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2014.3.25その2

2014.3.25その2

相馬野馬追私が南相馬に通い始めたのは、2011年8月からです。その年には何人もの人たちから、「たった一日だったけど、野馬追が出来たんだ」と聞きました。従来なら3日間続く神事ですが、震災・津波、そして原発事故のあった後でしたから、開催するかどうかも危ぶまれたそうですが、規模を小さくして、以前なら500騎で行われるものを、わずかに80騎の出馬で行われたのでした。誰もがそれぞれの思いを抱いての、「野馬追が出来たんだ」の言葉だったことでしょう。「野馬追を見たい!」と思いました。

翌年7月、念願の野馬追を見ることが出来ました。
騎馬武者は、総勢400騎だったと聞きます。旗指物を背に掲げた騎馬武者とお付きの者たちの行列は、催事場までの道に延々と続きました。3日間の神事に触れることが出来て、私はそれまでよりも少し深くこの地を知ることが出来たように思えました。この時には、父と息子の二代で騎馬武者となった村上さんのお宅に朝から伺って、馬の衣装付けから始まりお二人の着付けも拝見し、出陣式も拝見できたのでした。

たった一人残されて25日午後お訪ねした菅野長八さんも、長く野馬追に関わってこられた方です。津波でご家族を4人を亡くされ、お母さんと息子さんはまだ見つかっていません。初めて南相馬を訪ねた時から菅野さんのことは聞いていたのですが、なかなかお訪ねできずにいたのでした。

3月11日、大きな地震が起きた時、郵便局職員だった菅野さんが昼の休憩時間を追えたのは、2時45分でした。集荷の業務に掛かろうと駐車場に出た時に、立っている事も出来ないほど、地面は大きく揺れたのでした。揺れが収まって軽四輪車で集荷に回っていた時に津波を確認して局に戻り、状況を話してすぐに帰宅しました。水や瓦礫が流れて道路も行けないような状況の中を行き、家の方を見ると、在った筈の家々は流されてみんな無くなっていたそうです。そこから家族の安否を尋ねて避難所や親戚の家を回り、翌日は朝から自宅周辺を探して回っていて、娘さんが乗った車を発見したのでした。原発事故後、地区では17日に避難が決まり、留まって家族を捜したいと思っていた菅野さんですが、「残って被曝したら家族の供養は誰がするのだ」と諭されて、菅野さんも泣く泣く、みんなと共に新潟に避難したのでした。早く戻って3人を捜したいと、他の人より先に避難先から戻って姪の家に身を寄せながら、遺体安置所を探して回ったのでした。

野馬追と共に生きるあの日からの事を縷々話して下さった菅野さんが、ふと姿勢を変えて胡座になると、傍らのアルバムを開いて見せてくれたのです。アルバムは何冊もあり、それは野馬追と共にあった菅野さん一家と友人たちの歴史をも語る写真の数々でした。「これを見てください」と言って立ち上がった菅野さんは、壁に飾られた額入りの八つ切り写真の中の一枚を手に取りました。モノクロの写真に写っているのは甲冑を付けた騎乗の武者、その後方に小さな坊やが武者を見上げています。菅野さんは馬上の武者を指して「これは親父なんです。そしてこれが私です」と、見上げる坊やを指しました。菅野さんが、4歳か5歳の頃だそうです。そう話す菅野さんの表情も声も、さっきまでよりずっと精気が満ちてきたように思えました。

野馬追は、この地に生きる人たちにとって、暮しに欠かせない大切な祭事だからこそ、辺りが瓦礫の原であった被災の年も「たとえ規模はちいさくても」と、催されたのでした。菅野さんが子どもの頃には家に農耕馬もいましたし、祖父の代から野馬追に参加してきた菅野家でした。21歳の時にお父さんに死別した菅野さんですが、見せて下さった写真からも判る通り、菅野さんにとって野馬追は、子どもの頃から暮しに根付いた祭事でした。菅野さんも20代の初めから野馬追に参加してきて、一家を構えてからもまた、家族ぐるみで野馬追に関わってきたのでした。菅野さんの陣羽織や袴等の衣装は和裁が得意なお母さんのハルヨさんが縫ってくれたものでしたし、たくさんの甲冑、装束の中から、その年に身につけるのを選んでくれるのは奥さんのまち子さんでした。息子の武身さんは馬の世話や馬具の管理をしてくれましたし、娘のあゆみさんはまち子さんを助けて家事等よくやってくれていました。菅野さんが野馬追に専念できるように、家族みなが支えてくれていたのでした。4人を喪い自分一人残されて、ためらう気持ちもありましたが、けれども菅野さんは、被災の年の野馬追に、一騎馬武者として参加しました。出るようにと促す、家族の声が聞こえたような気がしたのです。衣装も鎧兜もすべてを津波で失った菅野さんでしたが、それらを貸そうと言ってくれる人も現れたのでした。菅野さんがこれまで野馬追を通して築いてきた、多くの友人や知人が手を差し伸べてくれたのでした。

野馬追には、いろいろな決まり事や役割があります。2012年、400騎で開催された野馬追に、菅野さんは侍大将の地位へ復帰して参加しました。騎馬武者は、誰もが自宅から出陣する決まりにもなっています。侍大将になると、家来の者が「お迎えに上がりました」と自宅まで迎えに来るのです。すると侍大将は、自宅に設えた祭壇の前で法螺貝を吹いて出陣するのです。侍大将の菅野さんは、この仮設住宅から出陣したのでした。仮設の皆さんからの大きな拍手で、送り出されたそうです。

この地に生きる人たちにとって1000年以上連綿と続いてきた野馬追の祭事は、生きるよすがともなり、生き甲斐ともなっているのでしょう。         

菅野さんは、震災当日からの日々を記録した大切なノートを貸して下さいました。そして、「伝えていくのが自分の使命だと思ってもいます。何でも聞いて下さい。ざっくばらんに話します」と、たくさんを話して下さいました。この「一枝通信」では、話して下さった事のほんの一部、野馬追の事を記しただけですが、いつか「トークの会 福島の声を聞こう!」で、皆さんに直接語って頂くつもりです。                

いちえ

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