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2014.2.1

2014.2.1

ポニョ、またはホニョ、あるいは穂仁王私が南相馬に通い始めたのは、
2011年の8月からのことです。
南相馬へは福島まで新幹線、福島からはバスで南相馬へ向かいますが、
その年の11月までは、バスは福島駅を出ると伊達市の霊山(りょうぜん)を抜け、

相馬市を通って南相馬へ入っていました。原発から30キロ圏内では、
田圃は雑草が茂っていましたが、
秋になると伊達市、相馬市では稲穂が黄金に実っていました。
そして刈り入れ後の稲の干し方が、

それまで私は見たことのないやり方だったのです。
苅田にとんがり頭の稲束坊主が、並んでいるような風景でした。
写真をお見せできないのが残念ですが、
カーテンの様に横並びにずらりと稲架掛けにするのではなく、
棒杭を立て、その下の方に横木を渡し、
十字架を逆さまにしたようなものを苅田に立てます。
その十字に交互に稲束を掛けていくのです。そうして稲束が重なっていくと、
まるで藁人形が立っているように見えるのでした。

その藁人形が、ほとんど等間隔に並んでいる風景は、
まるで稲束坊主が“前へならえ”をしているように見えるのでした。
その稲の干し方を穂仁王、それがなまってポニョ、ホニョと呼ぶと知ったのは、
その翌年のことでした。あるとき児童書の出版社が出しているPR誌に、
巻頭エッセーの依頼があって、私はポニョのことを書きました。
それを読んだ方から、出版社を経由して手紙が届きました。

南相馬市出身で結婚して小高に住んでいた方からでした。
原発事故後に、小高から飯坂に避難しているという鈴木さんという方からでした。
鈴木さんと手紙のやり取りが始まり、ある日鈴木さんから届いた手紙に「柿餅」のことが書かれていたのでした。音で「かきもち」と聞けば煎餅の「おかき」“かきもち”を思い浮かべますが、文字通り柿を搗き込んだ餅だと言うのです。
どんなものか、まったく想像がつきませんでした。
鈴木さんの手紙には、故郷の思い出の味であることが綴られていました。いつか「柿餅」を食べてみたい思いと、またいつか、鈴木さんに柿餅を届けたい思いが私の内に生まれていました。

柿餅昨年の夏頃から南相馬に来るたびに、仮設の方達に「柿餅」のことを訪ねていました。「固い干し柿を、餅に搗き込む」というのが、誰しもが言うことでした。中には、柿の皮も入れたと言う人も居ました。餅米にうるち米を混ぜるという人もいれば、餅米にうるち米の粉を入れるという人も居るし、餅米だけという人も居ました。つまり、郷土食といえども、郷土の人たち誰もが同じように作るのではなく、それぞれのやりかたがあるのです。

津波で家も畑も流された浜野さんは、農作物を出荷もしていましたが産直もしていて、冬には凍み餅、柿餅も作って売っていたと言いました。浜野さんの凍み餅、柿餅はかまぼこ型で、どうやってそれを形作るかというと、搗いたもちは雨樋に入れて固めるのだそうです。固まったら雨樋から外して切るのだそうです。「わ(私)が作んのはうめぇからな、よ?く売れたよ!」と浜野さんは言います。でも今回は浜野さんには「べんけい」をお願いして、「柿餅」は小林さんに作っていただきました。

夕べのうちに餅米2升を洗って、水に浸しておきました。今回は餅米だけにして、柿の皮は使わず干した柿だけを使いました。餅米は二本松市東和町の有機農家から、買ったものです。干し柿は固く固く干してあるものということでしたから、長野県の市田柿を我が家でさらに何日も干してカチンと固くなっています。小林さんはせいろ、電気餅つき機を持参して来てくださいました。

①干し柿のへたと種を取り除き水で洗って、ざるにとって水を切ります。
②餅米の水を切ってせいろにいれ、種とへたを取った干し柿をせいろの餅米の上に載せて、蒸す。
③濡らしたしゃもじを縦に突き入れてみて抜いたとき、米がしゃもじに付かずにすっと引き抜けたら蒸し上がった証拠!

④電気餅つき機に入れて、搗く。搗き上がると干し柿はすっかりこなれて餅に混ざっていて、餅は薄い小豆色。

⑤片栗粉をしいた台の上で、搗き上がった餅を伸す。
⑥柔らかかった伸し餅が固くなってから、小さく切る。

柿餅は焼いたら何も付けずに、そのままを食べます。ほんのりと甘くて、とてもおいしいものでした。柿の皮も使ったと聞いていましたが、皮も干したものを使ったそうです。これは想像ですが、干し柿を作るには渋柿の皮を剥いて干します。その時に剥いた皮は漬け物に入れたりもしますが、柿餅にも使ったのではないでしょうか。屑を出さずに無駄なく使う知恵だったと思います。

べんけい里芋の茎を干した芋がらは、東京で私が買って持ってきました。
農家だった浜野さんは被災前には里芋も作っていましたから、芋の茎も自分で干して芋がらにしていました。そうやって、この辺りの農家は芋がらも自分で作ったものを使うことが多かったようです。今はこの辺りでは芋がらも手に入らず、私が用意して来たのです。生の里芋の茎は“ずいき”、干したものを“芋がら”と呼び分けると、浜野さんも小林さんも言っていました。私はどちらも“ずいき”と呼んでいましたが、そうではなかったようです。

①大根(今日は使ったのは“おでん大根”、浜野さんが仮設の畑で作ったものです)は皮をむいて暑さ5ミリ弱のいちょう切り。
②人参も皮を剥いて、やはり5ミリ厚さの半月切り。
③芋がらを水に浸して戻しながら、もみ洗いをする。使う芋がらは白い茎、赤い茎どちらでもいいし、混ぜてもいい。
④柔らかくなった芋がらを切る。
⑤鍋に油をまわし入れ、大根、人参を炒め、芋がらも入れて炒めまぜ酢、砂糖、醤油、だしの素で味付けをして、刻んだ唐 辛子も入れ、更に汁気がなくなるまで炒める。

べんけいは酢が入っているので保存もきき、常備菜としてこの辺りではよく作られていたそうです。昔、源義経が弁慶と共に平泉の方へ逃れたときに、地元の人がこれを作ってもてなしたとか…。それで、“べんけい”とも、また“源平炒り”とも呼ぶそうです。初めて食べたべんけいでしたが、どこか懐かしい味がしました。

上野敬幸さん私が“べんけい”という食べ物の名を知ったのは、
上野敬幸さんの話を聞いていた時でした。
上野さんは、両親と二人の子どもを津波で流され、

お父さんと坊やはまだ見つかっていません。家は裏の杉木立のおかげでからくも流されずに半壊でしたが、近所の家々はすべて流され、周辺の畑も波に覆われました。被災後ずっと上野さんは、自分の家族だけではなく行方不明者の捜索活動を続けています。その上野さんと話をしていた時に、彼が言ったのです。「このごろトマトを食いたいなぁって思うのよ。トマトなんてスーパーでもどこでも売ってるけど、そんなんじゃなくて家の畑で採れたトマト。全然味が違うんだよ。それから“べんけい”も。べんけいなんて日本中どこでも食ってるものだと思ってたけど、違うんだってね。あれはこの辺だけの萱浜の郷土食だったんだって。知らなかったけど、そうだって言うよ」浜野さんも萱浜の人で上野さんと家は近く上野さんのお母さんとも仲が良かったし、浜野さんの息子さんは上野さんと共に消防団の活動をしていました。今回、浜野さんが作った“べんけい”を、上野さんにも届けようと思いました。上野さんの家を訪ねたのは、もう暗くなってからでした。壊れた家の隣に新たに家を建て、奥さんと、被災後にうまれた次女のさりいちゃんと3人で暮らしています。家の前には電飾で「わらいあえるところにします」の文字と、笑顔がきれいに輝いていました。                               

いちえ

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