出す大惨事になりました。
爆発的に「赤痢」が発生したとのことで「爆発赤痢」と呼ばれました。

7月7日の盧溝橋事件で日中戦争が始まり、
大牟田にある三井三池染料工業所は軍需物資生産にフル活動していました。
9月25日夕方6時頃、三井三池染料工業所のN工場で爆発事故が起き、
黄色の煙が町を覆いました。

直後から風下の住民は、喉の痛み、咳、目眩、高熱
吐き気、下痢、前身の痙攣で、子ども、老人を中心に
次々と倒れ死者も続出しました。
病院は人であふれ、治療もままならない状態でした。

さらに夜中12時頃、2度目の爆発が工場で起こり、
翌日から死者は急増し町中は阿鼻叫喚、地獄図の様を呈しました。
原因調査もされないまま翌日には「水道水による赤痢事件」とされて、
工場の爆発は不問にされました。
三井三池染料工業所N工場で生産されていたのは、
毒ガスの中間薬であるイペリット、ジフェニルシアノアルミンで、
2度の爆発で大量の毒ガスが市内に毒煙となって
大惨事を招いたのではないかと思われますが、真相は今もって判りません。

なぜこれが「爆発赤痢」と呼ばれるのか?
爆発事故から数日後に「赤痢予防薬」9万人分が軍によってもたらされ、
県が住民に配りました。それを服用した住民が、
次々と赤痢を発症しました。赤痢予防薬は、
陸軍軍医学校が満州事変から1年の間に作ったワクチンの一つで、
20万人分が作られました。
これには石井四郎考案の赤痢菌大量生産装置が使われました。
この結果大牟田市民から、いろいろの種類の赤痢菌が検出されることになったのです。
赤痢菌には、株の違いによって、いろいろの種類があります。

大牟田市民から検出されたのは、駒込B菌異型1号、
陸軍衛生部Y菌、北里異型Ⅱ、川瀬菌の他にも、4~5種の株があったようです。
こうしたことから考えても「水道水による赤痢」説には、無理があります。
「赤痢予防薬」で、赤痢菌をばらまいたと考えられます。

真相は闇の中三井三池染料工業所N工場での爆発事故の猛毒で、
大牟田市民被害の実態を隠し、
工場で国際法違反の毒ガス製造をしていた秘密を守る為に、
「赤痢事件」に仕立てたのです。
企業犯罪、国家犯罪であると言えます。
日中戦争のさなか、軍機法改正、新聞紙法27条報道管制、
記事差し止め、軍需工業動員法、国民精神総動員実施要綱などなどがあるなかで、
712名の大牟田市民は殺され、企業も国家も責任を取ることなく、真相は闇の中です。

1970年代に朝日新聞の記者が、この事件について報道しようとしたことがあったそうです。10回連載で書こうと始めたのですが、
ベタ記事で小さく載せられただけで、
連載も4回で記事差し止めで終わったそうです。
そしてその記者は通信部に配置転換、つまり左遷されたそうです。

この事件当時に三池水道科に勤務していた塚本さんという方が、
引責辞任していたのですが、爆発事故当時の克明なメモ(塚本メモ)を残していました。このメモに因って最初の爆発で黄色い煙が、
2度目の爆発で赤い煙が出たことなどからも、
毒薬のイペリットやアカ剤による毒ガスであることが伺われるのですが、
塚本さん自身は、赤痢菌爆弾を作っていたと結論してしまったようです。

昨日まで知らなかったこと私は、昨日この会に参加するまで大牟田での「爆発赤痢」事件のことを何一つ知らずに過ごしていました。保育士の仕事を辞めた1987年から幾度も“満洲”に通い、ハルビンの371細菌部隊跡も訪ね、毒ガスや細菌爆弾にも関心を持っていたつもりでした。けれどもまだまだ知らなければならないことが多くあるだろうと、改めて思いました。

また、昨日の北さんの講演の中で軍需企業の名前が幾つか挙がっていましたが、
その中には日本曹達コンツェルンの名がありました。
現在は東京に本社がありますが、創業時は新潟にあった会社です。
父や母の足跡を追って“満洲”に通う中で、
親しくなった残留婦人に新潟県出身のKさんがいました。
Kさんは夫と共に満蒙開拓団として渡満し、夫は現地招集されました。
Kさんは戦後もそのまま残され、
私はハルビンの老人ホームでKさんに出会ったのです。
Kさんは、日本に居た時には「ニッソー」に勤めていたと言いました。
ニッソーが日本曹達のことと知ったのはKさんがまだ存命中のことでしたが、昨日の会まで私は、Kさんの言っていたニッソーが毒ガス製造に加担していたことには気付いていませんでした。勿論、当時はKさんだって知らなかったことだったと思います。ニッソーが日本曹達だと知った時に私は、どんな会社でどんな沿革があるのかを知るべきだったのではなかったかと、今は悔やみます。

シリア化学兵器今朝の東京新聞に「国際支援で洋上処理 
シリア化学兵器 米ロ日など協力」の見出しで、
シリアで化学兵器の国外搬出が始まったことが報じられていました。
シリアの最初の化学兵器は、政府軍のものだったのか反政府軍のものだったのか、
どちらなのでしょう?化学兵器は、在ってはならないと思います。

今回の洋上での処理は国際協力によってなされるそうですが、加水分解された毒物は海に捨てられるのでしょう。洋上での処理ですから、どんな毒物がどれほどあって、どんな風に処理されるのか、監視態勢にぬかりはないのかが、気になります。秘密保護法が通って、こうしたことのことごとくが秘密にされていくなら、「爆発赤痢」事件はこれからも起こりうると思えます。
経産省前のテント広場での新年の挨拶は、「あけまして 安倍だとう」だったそうです。改めて平和への誓いを胸に刻む、新年でした。            

いちえ

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2014.1.14

みなさま

纐纈あや監督の2作目のドキュメンタリー映画『ある精肉店のはなし』のことは、
昨年秋にも一度、この「一枝通信」でお伝えしました。
今日、私は3度目の鑑賞をしてきました
。観る度に新たな感動を覚えます。皆さんにもぜひ観ていただきたくて、お伝えします。

「いのちを食べて いのちは生きる」『ある精肉店のはなし』は、
大阪貝塚市で精肉店を営む北出一家に取材した映画です。
牛を飼い、育て、屠畜することから精肉として店で売るまでを
一貫して一家総出でやってきた「生産直売」の精肉店です。

「いのちを食べて いのちは生きる」真正面からこの当たり前の事実に向き合った、
優しくいとおしく、美しい映画です。
屠畜を美しいと言うと眉ひそめられるかもしれませんが、
この映画を見ていただければ、
きっとその意味を判っていただけると思います。
家業を継いで7代目の兄弟は、被差別部落ゆえの差別に対して
地域の仲間たちと共に部落解放運動に参加し、
自分たちの意識も変化し地域や家族も変わっていきます。
肉をとった後の皮をなめし、だんじり太鼓に仕立てていく。
そして、だんじり祭り。また、盆踊り。
息子の結婚式。牛の飼育から屠畜、精肉店、
家族4代が囲む食卓という日常のケの日々があって、
こうしたハレの日が一層際立って胸に迫ってくるのでしょう。

祭り太鼓屠場が閉鎖されて「牛を飼い、育て、屠畜し、精肉として販売」
してきた家族も、新たな日々を刻み始めます。
太鼓屋としての生き方を選んだ次男の昭さんの初仕事は、
だんじり太鼓の皮の張り替え。

映画では、太鼓の皮張りの作業も丁寧に追っています。
その行程の中にさりげなく映し出された場面の中に、
この地域の時の流れが窺えます。そして祭りの場面を通して、
また、この地に生きる人々が受け繋いでいく時の流れを思いました。
被差別部落の歴史を「訴える姿勢」によるのではなく、
深く考えさせてもくれるのでした。

監督の纐纈あやさんは、
1作目の『祝の島』で島の人々に寄り添って撮っていった時と同様に、
丁寧に、淡々と北出一家の姿を映し出していきます。あやさんはいいます。
「北出さん家族と一緒にいるときも、地域にいるときも、私は大きな安心感に包まれていた。生まれ落ちた場所で、自分が自分として生きること。それを考え抜き、生き抜いてきた彼らは、しなやかでありながら揺るぎなく、そして果てしなく慈愛に満ちていた。」どうか、多くの人に纐纈あや監督の撮った北出一家『ある精肉店のはなし』を、見ていただきたいと思います。ポレポレ東中野で上映中です。1月17日までは、12:40/14:40/19:00 の上映時間です。映画は108分です1月18日からは、14:20/16:50/19:00の上映時間で、最終日は未定です。名古屋、大阪、京都、神戸などでも上映していますから、是非、是非たくさんの方に観ていただきたくお勧めいたします。

トークの会『福島の声を聞こう!vol.9」のお知らせ2月17日(月)19:00~21:00セッションハウスにて、催します。

ゲストスピーカーは、第1回の時にも話していただいた六角支援隊の大留隆雄さんです。3年目を迎える被災地のこれまで、
そしてこれからの展望を話していただきます。
チラシを添付いたします。平日の夜ですが、みなさまのおいでをお待ちしています。            
いちえ

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* 2014.1.17その1 [#yaa01e8d]

みなさま
「深山の雪」応援団14、15日と、白馬村へ行ってきました。
大熊町から避難している木村紀夫さんの、「深山の雪」を訪ねたのです。
白馬へ行くのは、昨年10月のロケットストーブ作りのワークショップ以来です。

「深山の雪」はロケットストーブワークショップの後日、
食堂に暖房用のロケットストーブを設置しました。
木村さんと、木村さん父娘を支えようと立ち上げた
「深山の雪応援団」で設置したのです。

応援団は、長野のカフェマゼコゼの小池雅久さんと、
「たぁくらたぁ」編集長の野池元基さんが中心になって、立ち上げました。
私は暖房用ストーブの設置には参加できなかったのですが、
それがとても暖かいということは野池さんから聞いていました。ロケットストーブは、薪が燃えた時に出る煙(炭化する過程で発生する燃焼性ガス)を燃料として燃やす仕組みのストーブです。つまり煙を煙として放出してしまわず、煙をもう一度燃やすというわけです。聞いていた通り、とても暖かでした。深山の雪は暖房設備があるのは食堂だけで、木村さん父娘の部屋も、客室も暖房はありません。いえ、設備としては備わっていますが、電力や石油にできるだけ頼らない暮しを目指そうということなのです。そして応援団は、木村さんのその思いに共鳴もしての応援団なのです。

行く前には私は、食堂を一歩出たら、きっとさぞ寒いだろうと覚悟して行きました。でも食堂の他の部屋やトイレなども、そこはかとなく暖かで行く前に思っていたことは杞憂でした。この日、外の温度はマイナス16度でした。暖かな部屋の中から見る雪景色は、本当にきれいでした。

持続可能な『深山の雪』に今回の訪問は、次回のワークショップについての相談でした。前回のワークショップでロケットストーブを作ったことから深山の雪の暖房設置に繋げて行ったように、次回のワークショップがまた、
深山の雪やそればかりでなく地域の活性化に繋げられるようにと、話し合いました。
この話し合いには近所のペンションの方達も参加してくださったのは、
とても嬉しことでした。みんなで夕食を食べながら話は弾み、
食後には舞雪ちゃんのお手製のアップルパイが振る舞われました。それが本当にとっても美味しくて、みんな思わず「これ売れるよ」「売ってたら買うよ」と、口々に言ったのでした。4月からは中学2年生の舞雪ちゃんですが、ケーキやお菓子作りが大好きな少女です。

“便利”には換えられない暮し14日もいい天気でしたが、
15日は真っ青な空でした。暖かい部屋の中から眺める雪景色は、
なんと贅沢な眺めだったでしょう!
そして帰り道で見た、青空の下の白馬岳、
そして八方尾根!中学時代は登山同好会、高校、
大学と山岳部に居て"ヤマンバ”と称されていた私には懐かしい山容でした。
行きも帰りも小池さんの車に同乗して長野と白馬の往復でしたが、
帰路では車窓から飽かずに雪の山々を眺めていました。
途中の中条辺の街道筋には、「限界集落」という名前のラーメンやがありました。

小池さんの話では、その辺りは実際に高齢者が多く限界集落のようです。でもまた、深山の雪応援団に集まる人たちは、Iターンで他県から移住してきた人たちも何人か居ますし、長野県にはそうして移り住んでくる若者が少なからず居るそうです。前日の話し合いに加わった深山の雪の近所のペンションの人たちも、他県から移住した人たちでした。コンビニが近くにあるわけでもなく、ファストフードの店もない、“便利”ではない地ですが、”便利”には換えられないものを選びとった暮しです。白銀の山々を見ながら、考えること多々ある道中でした。         いちえ

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2014.1.17その2

「持続可能な宿作り」応援団ができるまで私が初めて「深山の雪」を訪ねたのは、一昨年の秋でした。『たぁくらたぁ』編集長の野池さんや、編集委員の村石さんと一緒に行ったのです。その時に木村さんからは、電力会社の電気にばかり頼るのではなくもっと別の方法で、持続可能な宿にしていきたいという思いを聞かされたのでした次に訪ねた時は、木村さんのその思いを実現させる為に知恵を出し合えそうな人たちを誘って、行ったのでした。その時に出た一つのアイディアが、ロケットストーブだったのでした。

そして次には、カフェマゼコゼの小池雅久さんが加わって、
「持続可能な宿作り」応援団ができたのでした。
小池さんと野池さんが、応援団の牽引役です。
「持続可能な宿作り」応援団は、木村さん父娘の暮らす「深山の雪」を
応援していくのではありますが、
でもこれはただ単に原発事故被災者支援ということではないと思っています。
応援団の私たち自身が「持続可能な私たちの暮し」を考え、その考えを構築していく場でもあろうと思っています。電力に暮しの多くを頼っていた私たちのこれまでから、舵をきっていくことでもあろうと思っています。そしてまた「深山の雪」が実際にオープンした時には、この宿に来た人たちも共にそうしたことを考えていける場であろうとしています。

ワークショップ特色のある宿作りの一つとして、さまざまなワークショップの場を提供することも考えていますが、これもまたできればその場限りの物ではなく、次に?がる内容であるように、また私たち自身の暮しを考えていける内容であるようにと思います。『深山の雪』での次のワークショップは、「いのちを生かす」をテーマに、狩猟された日本鹿の解体をします。

いのちの共生とは?一昨年の長野県域での野生鹿の頭数は、105,000頭と推測されていました。ハンターによって狩猟された頭数は6,895頭で、特定鳥獣保護管理計画によって捕獲されたのは26,773頭だそうです。信州産の野生食肉(ジビエ)として市場に出されたのは1,500頭だったそうです。「特定鳥獣保護管理計画」というのは、各都道府県が地域の個体群を科学的・計画的に管理し、人との共生を計ることを目的として鳥獣保護法に基づいて立てた計画です。一昨年のこの例を見て、ハンターが狩猟したものがすべて自家用に消費されたと推定しても、25,000頭以上もの野生のいのちが、焼却されたり埋められたりしたのです。ワークショップではこうしたことも考えならが、解体後の皮や角も何かに活かしていく方法をも探っていけたら…と考えています。「深山の雪」の木村さんは、「ここが私の家であると同時に、みんなの場所になっていくようで、それが嬉しいです」と言われています。木村さんの考えている「持続可能な宿」を、私たちも共に我が事として考える、「持続可能な暮し」としていく為の、試みの場になっていくことを願っています。
いちえ

a:1171 t:2 y:0

2014.1.19

みなさま

18日(土)は八王子で開かれた催し、『超自然の大地』上映&クロストーク「福島の農家さんと話そう」に参加してきました。
この映画は原発事故後の3年間にわたって、
福島県内各地(二本松市、喜多方市、南相馬市)の有機農家たちに密着取材したものです。まだ最終的に完成されてはいないようですが、今日は試写版として上映されました。

『超自然の大地』東京電力福島第一発電所の事故によって
、放射能が降り注いだ大地。その現実と向き合い、
けれども耕し続ける農家たちの姿を映し出していました。
それは被害者である自分たちが、「加害者になる」かもしれないという不安を抱えての挑戦でもありました。2011年春、葉もの野菜からは高濃度の放射線核種が検出されましたが、長年有機的に耕してきた土壌は、放射能の作物への移行を低減させる効果があって、その後は多くの作物が「不検出」という結果でした。放射能と向き合う覚悟を決めた福島の農家たちは、ベクレルモニター、ゲルマニウム半導体検出器をいち早く使用し、独自に土や農作物を測定してきました。そして農作物への移行を防ぐ為の実験とその検証を繰り返して、その手法を確立し土地を再生させて、福島の大地を次世代に繋げようとしています。

土の力私は南相馬市現地のボランティア六角支援隊を手伝いながら、仮設住宅で暮らす被災者たちの作る畑や試験田と、そこでの経過を見てきました。採れた作物や米はもちろん、線量測定をしてきました。殆どが不検出か出ても低い値だったのです。昨年の試験田では田植えの時から収穫後まで、国分寺や八王子の市民測定室の方達に関わっていただきました。その時に彼らから聞いたのが、福島県有機農業ネットワークと茨城大や新潟大などの研究者たちとが恊働で、福島の農業の実態調査のことでした。

土には放射能があるのに、そこで栽培された作物からは放射能が検出されなかったというのです。粘土質と腐食の複合体である肥沃な土壌は、放射性セシウムを土中に吸着・固定化して、そのために放射性物質は作物に移行しないというのです。福島原発事故後私たちは、「チェルノブイリでは…」ということを、これからの暮しを考えていく上での視点にしてきました。けれどもこの調査の結果は、チェルノブイリの砂質の土壌と、日本の土壌の違い、またその中でも特に、多様な土壌微生物を多く含む有機農法を営んできた農地の土壌では、作物への移行度が大きく異なることを示していたのです。

六角支援隊の畑も田圃も、予めの除染はしませんでした。またいずれの用地も近くの農家から借りた田畑で、原発事故後の作付けがされないままで置かれていたところです。畑の用地は、以前には有機農法でやっていた農家から借りたものです。試験田の田圃は、田植えの前にゼオライトとカリ肥料を蒔きました。こうしたことが、結果的に良かったのだろうと思えます。

表土を剥ぐ除染は有効か?国は一方的に表土を剥離しての除染を進めようとしますが、それでは剥いだ土は汚染物として積み置かれていくだけです。昨年行った田村市の都路では、除染で出た土や枝葉などの汚染物質を入れたフレコンバッグが、一時的とはいえ歩道に並んで積み置かれていました。また南相馬に行く時にいつも通る飯舘村は、田畑の土を剥ぎ、山の木々を刈って表土を剥ぎ、それらを入れたフレコンバッグは仮々置き場もいっぱいで、そこに運ぶまでの間は畑地に積んであります。フレコンバッグは放射性物質を含むものを入れてあるのですから、それらが積み置かれていたら、その場所は高い測定値を示します。もしもフレコンバッグが破れたら(私は実際に川俣町でそうしたバッグを目にしたことがあります)、地面に染み入っていきますし、雨で流れてもいくでしょう。飯舘村などを見ていると、田畑の表土を剥いで除染しても、雨や風でまた山から放射能は田畑に注ぎます。町中の公園や道路、住宅などは別として、表土を剥ぐ除染は、山間地や農地では必ずしも有効でないばかりか、逆に放射能を拡散させるだけではないかと思います。それは「除染」の名目で、ゼネコンを潤しはするのでしょうが。

お薦めしたい本☆『放射能に克つ農の営み ふくしまから希望の復興へ』   菅野正寿・長谷川浩 編著 コモンズ刊 1,900円+税上に記した土の力は、「ふくしまの奇跡」と呼ばれているそうです。福島さんの農産物を買う、買わない。食べる、たべない。それは各人の判断です。けれどもそうしたこととは別に、原発事故後の農業者の思いを知る上でも是非皆さんに呼んでいただきたい本です。また、映画『超自然の大地』も機会がありましたら、是非ごらん頂きたいと思います。                    

いちえ

a:1171 t:2 y:0

2014.1.20

みなさま

続投をご容赦下さい。

沖縄から、南相馬から、嬉しい選挙結果が届きました。
東京の空は、沖縄に繋がる。家の前のこの道は、南相馬の大地に繋がる。
こんなあたりまえのことを、しっかりと胸に刻みます。
次は東京都知事選挙です。

「深山の雪」応援団のことをお伝えしながら、「持続可能な暮し」を言いました。
「福島の農」をお伝えしながら、
ここでもまた「持続可能な暮し」を言ったつもりです。
これまでにもずっと、先人たちの言葉や各地の先住民の暮しや、
それらから多くを学びながら”わたしたちの今と、これから”を考えてきました。

原発事故後は、なお一層考えるようになりました。
そして、沖縄、南相馬から嬉しい結果が届いた今日は、
昨日までよりもなおなお、そのことを考えます。

向かいたいのは、脱原発のその先の世界私も
「脱原発」を願い、声を上げています。
けれど、原発を止めさえすれば、それでいいとは考えません

原発を止めて持続可能な自然エネルギーに転換すれば、
それでいいとは思えません。
太陽光パネルの売り出しが盛んで、
各自治体で大々的に取り組んだりもしています。

あのパネルの20年後はどうなるのだろう?
原発を自然エネルギーに代えて、
これまで通りの暮しを続けるのだろうか?

原発をやめるのは、その先のもっと大事なことへ進むための大きな、
大きなステップなのではないかと思うのです。
戦争のない暮し、差別や格差のない暮し、
誰もが安寧に過ごせる暮し、そんな暮しを願います。
つまりは、それが持続可能な暮しなのだと思います。

大事なことは何?偽りの大義で始められた戦争に加担し、
やたらな規制緩和で格差を広げ、弱者を切り捨てた、
そんな履歴のある口で唱える脱原発は、
たとえ原発を止めることができたとしても、後がとても不安です。
そんな履歴のある人と組んだ「脱原発」には、私は信頼を置きません。
行政の首長に必要なことは、人気ではありません。
知名度でもありません。
そこに暮らす人たちの命を守る、暮しを守る、
そのために心血を注ぐことではないでしょうか?    

そういう人を、私は選びます。             

いちえ

a:1171 t:2 y:0

2014.1.21

みなさま

ヘイトスピーチ昨年から東京の新大久保や大阪鶴橋などで
ヘイトスピーチデモが行われてきたことを、
報道でご覧になった方もあると思います。

在特会が呼びかけて、行われてきたデモです。
在日韓国人・朝鮮人たちに対して、
そこで発せられる憎悪に満ちた差別発言や人権蹂躙の言葉の数々に、
そうしたヘイトスピーチを止めさせようとして、
多くの人たちが声を上げました
カウンターデモと呼ばれ
カウンターたちがヘイトスピーチ阻止活動を続けてきました。カウンターたちは、「差別は止めよう!仲良くしようぜ」などのメッセージを掲げて抗してきました。京都朝鮮学園が、学校周辺で行われるヘイトスピーチにたいして起こした訴訟で、京都地裁は10月の判決で被告側の在特会に対して、損害賠償を命じました。その後やや下火になったものの、全国各地でヘイトスピーチは今も続いています。

「差別反対都庁前アピール」昨年10月から毎週月曜日夜7時になると、都庁前にはカウンターたちが集まって「差別反対都庁前アピール」を続けています。人種差別やヘイトスピーチを止めるよう、都に訴えています。以前から友人に参加を誘われていたのですが、時間が取れずに参加できずに居ました。昨夜はちょうど仕事のカタがついたので、参加してきました。このアピールはヘイトスピーチを行っている相手に対してではなく、都庁に向けてのものなので、その意味や効果はいま一つ理解できずにいましたが、デモや公共の場の屋外集会は事前に届け出が必要なのでしょうから、在特会のデモ、集会に場所の使用を許可しないで欲しいと言うアピールにはなるのだろうか、と思っての参加でした。行った時には10数人だったのですが、8時半の終了時には40人ほど集まっていました。

夜の都庁を見上げて何人かがスピーチをし、合間にはシュプレヒコール「東京都庁は差別を止めろ!」などの声を上げました。「韓国の日本語学校で日本語を教えています。どの学校のどのクラスでも、必ず一人は日本でヘイトスピーチを見たことがある生徒が居ます。でも,彼らは言うんです。だけど日本が好きだって…」と、後は胸が詰まって言葉が続けられずに涙を拭う青年が居ました。「昨日の日曜日、蕨でヘイトスピーチがありました。自分もカウンターで行きましたが、ヘイトスピーチの先頭は、ハーケンクロイツの?を背負って、腕にもその腕章を巻いた男でした。このヘイトスピーチ参加へのツィッターでの呼びかけには『ハーケンクロイツ大歓迎』って書き込まれていたんです」辛淑玉さんは、「私のところに来るメールには『ゴキブリ、死ね』なんていうのがしょっちゅう来ます。私の友達は、ゴキブリが殺せません。『私たちゴキブリって言われてるもんね。だから、ゴキブリは殺せないよ』って」私はスピーチを聞きながら、シュプレヒコールに唱和しながら、夜の都庁を見上げていました。この建物の知事室に、誰が座ることになるのだろう?と思いながら。社会的弱者、少数者、外国人の声を、しっかりと聞き届ける人であって欲しいと願いました。このアピールに参加して、参加する前とは私の思いは違っています。ここで、日本の首都東京の庁舎の前で「差別を止めよう!」と声をあげることには大きな意味があると、実感しました。退庁する職員や、道行く人の耳に、アピールは必ず聞こえているだろうと思いました。

1月26日(日)には新大久保で、ヘイトスピーチデモがあるとの情報がありました。これを許すのは弱者への虐待を、知っていて見過ごすことだと思います。   いちえ 

2014.1.30その1

みなさま
南相馬に来ています。今回は、当地の伝統食「柿餅」と「べんけい」を
仮設住宅に居る方や地元の農家の方に作っていただき、
作り方を記録していこうと言う企画での第1回目の試みです。
明日、ビジネスホテル六角の台所を借りて、実施します。
これについては、明日ご報告いたします。
荒木さんの話明日、「べんけい」を作っていただく浜野さんのいる
寺内西仮設を訪ねました。浜野さんはちょうど集会所にいたので、
そこに居たみなさんからのお話を聞きました。

各仮設住宅には、社会福祉協議会から委託された会社からの派遣で、
住民の健康状態や安全などを見守るお世話役が居ます。
そのお世話役は、自身も被災者で仮設に暮らしている人の場合もあります。
浜野さんの仮設を訪ねた時に、ちょうどその仮設の住民であって、
他の仮設でお世話役をやっている荒木さんが顔を出しました。
その荒木さんから聞いたことです。

荒木さんが担当している仮設の集会所には、
男性たちも毎日よく顔を出すのだそうです。
私のこれまでの体験では、ヘアーサロンや落語会、
合唱団などの催しや、炊き出しなどでは男性も出てきますが、
普段は集会所に集まってくるのは女性ばかりでしたから
(実際この日に回った2カ所の仮設でもそうでした)、
なぜ男性たちが毎日顔を出すようになったのかを尋ねました。

最初の頃にみんなの家を訪ねて回ったとき、最初に表札を見て、
名前を呼びながら「出てきませんか」と誘ったそうです。
初めは出るのを渋っていた人も、
そうやって何度か誘っているうちに集まってくるようになったと言います。
あるとき出てきはしたものの、
居心地悪そうにすぐに帰ってしまった人が居たと言います。
その人は奥さんを津波で亡くされた人で、
誘われて集会所に出てはみたものの、
みんなのおしゃべりの場には入っていけなかったのだろうと荒木さんは思いました。
この人がみんなの中に入っていけるようにするにはどうしたら良いかと考えて、
仮設の自治会長になってもらったそうです。
自治会長は必要があればいろいろなことを
住民のみんなに伝達しなければなりませんから、

そうしたことを重ねるうちに、沈みがちだったその人は
積極的にみんなの世話をするようになってきたと言います。
荒木さんのような方がお世話役をやっているところでは、
引きこもりから認知症のような症状を
引き起こしていく人も居ないだろうと思いました。

上原さんのこと別の仮設での話です。
上原さんは津波で家を流されましたが、
その寸前にからくもご夫婦とも車で逃れて、
避難所暮らしを経て仮設に入居していました。
仮設に支援物資を配りにいってご夫婦に会い、私は話を交わしていました。
仲のいいご夫婦でした。その後ゆっくりお訪ねして
話を聞かせてもらおうと思い訪ねた時には、
ご主人は大腸がんが発見されて入院中でした。
それでその日は、奥さんから3月11日当時のことを
詳しく聞かせていただいたのでした。

ご主人の術後、しばらくしてだいぶ元気になられたと聞いて、
私は病院にお見舞いに行き、ご主人からもお話を聞きました。
一時はとても容態が悪かったと聞いていたのですが、
その時にはとてもお元気で、一週間後に退院と言われていたのです。ところがその後急変して、10日後に亡くなられたのです。
年が明けて奥さんを訪ね、お線香を上げさせていただきました。
狭い仮設に小さな机を置いて、祭壇を設けてありました。
笑顔の上原さんの写真が飾られ、供物やお花が飾られていました。
「寂しくなりましたね」と言うと「毎日おとうさんの顔見て話してるの」と、
奥さんは言いました。それからも何度かお訪ねしたのですが、
上原さんはだんだん外へは出なくなり引き籠っていると聞くようになりました。

そして噂の通り、留守ではないのに声をかけても出てこなくなっていました。
それでも上原さんの仮設に行った時には、
声をかけるようにしていました。六角支援隊の荒川さんや鈴木さんは
頻繁に仮設を訪ねていましたから、上原さんのことを気にかけて、
何度も訪ねてはいたのです。

上原さんは家にいても荒川さんたちが声をかけても出て来ないことが多く、
たまに顔を見せると「おとうさんとご飯を食べてた」などと
妄想を話すようになっていたそうです。
ある時私も一緒だったのですが、声を掛けると顔を出してくれたのです。
軒に干してあった洗濯物を見て「元気でしたか?洗濯自分でしたの?」と尋ねると、
声を潜めて「だけどこうやって干しとくと、盗む人が居るの」と言うのです。
でも、それも妄想なのです。

その時に荒川さんから、「仮設によってはお世話役の人が
頻繁に声をかけて様子を見ていて、
そのうちに本人が自分で『あの頃は私は変だったね。
誰も盗まないのに、いろんなもの盗られたように思ってたんだ』と
気がつくようになったって」と聞きました。
そのお世話役は、荒川さんだったかもしれません。

お役所仕事荒川さんは社協から委託された会社からの派遣ですが、
社協の職員が詰めることもあります。
集会所には浄水器を通した水道があって住民は飲料水を、
集会所に汲みにきます。ところが集会所に社協の職員が詰めている時には、
12時から1時の間は住民が水を汲みにくることを断っているそうです。
職員がお昼を食べる時間だからだそうです。
ぶさこちゃん小池第3仮設を訪ねると、
黒沢さんがまた「ぶさこちゃん」をたくさん預けてくれました。
2月17日(月)、トークの会でご披露いたします。                いちえ

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2014.1.30その2

もうじき3年目を迎えるのに原町区の小沢は、六角支援隊の荒川さんの家が在る地域です。津波の被害があって流された家も多く、半壊の家も少なくありません。南相馬市の原発から20キロ圏内は、2012年4月16日に警戒区域解除になって、山場の帰還困難区域に指定されたごく一部を除いて、日中は自由に入れるようになった地域です。小沢は20キロ圏内です。20キロ圏内ですから瓦礫の撤去は、市ではなく国の管轄になっています。(20キロ圏外は市です)原町区の20キロ圏外は瓦礫はもう片付いて、畑地の小さな瓦礫のかけらやゴミの片付けもだいぶ進んでいます。初めてそこを訪れた人には、そこが津波をかぶって流された家の礎石だけが残っていたり、船や車、テトラポットがゴロゴロと転がっていた所だとは、想像もできないでしょう。ところが20キロ圏内に位置する小沢の荒川さんの家の辺りは、忘れられたようにほとんど手つかずのままです。20キロ圏内の小高区も、6号線沿い辺は船や車など撤去されましたが、ちょっと奥に入るとまだそのままの状態です。

小高区川原田神社昨年の8月、津波で流された小高区の川原田地区の神社跡に、熊本県人吉市の球磨工業高校の宮大工科の生徒が作った社殿を設置すると聞いて行ったことがありました。宮大工科があるのは、この球磨川工業高校ただ一校だけだそうです。社殿設置の日はあいにくの雨でしたが、九州、北海道、新潟からの神社の方たちや社殿を作った球磨高校の生徒や指導した先生、地元小高神社の関係者たち、そして川原田地区の住民たちが集まって粛々と設置式が行われました。式の中では、川原田地区の区長さんからのお礼の挨拶もありました。区長さんからは、被災前には37戸あったそうですが、たぶん戻るのは10戸くらいかもしれないと聞きました。社殿設置式の日の、区長さんの挨拶です。

「地震と津波、そして原発事故によって、仮設住宅や他の地で避難生活を余儀なくされて、コミュニティもばらばらになりました。けれども今日、熊本の高校生たちがこんなに立派な神社を作って下さって、これは絶対に残します。また天草の宮崎さんは被災後の日難所生活をしている時からずっと支援して下さって、こうしてようやく我々はここまでこれました。これからは我々は立ち上がって行きますから、どうぞ見ていて下さい。ほんとうにありがとうございました」

また行ってみた川原田地区は、津波を受けたあの3月11日の姿のままでした。けれども青空の下、そこだけは玉石が敷かれて清められた場所に、昨年8月20日に設置された球磨高校の生徒たちが造った社殿が、静かに建っていました。

つい先日仙台の友人から、多賀城の東北歴史博物館で開催された「神さま仏様の復興ー被災文化財の修復と継承ー」のことを聞いたばかりでした。またその時に彼からは、双葉町の双葉小学校敷地内にある清戸迫横穴墓群遺跡のことも知らされました。そこは3・11以前には、地元の人たちが大切に日々保存活動を続けていた遺跡です。東京電力の原発事故後、双葉町町民が町に入れるのは年に数回の一時帰宅の時だけです。その時に滞在できる時間は、スクリーニング会場の中継基地で受付を済ませてからまた受付に戻るまで5時間という、限られた時間数です。それまで地元の人たちの手で大切に守られてきた、自らのアイデンティティを伝える縄文期のこの遺跡も、存亡がとても危ぶまれます。原発事故に因って故郷を奪われると言うことは、その地に流れた歴史的時間をも、こうして奪っていくのです。川原田地区に設置された社殿と、この後その社殿を守り続ける人たちによって、小高区川原田の歴史が語り継がれていくようにと祈りました。

小林さんの話「柿餅」作りをしてくださる小林さんを訪ねました。小林さんは昨年の六角支援隊の試験田や畑、ビニールハウスなどに、尽力してくださった鹿島区の農家さんです。小林さん自身は、昨年は米作りをしませんでした。今年は農協では作付けの方針を出したと聞いていたので、小林さんに状況を伺いました。鹿島区の農家さんは、作付けする人としないと言う人とに2分されているそうです。作らないと言う人は除染していない田圃で米を作って、もし放射能が検出されたら捨てなければならないから、労力が無駄になる。だから作らないで補償金を貰うというのです。作ると言う人は、除染していないけれど昨年の試験田で放射能が出なかったと言う例を聞いているし、だから作る。もし放射能が検出されたら、賠償してもらうというのです。

これだけを聞けば、作らないと言う人は楽してお金を貰おうとしていると思います。昨年の六角支援隊の試験田も、除染はせずに田植え前にゼオライトを撒いてやったのでした。収穫後の検査では玄米からは、1キロあたり16bq(国の基準は100bq以下)でしたが、精米したら6bq、洗って炊いたら検出せずでした。田畑は、耕さなければ、どんどん荒れていきます。用水路は水が流れていなければ、モグラが穴をあけていきます。“作る”“作らない”と、農業者の気持ちは2分されていると聞けば、どうか作って畑地を守っていって欲しいと思います。

けれども、それに続けて小林さんから聞かされた言葉には、米を作るか作らないかは、ただ鹿島区の農業者の問題ではなく私たちが考えていかなければならない問題ではないかと思い直しました。“作らない”と言う人の中には、若い世帯が福島を離れて暮らすようになった今、後継者が居ずに米作を続けていくことは無理だとの思いもあると言うのです。福島の農業者からの、SOSが聞こえてくる言葉でした。 

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